5.一部で持ってる男
通りの端に佇む女は、『何の変哲もない』という言葉がぴったりの女だった。
中肉中背、枯れ葉色の髪も、継ぎ接ぎのエプロンドレスも、上級区画に近い中級区画では中々見ないが、珍しいというものでもない。
「⋯⋯本当にあの女性ですか?」
「間違いない!⋯⋯なんだ、百戦錬磨の私の目に狂いは無いんだぞ?」
「⋯⋯百戦錬磨⋯⋯?」
「何の?」と、ベリルはつい胡乱な目を向けた。師匠は人を見る目は持っているかもしれないが、女性を見る目を持っているとは思えなかったからだ。
その一瞬、女から気を逸らした訳だが、その一瞬で女がこちらに意識を向けていた。
「⋯⋯⋯⋯!」
首だけをぐるりと回して此方を見詰めるその姿は、良くある何気ない動作だろう。それでも拭い去れない違和感は、きっと此方を見詰める眼差しだ。
瞼を見開いたその瞳には、何の感情も窺えない。それなのに纏わりつく様な眼差しで、じぃっと動かずに此方を見詰める様は異常と言う他ない。
「や、やっぱり彼女で間違いない⋯⋯!」
「そうですね⋯⋯できれば気付かれたくない相手でした⋯⋯」
呪術と云うものは、基本は対象者と接触する事が発動条件となるらしい。それ故、呪術師との立ち合いは非接近が定石だ。
女は門に近い街灯の下に立っているので、ベリル達が門を通る為には、女のすぐ横を通らねばならない。壁の向こうに行く為の手段はこの門しかない。
(脇道に逸れて壁を乗り越えるか⋯⋯?でもなぁ⋯⋯後が大変そうなんだよな⋯⋯今回は公爵家に連絡入れちゃってるし)
有り得ない話だが、アポイント無しの訪問ならば見付からなければ問題は無い。一度だけやった壁の乗り越えも、誰にも知らせずに仕出かしたので、未だに誰にも知られていないのだ。
これは、すわ貴族の顔に泥を塗る事態かと壁を見上げた時、女の瞳に感情が灯った。
「ああっあああっ!」
狂った様に奇声を発し、女は空を掻くように両の手を動かしながら素早く躙り寄って来た。
その動きからは有り得ない速度で、女は一気に距離を詰めて来る。
「あああああっ」
「うっ⁉︎」
一瞬でも気を逸らしたのが良くなかった。女の行動に、呆気に取られたのもある。
女の爪がジャケットの釦に掛かる寸前、ベリルは瞬間的に魔力を練り、一気に飛び退った。
「きゃあっ」
大きく掻いた右手を空振りした女は、そのまま体勢を崩し、悲鳴を上げて石畳に倒れ込んだ。側から見たら、まるでこちらが乱暴を働いたようである。
何事かと此方を窺う門衛の視線を感じ、ベリルは無意識に距離を取った。
俯せに倒れた女は、石畳をがりがりと爪で引っ掻きながら顔を上げた。思い切り力を込めたのだろう、指の形に血の跡が残った。
そして、咽喉を絞るように叫んだ女に驚愕する事となる。
「ああっ⋯⋯ジークベルト様⋯⋯‼︎」
恋しい男を求める様に手を伸ばした女の顔は、ぞっとするほど狂気染みていた。
「此処で待っていれば、またお会いできると信じておりました⋯⋯!運命ですね、ジークベルト様!」
「ひぇっ⋯⋯⁉︎」
「⋯⋯失礼ですけれど、貴女はジーク様に害意を持っているのでは?」
ベリルの問いに、女は石畳を思い切り拳で殴った。がつんと嫌な音がしたので、拳を痛めたに違いない。背中越しに、ジークベルトの震えが伝わって来た。
「そんな訳無いじゃない‼︎私はジークベルト様をお慕いしているの!」
「えっ⁉︎そうなの⁉︎」
「⋯⋯その割には、可笑しな状況になってますけど?」
「私と云う存在がいるのに、ジークベルト様ったら他の女に現を抜かすのですもの⋯⋯うふっ、その姿ならずぅっと、私のジークベルト様でいてくださるでしょ?」
「ぴぇっ⁉︎」
うっそりと笑う女の目に、ベリルは映っていない。確実に頭はいかれているが、ジークベルトを愛していると言うのは真実なのだろう。趣味が悪い。
ベリルはまず自分の耳を疑い、女の目と頭を疑い、そしてジークベルトと云う存在を疑った。
ジークベルトと云う男は見た目が良かった。中味はどうしょうもないおじさんだが、顔はまあ整っていたし、長身で手足は長く、黒曜石の様な頭髪と瞳、おまけに口が上手いので(彼をよく知らない)女性達を魅了していた。
ベリルは改めて、目の前に倒れた女を眺めた。
愛嬌のある顔立ちだが、化粧気のない、どうも野暮ったい垢抜けない女だ。継ぎ接ぎのスカートばかりに目が行っていたが、よく見れば履いた布靴は解れている上にサイズが合っていない。首から提げた大振りのペンダントが唯一の装飾品だが、付いている赤い宝石が無骨で可愛らしいものでもない。
そう、なんというか、まあまあ可愛いけれど異性との付き合いが有るとは思えないタイプだ。こういうタイプは思い込みが激しい人が多いし、きっとジークベルトの見た目と話術に騙された口に違いあるまい。そして思い詰めたこの女性は、呪術と云う禁忌に手を伸ばした。こんな所だろう。
そこまで考えて、ベリルはなんだかどうでもよくなってきた。
「良かったですねジーク様、なかなか可愛らしい女性ですよ」
「え⁉︎何言ってるんだ⁉︎」
「だからモテ期です。ようやっと来たんですよ、春が」
おめでとう〜と、投げやりにベリルは祝った。適当な拍手が寒々しい。それに受け入れて仕舞えば元の姿に戻れるだろうし、万々歳ではないか。
「は、春⁉︎」
ベリルの背中に貼り付いて隠れていたジークベルトは、そろりと弟子の肩越しに頭を出して女を観察した。
ジークベルトと目が合った女は、嬉しそうに「にまり」と笑みを浮かべた。弓形に歪んだ目付きは粘着的な執着を窺わせ、ぽっかりと開いた双眸は底無しだ。昼間に会った時は目が合わなかったので気付かなかったが、正しく「異常者」である。
そんないやらしく纏わり付く視線を感じ、ジークベルトを怖気が襲った。ぶるりと体が震え、背嚢の奥に仕舞い込まれた尻尾が一気に総毛立つ。そして無意識に、そう思わず、ジークベルトは本音を大きく叫んでしまった。
「む、無理!」
「っ⁉︎」
「私は追われるより追う恋愛をしたいんだ!それに私はみんなのジーク様なんだぞ⁉︎」
「そんな事言ってるから、結婚願望強いのに未だに独り身なんですよ。妥協しなさいよ」
「私にだって理想があるんだよ⁉︎」
「酒場の女給を理想と言うか」
「妥協させる相手をよく考えろ!呪術師だぞ⁉︎無理なものは無理なのっ!」
再びベリルの影に隠れてしまったジークベルトは、情け無い悲鳴を上げ続けた。
その悲鳴は、頭の後ろで騒がれているベリルにとって非常に耳障りなものだったが、正面にいる女にとっては何よりも心を抉るものだろう。
禁忌に手を出す程愛した相手に拒絶され、女は目をぽっかりと開き、そのままぼろぼろと涙を流した。唇を戦慄かせて零す言葉は、受け入れられなかった絶望というよりも、いもしない誰かを謗る言葉。
それも次第に、訳の分からない言葉の羅列に変わっていった。
「私のものだ私のものだ私のものだ私のものだ私のものだ私のものだわたしのものだわたしのわたしのわたしのわたしの」
強く頭を掻き毟り、振り乱し、女は今度こそ発狂した。
「ぃぎっ⋯⋯いいいいいあああ!!!」
我慢ならないとばかりに、右足で地面を踏み鳴らし、膝を付いて両拳を石畳に連続で叩きつけた。そして血塗れになった両手で顔を覆った女は、両爪でばりばりと顔面を傷付けて、見るも無惨な蚯蚓腫れの、酷い有様に成り果てた。
女のぞっとするような変貌に、ベリルは思わず後退してしまった。当事者であるジークベルトに至っては体を丸めて、ベリルの背にしがみ付いて震えていた。
「呪術師って、みんなこうなんですか⋯⋯?」
「そ、そうとも限らないと思うぞ⋯⋯!」
関わりたくない人種と云うものは、国籍性別職種拘らず存在するものだ。況してや好意を寄せられたりすると、ややこしい展開が待っているのは物語の常と云うものである。
「嫌な相手にモテましたね、迷惑です」
「⋯⋯私が悪いんじゃないからな!」
優しくしてあげないとダメなひと