1.世界で唯一の偉大な(笑)
その日、ベリルはアトリエで一人、とある魔導具の設計を試みていた。
魔導具とは、魔力の有無に関わらず、奇跡を起こす為に作られた道具の事である。
魔術師が自己の魔力を全身に行き渡らせて術を発動させるのに対し、魔導具はその発動条件を客観的に計算し、魔方陣として書き起こさねばならない。
必要な魔力総量、必要な元素の値。それら諸々を数値化した上、魔方陣として象形化する。そして書き起こされた魔方陣は、魔術師の魔力と血液を用いて対象に刻まれる。
その作業の総称を、「魔導錬金術」とするのだ。
この「魔導錬金術」は、俯瞰思考と演算力、なにより莫大な魔力が必要になる為、極めたと言えるのは師匠であるジークベルトただ一人である。
ジークベルト唯一の弟子であるベリルは、魔導具を完璧に作り上げる事が出来ない訳だが、それでも数値化の作業だけは、師匠からお墨付きを貰っていた。ベリルのアイディアと計算式が採用され、商品化した物が数多く有るのは、ジークベルトがベリルを認めているからだろう。
今の時点では、夢物語の魔導具を帳面に数値として書き出していたベリルは、ふと、ペンを止めた。
「⋯⋯この魔導具、難しいかも」
そう思わず声に出して呟いてしまったベリルは、独り言が少し気恥ずかしくなり、右手でくるりとペンを回した。
魔力さえあれば「何でも」できると誤解されがちだが、実際には最低限の理が存在する。
無から有は生み出せないし、「人間」として犯してはいけない領分もある。それは勿論、魔法も魔導錬金術も変わりはない。
今回ベリルが作りたい魔導具は、「美味しい食事が出てくる皿」なのだが、前述の通り、ただ皿の上にぽんと料理を出すなんて絶対に不可能である。
そこで彼の妥協案として、「有機物を置けば、同等組成のなにか美味しいものに変成する皿」に変更したのだが、この変更案にも問題がある。
まず、それは調理されたものなのか、何を以って「美味しいもの」と定義するのか。味は如何するのか。甘いのか、塩辛いのか、はたまた苦いのか。⋯⋯それに何より、
「⋯⋯有機物をどこまでと捉えるか⋯⋯」
残飯ならば、良い。死にたてほやほやの鳥類、獣類ならば尚良い。だが、昆虫類は?蜜を集める蜂なら行けなくは無い⋯⋯かもしれない。麦畑をぴょんぴょん跳ねる飛蝗、花壇をうじゃうじゃ這い回る蟻、はたはたと鱗粉を撒き散らす蝶…なにより、油でぎらぎら黒光りするアイツは絶望的に無理。
それに究極、生物の⋯⋯
(⋯⋯悪魔の研究に手を出してしまった)
地下に潜っている呪術師どもでさえ、ここまで忌まわしい研究をしてはいないだろう。
この研究は封印だな。と、ペンと定規をデスクの抽き出しに仕舞い込んでから、はたと気付いた。
何か、音が聞こえる。
音を頼りに隣のキッチンに続く扉から頭を出すと、裏通りへと出る扉の向こうから、かりかり、かりかりと引っ掻く音と共に、「くそっ、届かん⋯⋯!」と、ベリルの良く知る男の声が聞こえた。
師匠のジークベルトが帰宅したのだ。
そう言えば今日は昼前に飛び出して行ったままだったなと、西に傾いた陽射しを確認しつつ、違和感に首を傾げた。
往時ならば、どんなに後ろ暗い事があろうと表から堂々と帰って来るのだが、今はまるでコソ泥の様だ。
「⋯⋯ジーク様、何をされてるのです?」
「ベリル!丁度良かった、開けてくれ!」
早く早くと、急かす様に扉に爪を立てる音が大きくなった。
益々おかしいと耳を澄ませば、音が随分下方で立っているのに気付いた。もしや怪我でもして立ち上がれぬのだろうか。また馬鹿をやったのだろうと思いはしたが、最悪の事態を想定してしまう。
慌てて駆け寄り、扉を開いた。
「だいじょう⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
「ぎゃぴ⁉︎」
そして、駆け寄った勢いを殺さず思い切りそれを蹴り飛ばしていた。
扉を開いた先に居たのは師匠ではなく、悪臭漂うヘドロ塗れの何か気持ち悪い生物だったので、全ては無意識の内に行われた。
意図的では無い、断言する。
ベリルに蹴り飛ばされたそれは、可笑しな悲鳴をひとつ上げて、ゴム毬の様に向かいの煉瓦塀をぽんと跳ねて、ころりと地面に転がった。そのままうぞぞっ、と悶えたかと思うと、ヘドロまみれの頭部と思しき部位を振り乱して叫んだ。
「ひ、酷い!まさか何も言わずに蹴り飛ばすなんて‼︎」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯ええと、すみません。つい思わず」
そのあまりにも悲痛な叫びに、ベリルは思わず謝った。謝ってしまってから、叫んだヘドロをじぃっと眺めて、信じられない気持ちでいっぱいになってしまった。
聞き慣れた師匠の声は、確かに足下で喚き散らすヘドロの塊から聞こえるのだが、どこからどう見てもそれは、小さな四つん這いの獣にしか見えなかったからだ。
***
一刻も早く、何故そんな人とは思えぬ姿に変化しているのか、何故そこまで汚らしい姿に成り果ててしまったのか、詳細を訊ねるべきだったのだろう。
だが、ヘドロ塗れの汚らしさがそれを躊躇させた。
風呂を使わせろと師匠(仮)は騒いだが、ベリルは「汚物」と呼称して差し支えない程、汚過ぎる生物に敷居を跨がせるつもりは更々無かった。彼は午前中、キッチンとバスルームの掃除を念入りにしていたから尚更だ。
裏口からキッチンに入り、廊下を進み、脱衣所を経てのバスルームだ。バスルームに到着するまで、一体どれくらい家が汚れるのか。とんでもない悪臭がいつまで染み付くのか。考えただけで、ベリルは身震いが止まらない。
因みに先程師匠(仮)を蹴り上げた室内履きは、魔法で完全焼却された。気に入っていただけに、一瞬で消え去った室内履きを思い出すと、物悲しい気持ちになるベリルである。
兎も角、「汚物」を家に入れたくなかったベリルは、少々乱暴だが有り余る魔力を使い、水と風を起こして今居る裏通り、この場所で洗濯を敢行した。
大量の水で獣を包み、風で水流を起こす。その際水と汚れが飛び散らない様に、外側にも風で結界を張った。臭いと汚れが苦情の元になり兼ねないからだ。
本当なら思いっきり水流を循環させ、汚れを弾き飛ばしてやりたかったのだが、中の師匠(仮)に負担が掛かる為、水流の勢いは緩やかである。その為、汚れがしっかりと落ちる様にと石鹸を大量にぶち込んだ。
だが、この方法は師匠(仮)はお気に召さなかった様で、黒くなった水を交換する際、泣きながら命乞いをして来た。
「もう止めてくれ!許してくれ!」
「ええと?」
「ええと?じゃない!師匠は大切にって、何時も言ってるでしょ‼︎」
「ジーク様、これはお互いに必要な作業なのです。一番弟子の大切なお願いなので、ちゃんと聞いてください」
「め、目が恐い⁉︎」
ベリルからすれば、随分譲歩したつもりである。水流はとても緩やかだったし、呼吸できる様に鼻口腔に酸素も送った。使った石鹸だって、柑橘の爽やかな物だった。食器の油汚れ用だが、問題は無い筈だ。
そして再び師匠(仮)は問答無用で大量の水に包まれ、大量の石鹸と共にじゃぶじゃぶ汚れを落としていった。
そのままある程度汚れが落ちたな、と思える段階になり、泡塗れになった師匠(仮)を濯ごうとしたら、「せめて濯ぎだけは!濯ぎだけは許してくれ‼︎」と、泣き叫ばれたものだから、ベリルは衣類の洗濯で使っている盥を用意した。
取り敢えず今回の魔法を流用して、衣類用洗濯魔導具の計算式を作ろうと思ったのは、秘密にするつもりである。
「それじゃ盥に水溜めておくんで、泡は自分で流してくださいね」
「弟子が厳しい⋯⋯」
「温めの水にする優しさはありますよ」
「冷めたお湯って事でしょ?」
くすんくすんと鼻を鳴らしながら、泡塗れの師匠(仮)は、水を張った盥に全身を浸けた。ベリルが用意した盥は確かに大きな物だが、人体が浸かるのは膝を曲げても狭くて辛いだろう。
(水もそんなに溢れない。質量の法則も無視してる)
これは厄介な状態だな、と、内心舌打ちが止まらぬベリルに対して、師匠(仮)は盥の中で脚を伸ばし、剰え鼻歌を歌い出した。温い水でも入浴気分なのだろう。
頭までざぶんと潜って泡を落とし、獣の様に頭部を振って水気を落とした姿は、やはり見た事も無い珍妙な獣だった。
中型犬程の大きさで、全体的に丸い。尻から生えた尻尾は大きく、形は蒲の穂に似ている。顔は鼠に近いだろうか、立派な前歯が2本口から突き出ている。
こんな大きさの鼠、この近所には絶対居ないが、世界を巡ればもしかしたらいるかも知れない。だが、鼠では有り得ないだろう。
(それに目がなんというか、人間的だ)
鼠なら骨格的に側面を向く眼球が、前面を向いていた。つまり人体と同じで視野が狭いという事だ。それに白目部分が広く、ぎょろっとしている。
白目が広く在ると云う事は、目を使って他者とのコミュニケーションを図る為である。匂いを重要視する野生動物には有り得ない。正しく未知の獣、新種と言って差し支えない。
きっと何処かの好事家に見付かったら、あっという間に剥製にされるだろう。
「ベリル、タオルちょうだい」
「はいはい」
兎に角、この師匠(仮)に何があったのか問い質さなくてはならない。
タオルを用意しながら、師匠(仮)の骨格で後頭部と背面を拭けるのか、疑問に思った。
熱風で炙って水分を蒸発させるのは、いけない事だろうか。バスタオルを広げながら、ベリルは不埒な考えを持ち、そして思い至った。
元々世話が焼ける師匠ではあるが、師匠(仮)全く魔法使おうとしないな、と。