6.可愛いものってお金が掛かるのよね
「べ、ベリル⋯⋯!さすがに騒ぎになってきたぞ⋯⋯!」
「⋯⋯もう壁飛び越えましょうか、面倒臭い」
女の叫び声やジークベルトの悲鳴に釣られて、近くのアパルトメントの窓から住人がちらほら顔を覗かせていた。門衛も流石に女を警戒している。
何を仕出かすか意図不明の人物と相対しているのだ、ベリル一人(と一匹)が逃げた所で誰もが納得してくれるだろう。門衛が女に注視してくれるなら、その分目の前の壁も越え易くなる。
問題は、目の前で炯々と瞳を光らせている呪術師だ。膝を突いているのに、今にも飛び掛からんとばかりなのだ。
身体操作で逃げ切れる筈だが、相手から何が出て来るか判らない以上、迂闊に背中を見せる訳にもいかない。どのタイミングでも動き出せる様に、全身に魔力を行き渡らせるだけはしておく。
何故かジークベルトでは無く、ベリルから目を逸らす事なく、ふらつきながらも立ち上がった女は、歯を剥き出しにして吠えた。
「お前がぁ!!!」
そして、首から提げていたペンダントをばりばりと噛み砕いた。
「は?」
ベリルの目から見て、そのペンダントは金属製で、どう考えても人間の歯で噛み砕けるものでは無かった。それなのに、女はペンダントの金属を、口から血を流しながらも無理矢理に噛み砕いて嚥下して行く。恐ろしいのは、その間瞬きすらせずに感情の無い目でベリルを見詰め続けていた事だ。
その異常行動は、正面に立つベリルしか見ていなかっただろう。門衛は女の後方、衆目は距離的に何を齧っているか判らなかっただろう。
そうして金属をあっという間に食べ終え、最後に残った赤玉をそのまま呑み込んだ。
遠目から見ても大きな石だった。そんなものを呑み込むのは一苦労だったのか、両手を口に押し当て、肩で息を整えている。息苦しいのかベリルを見詰める目も、目尻に赤い涙が滲んだ。
(⋯⋯赤?)
両目からはもう涙とは呼べない赤が、どろどろと流れ出ていた。赤は重力に逆らわず、女の足下に滴り落ちて行く。
「ふひっ⋯⋯ひひひっ、ひひひっ」
不意に女が嗤い出した。
顔をベリルにひたと向けたまま、腹を抱える様に嗤いながら前に傾いで行く。
ぐうぅ、と、不自然な体勢で折れ曲がって行く女の嗤い声は徐々に甲高い音へと変わって、通りに響き渡った。
その時、遠巻きに見ていたアパルトメントの住人が、怯えた様な声をあげた。
「な、なんだ⁉︎」
「膨らんでる⋯⋯⁉︎」
その声で気付いたのだが、女は前傾していた訳ではなく、背面が膨張していたのだ。正面から見るよりも、上から俯瞰で見る方がその事に気付き易かった。
それにベリルが気付いた時、己の失策を悟った。女が謎の変貌をしている以上、悠長に隙が出来るのを待つのは得策では無い。
(⋯⋯出遅れた!)
ベリルはジャケットの隠しに手を入れ、中に入っていたものを予備動作無しで、そのまま真っ直ぐ女の顔に投げつけた。身分証である。
小さな手帳型のそれは、はたはたとページが開いて女の視界を覆い、小さな隙を生んだ。
本当に一瞬のラグだったが、身分証の投擲と一緒に地面を蹴っていたベリルは、一足で女の横をすり抜け、壁へと跳躍した。
中級区画の建造物よりも遥かに高い隔壁だが、壁をニ歩蹴れば余裕で越えられる。ベリルは一歩目を高く跳び上がった。
(うっ⋯⋯⁉︎)
突如後方から生暖かく、生臭い空気が漂い、ベリルは思わず動きを止めてしまった。それは本能に近い。
振り仰いだ目の端に映ったのは、鋸状の牙がびっしりと生え揃った「なにか」の口腔内。
「なにか」は口が大きく裂けた女の顔だった。背中から脊椎がにゅうと飛び出して、長く伸びた女の頭部がベリルのすぐ近くに迄迫っていた。
衆目の悲鳴と門衛の怯えた絶叫は、空中で硬直したベリルに対してのものではない。ベリルに迫る「なにか」に対しての恐怖なのだ。
「ベリル‼︎」
「うわっ⁉︎」
「ぎゃっ⁉︎」
背中に貼り付いていたジークベルトが、鋭くベリルの名を呼んだ。それと同時に、鼓膜を震わす程の轟音が辺り一体に響き渡った。
耳を劈く警報音。あまりの音の大きさにベリルの硬直も解ける。
「なにか」も音に驚いて頭を体に戻して(それでも脊椎は身体に収まっていない)頭を振っていた。耳鳴りが酷いのだろう、分かる。
空中で体勢を崩して落下していたベリルは、慌てて体勢を立て直して石畳へと着地した。
そして未だにうるさい音が鳴り響く、自身が背負った荷物のストラップを引っ張った。
「危なかったな、ベリル!」
「何ですかこの音‼︎うるせぇ‼︎」
背嚢に詰まった師匠は誇らし気に胸を張った。その手には何故かフリルの付いたリボンが握られている。
「実はこの背嚢には、多種多様な機能が備わってるんだ!例えばこのリボン!千切り取る事で警報器が鳴る!それに荷重軽減、水濡れ対策、強度、衝撃吸収、どれも万全だぞ!」
そう言って、ヌフフと得意げにリボンを背嚢にぺたりと付けた。そこが何かのスイッチになっているのか、警報音はぴたりと止まった。
「なんで警報器」
「誘拐対策に決まってるだろ?可愛過ぎるんだから」
「せめて過去形にしろ」
しかし機能から見ても高価な代物である。ジークベルトがわざわざ魔方陣を刻んだのだろう、まさに一点ものの背嚢である。箪笥の肥やしになっていたが。
「それにそれに、本体は勿論、ストラップと口紐に至るまで布に魔法合金を折り混ぜて注文した至高の逸品なんだぞ!」
「改造じゃなくてまさかのオーダーメイド!幾ら掛けたんだその肥やしに‼︎」
金と技術の無駄遣いとはこの事だ。魔法合金なんて価格は高い割に、魔法伝導率がまあまあ良いだけなので、安価な魔法補助具になるくらいしか使い道がない。
その分の金銭を食費に回せていればと、思わず頭を抱えたベリルだったが、ここでふと思い至った。
「⋯⋯魔法合金?全部?」
「そうそう、すごいだろ?」
「⋯⋯⋯⋯成る程?」
とある可能性に望みを見出したベリルは、手早く作業を開始した。未だに「なにか」は頭を振って悶えているから、良い機会だ。
まずは指先を魔力で超高温に熱して、ストラップの下を本体から切り離した。そしてストラップに装着された金具を使い、長さを思い切り伸ばした。その際、本体に詰まったままのジークベルトが無情にも地面に落ちたが、無駄に性能の良い袋が痛みと衝撃からジークベルトを守ってくれた。
そして切り離された2本のストラップの端と端ををしっかりと結び、輪になる様に固定する。
(これで持ち易くなった)
「な、何する気だ?」
「⋯⋯ジーク様、危ないですから手も仕舞っておいてください」
「なにか」はやっと耳鳴りが治まったのか、骨の鎌首をもたげて此方を警戒していた。女の体もまた変貌を続け、手足が短くなった代わりに、スカートから鱗の生えた尻尾がぬらぬらと飛び出ていた。
(首だけ見たら、蛇みたいになったな)
蛇の捕食速度が目視で捉えられないと云うのは、有名な所である。先刻、あの距離を一瞬で詰められたのも頷ける。
逃走の困難さを改めて確認し、周囲の状況を見回した。
アパルトメントの観客は先程よりも増えている。警報音で呼ばれたのだろう。皆一様に怯え切って「なにか」を見ている。
そして通りにも観客がちらほら現れた。街の警備兵も多数居るが、全員遠巻きにしている。中級区画の兵士に魔力持ちが配属されているとは思えないし、上級区画の魔法兵待ちだろう。
肝心の魔力持ちの筈の門衛は、門を完全に閉ざして上級区画側に籠ってしまった。大変残念な話だが、此処の門衛に配属されるのは根性の無い貴族の三男以下という話である。きっと向こうで蹲って震えているのだろう。
門衛からの応援よりも、警備詰所からの連絡の方が宛になるとは、もっと実力と経験を鑑みて配置して欲しい。
「ジーク様は錘ですからね。何もしなくて良いですから」
「ほ、本当に、何するつもりなんだ?」
「決まってるじゃないですか」
ベリルは握り締めているストラップに、練った魔力を注ぎ込んだ。
「迎え撃ちます」