2.持ってない男
「嗚呼、我が家だ!」
一日で最も長く過ごす部屋だからだろう、サロンに足を踏み入れて漸く、ジークベルトはひと心地ついた様だった。とは言え、床でぐぅっと、伸びをする姿は相も変わらず獣である。
対してベリルは、壁に掛かった時計を見て肩を落とした。夕飯を作る時間を過ぎて、完全に食べ始めている時間だからだ。ジークベルトの洗濯で魔力と時間を使ったベリルにとって、食事はとても大切な物なのだが、今はさっさと話を進めるべきである。
ぐっ、と腹を腹筋で締めて、ベリルはジークベルトに話すように促した。
「それでは何故そんな姿になったのか、経緯を説明してくれますか?」
「するよ、するする」
「あ、駄目です、ソファに上がらないでください。雨に降られた獣と洗剤のミスマッチな臭いが染み付いてしまうので」
「酷すぎない⁉︎」
「ジーク様は生乾きですから、臭いが移りやすいんです。床に座ってくださいね」
「床、固い!」
「いいから座る」
弟子の圧力に負けた師匠は、カウチソファを未練がましく見詰めながらその場に腹這いで寝そべった。目の前のソファは、ジークベルトのお気に入りだ。毎日の様に、酒瓶を抱えて朝まで寝こける場所である。そしてその場所を清潔に、居心地良く整えているのがベリルである。
どこの世界でも、家庭に於いて内助を支える奥方に対して頭が上がらぬ旦那のごとく、生活能力皆無のジークベルトはこの弟子に弱かった。そもそも弟子に強く出れないのは、それだけが理由では無い訳だが、此処では特に関係無い。
しぶしぶ床に寝そべったジークベルトに対して、ベリルは定位置であるアームチェアに腰掛けた。怨みがましい師匠(仮)の視線など何処吹く風である。
それどころか、早く話せと視線で催促をした。力関係が察せられる。
「⋯⋯何処から話そうかな」
「では、出掛けてからを順に」
***
ジークベルトは御機嫌だった。
今日は朝から、ベリルが掃除に精を出していた。手伝う以前に戦力外通告を受けてしまっているジークベルトは、昼前に小金を持って堂々と家を飛び出した。
行き先は、可愛い女給の居る酒場だ。
(今日は呑むぞ〜!)
この先に美味しい酒と可愛い女の子が待っていると思うと、自然と足取りも軽やかにステップを踏んでしまう。
側から見ればただの浮かれたおじさんである。先程からひそひそと通行人に噂をされているが、浮かれたおじさんは全く気にしない。年甲斐も無く飛び跳ねて街を進む。ジークベルトの家からは少々遠い店だが、ランチタイムには余裕で間に合うだろう。
(あんまり近いと、ベリルに見付かるんだよねぇ)
まだ子供のベリルに、そんな場所へ出入りしていると知られたら悪影響を与える可能性もある。それに、近所の住人達は皆ベリルの味方だ。
以前にも、今日の様に明るい時分から近所の酒場で呑んでいた事があった。その場所もこれまた可愛い女給がいて、ジークベルトは連日通ってちょっかいを出していた。
その日、ほろ酔いで良い気分に成った頃、いきなり店にベリルが乗り込んで来て、驚いているジークベルトの頬を問答無用で平手打ちをした。
魔力に因って強化されたその掌は、想像を絶する威力だった。
幸いにも歯は抜けず、とんでもなく腫れた程度で済んだが、叩かれた時は思わず首が繋がっているか確認をする程だった。
その後、ベリルに「子供があんな店に来るなんて何を考えているのか」と、取り敢えず一応、大人として説得力の無い注意をした。すると今より少し幼かったベリルは、ちゃんと謝り、「近所のおばさんが、ジーク様があの店に迷惑を掛けていると教えてくれたんです。お店の人も、そう言ってましたので」と、答えた。
その時のジークベルトの心は、想像を絶するものだったとお察し頂けるだろう。
酒を呑むと迷惑を掛ける人間というのは、存外多いものであるし、酒場に通うくらい許してやっても良いのでは?と、誰しもが思っただろう。
だがこの男、酒代だけでなく女給に相当貢いでいたのである。
貢ぎ物も趣味が良ければまだ良かったのだろうが、金ばかり掛けた我楽多が殆どで、店も女給もほとほと迷惑していたのである。
勿論家計を逼迫する行為をベリルが許す筈も無く、来店の瞬間に報せが届いた次第、容赦無い折檻に至った訳なのだ。
それからのジークベルトは完全に小遣い制となり、女性に貢ぐなどの行為は難しくなったのである。
それでも手ぶらでは格好がつかないから花でもと、ぺんぺん草を摘みながら(そういうズレた所が迷惑の所以である)、川沿いの道を歩いている時だった。
「おや、どうなさいましたかお嬢さん」
繁みに隠れる様に、一人の女性が蹲っていた。
「御気分が優れないのですか?」
枯れ草色の長い髪をした女性だ。ぱさついた髪や擦り切れたエプロンが目立つが、髪の隙間から窺える顔立ちは中々の器量をしている。伏せた瞳は艶っぽいのに、顔に散った雀斑が彼女にあどけなさを持たせていた。
「⋯⋯はい⋯⋯立ち眩みがしまして⋯⋯此方で休んで居りました⋯⋯」
「それはいけません、陽射しにやられたのかもしれませんよ。せめて木陰に移動しましょう」
さぁ、と促し、ジークベルトは女性を支えた。
「すみません⋯⋯ご親切に⋯⋯」
「いいえ、紳士として当然の行いですよ」
紳士だなんだと宣ったが、ジークベルトに有ったのは「少しばかりの親切心」と、「大いなる下心」だった。
はっきり言ってジークベルトはもてない。魔導錬金術の始祖なのに、何故かもてない。側から見ても整った容貌なのに、どうしてかもてない。
一夜の相手としては望まれたりもするが、二度目は無い。お見合いをしても全て空振りである。
本人としては何故だと首を傾げるばかりで、理由など見当も付かないのだ。(お察しの通り、過去の女性達にもやらかしている)
そういう訳で頼れる男を演じつつ、出来ればこの可愛らしい女性とお近付きになれないかと、不埒にも考えていた。
「丁度木陰にベンチがありますよ。歩けますか?」
そう、このままお近付きになって、あわよくば⋯⋯と、下心で以ってくびれを抱き寄せ
「え」
急にぐんにゃりと視界が歪み、膝を付いた。
「なに、っ」
眩暈が襲ったと思ったら、あっという間に全身に激痛が走った。
まるで磨り潰される様な痛み。呼吸すら儘ならずに喘ぐ事すら苦痛が伴う。
「⋯⋯うふっ⋯⋯これで⋯⋯」
痛みに喘ぐ脇で、愉悦の混じった呟きが聞こえた。上手く回らない頭で導き出せたのは、助けようとした(下心込み)女性が、この事態を引き起こしたという事だけだった。
この女は恐らく呪術師。通常の魔法ならばジークベルトをどうこうする事はまず不可能だし、本来なら発現する筈の魔力の流れを感じなかった。
それに何より、狙われる心当たりが有り過ぎた。
苦痛に悶えながらも状況を見極める為に視線を上げた時、無遠慮に伸ばされた腕が目に入った。ジークベルトを捕まえようというのだろう。
魔導錬金術を極めたのは、未だジークベルトただ一人。彼を然るべき所に届ければ金にも名誉にもなる。
そして潜伏者達にとって、その命は見せしめとなり、血肉は悍ましい道具にされるだろう。
抵抗しようにも激痛がそれを許さない。身体に力が入らないのだ。それならば魔法をと魔力を練るも、何故か魔力が練った側から霧散してしまう。
逃げようにも走るのは難しい。距離を取れたとしても隠れる場所もない一本道、あるのは⋯⋯
「⋯⋯⋯⋯くそっ⋯⋯‼︎」
「⁉︎⋯⋯⋯⋯嗚呼!」
ジークベルトは逃走を選択した。見通しの良い一本道ではあるが、幸いにも逃走経路が存在したからだ。すぐそこの、川だ。
激痛を耐えて身体を跳ね起こし、そのまま川に飛び込んだのだ。
流れは一見緩やかであるが、見えない深みは簡単に足を取られる。非常に危険であるが、碌に動かない身体ではそれしか打つ手は無かった。
(思ったより⋯⋯深い!)
見た目以上の深さと急流に、ジークベルトはなす術なく流されて行く。このまま下流の工業区画まで行き、あの呪術師の女やその仲間に見つからぬ様に商業区画の自宅まで戻らねばならない。ベリルにも危険を報せなくては。
それと己に掛けられた呪術が何であるか、知らなければならない。魂を削る様な痛みだ。即死はしなかったが、肉体や寿命を変異させる術かもしれない。ジークベルトは兎に角、己の不運を呪うしか無かった。
それに、一番の不運は、
(⋯⋯⋯⋯水、水が顔に⋯⋯っ⁉︎どうしよう⁉︎)
ジークベルトに泳いだ経験無かった事だ。