118.ナ、ナ、ナ!
太陽はすっかり地平線の向こうへ沈み、月の無い星だけが明るい夜道。
前を照らす魔導灯の明かりだけでは足らず、魔法で視界を態々強化しなければ馬車を進める事は不可能である。そしてその馭者席に座り鞭を振るうベリルは、今までどうやって表情を作っていたのかすら忘れてしまった様な仏頂面をしていた。
馬車の前で荷物を抱えて待っていたピピンは、その顔を見て背筋を震え上がらせた。手間を取らせるのだから、そりゃ嫌がられていると考えたのである。
「その、すみません⋯⋯こんなに真っ暗なのに送ってもらうなんて⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯いえ、お気になさらずに」
ピピンは自身が迷惑を掛けているので、ベリルが不機嫌なのだと考えてはいるが、真実はただ考え事をしているだけに過ぎない。
そう、ベリルは頭の中で公爵達の思惑を考えていた。
【よく分からんが、鼠男と解剖男は貴様を守ろうとしておる様に思えた⋯⋯だが、他の奴等はどうも違う様だったな?】
「なんて言うんだろうね⋯⋯ネフティア公は僕をじっと観察していたし、ヴェスディ公は⋯⋯えーと」
【利用してやろうと云う下心がちらちらしておったな?】
「うん、そうそれ」
あの2人は初対面の時から何故か引っ掛かる行動をしていた訳だが、先程の対応で違和感が浮き彫りになった。まさかジークベルトとフレーヌも可笑しくなるとは思っていなかったが。
(⋯⋯僕を閉じ込めておきたい理由は何だろうか)
公爵達の反応は薄く、何も掴めなかった訳だが⋯⋯反対に、デボラはベリルを王都の外へ出そうとした。
(状況が変わったから、僕を王都から出した⋯⋯いや、逃がそうとした?何故?)
考えられるとすれば、ベリルを狙う誰かが王都に居るのだ。その理由は分からないが、ふとグラスター侯爵家の馭者に扮したあの紙人形を思い出す。「おいしそう」と耳許で囁いたあの女の声を。
(⋯⋯あの声の主か?もしかしてどっかで食人事件とか起きてる?)
しかしベリルは紙人形の事は報告していても、あの声の報告はしていなかった。なのでどう考えても、これは理由には成り得ない。
矢張りベリルの出自が原因なのだろう。
(⋯⋯母さんから教わった文字、普通は読めないみたいだし、やっぱり母さんの方かな⋯⋯?それとも父親が実は犯罪者か何かで復讐でもされるのか⋯⋯?)
我事ながら、非常に謎が多過ぎる。ただ魔力が多いだけの食い倒れ賤しん坊だと思っていたのに。
「⋯⋯グラスター領にグラスター卿を放り込んで、王都にとんぼ返りしようかなぁ⋯⋯」
はっきり言って命令違反なのだが、今回の事は自分の事を知る良い機会では無いかと思えた。それに紙人形の術者が居るかもしれない場所より、どう考えても王都の方が安全である。
そうだ、そうしようとベリルが決心した時、前方にぽこんと何か丸まったものが飛び出して来た。この暗がり、ライトを点けているとは云え、ベリルが強化魔法で視界を良くしていなければ気付けなかっただろう。
「っ⁉︎」
ベリルは咄嗟に手綱を引いた。後ろの客車の中でピピンが悲鳴を上げたのが分かったが、それどころでは無い。
2頭の馬は前脚を上げていななき、混乱したものの何とかその場で踏み留まった。幸いまだ距離が有った為、そのいきなり現れた障害物との衝突は免れる事が出来たのである。
「⋯⋯何だアレ?」
その丸まったものは中々大きい様でもぞもぞと動き、何やら言い争いをしている様だった。「ひとつの」物体では無く、「ふたつの」物体だったのだ。
「あの、何が有ったんですか?」
いきなり急停車して中々動き出さないものだから、ピピンが声を掛けて来た。顔を外に出さないのは、何かを轢いていた場合の血を見たく無いからに違い無い。
「⋯⋯申し訳ありません。お怪我は御座いませんか?障害物がありまして」
「大丈夫です⋯⋯あの、私は此処で待ってますので、その⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯ご安心ください、グラスター卿のお手間は取らせませんので」
もう声が震えているのが丸分かりである。衝突してる訳では無いので、礫死体どころか流血も無いのだが。ピピンの事はまあ放って良いと考え、ベリルは改めて道に転がったものを見詰めた。
「ここどこでしゅ⁉︎」
「⋯⋯ナ、酷いんですナ!お嬢さんのお陰で我輩にも分からん場所ナんですナ!」
(⋯⋯⋯⋯取り敢えず、元気に生きてるなぁ)
馬車の進行を邪魔した事の自覚も無ければ、生命の危機だった自覚も無いのだろう。ふたつの物体は元気に言い争っていた。
しかし道の真ん中に陣取られると邪魔である。ベリルは馭者席を降り、どかそうと近付いた。
「ねえ、ちょっと⋯⋯⋯⋯ん?え⁉︎」
言い争っていたふたつの物体は、ワンピースを着た幼女と、
「でかい猫⋯⋯⁉︎」
【⋯⋯いや、こやつはケット・シーであるな】
「えっ⋯⋯こ、これが⁉︎」
幼女よりは小さいが、犬並みの大きさのもふもふっとした鯖虎猫である。青いブーツと白いマフラーを首に巻いた洒落者だ。そして何故かカイゼル髭を生やしている。
それにしたってケット・シーとは珍しい。実際は珍しくも無いのだが、人間の国にいる時はその辺に居る猫と変わらず生活しているので、どれがケット・シーなのか区別が付かないのだ。本来の姿を見せるのは猫の国だが、その国は何処にあるかは人間では誰も知らない。
(しかし、本性はこんなにでかいんだ⋯⋯)
あまりの珍しさに、ベリルがケット・シーをまじまじと観察していると、ケット・シーもベリルの存在に気付いた。
目をまん丸に見開き、毛を逆立てて尻尾をびいんと膨らませたケット・シーは、感激した様にくるりと回転しながらベリルに近付いて来た。
「ナんと、これは重畳ですナ!」
「え、何が?」
「あナた様にお会い出来ましたのも、きっと赤ブーツ様の思し召しですナ!」
「⋯⋯赤ブーツ?」
恐らく猫の崇める神みたいなものだろうとは思うが、他に名前は無いのだろうか?なんとも間抜けな存在に思える。
「取り敢えず、そこ退いてもらって良い?馬車が進めないんだ」
「おお、それは申し訳ありませんナ!しかし此処はそのですナ、あナた様にお願いしたき事が御座いましてナ!」
そう大仰な身振り手振りで話すケット・シーは、再びくるりと回転し、未だに地面に座り込んでいる幼女を指し示した。
「此方のお嬢さんをお願いしたいのですナ!」
「⋯⋯何を言ってるんだ?」
「ふじゃけんなでしゅ!おばあしゃまとおねえしゃまのとこにいくのでしゅぅ‼︎」
ケット・シーの言い分にベリルは困惑し、幼女は激昂して飛び掛かった。しかし中々口の悪い幼女だなと、ベリルはケット・シーに組み付いた幼女を背中から抱き上げて、ケット・シーから引き離した。
幼女を抑え込むくらい訳無いだろうと考えたのだが、幼女が手足を振り回して全力でもがくので、ベリルは強化魔法を全身に掛けねばならなかった。それでも小さな拳や踵が身体に当たるのは結構痛い。
【⋯⋯おい小僧、この幼女⋯⋯】
「⋯⋯何?後にして⋯⋯いてっ」
フェルニゲシュが何か発言するが、幼女に腹を蹴られたベリルはそれどころでは無い。思っていた以上に力が強い。しかし強化魔法を掛けたベリルの腕では難なくその身体を潰してしまい兼ねないので細心の注意が必要である。
ベリルがそうやって幼女と格闘している間に、ケット・シーは距離を取ってボウアンドスクレープをした。あの手のくるくるが非常に腹の立つやつである。
「それでは、宜しくお願い致しますナ!」
「ああっ!ひげねこめぇ!」
「あっ、ちょっ⋯⋯」
ベリルと幼女が止めようと手を伸ばすも、ケット・シーは捨て台詞と共に、自身の影にとぷりと潜ってしまった。その肝心の影さえ、潜った瞬間に収縮して消えてしまう。
「⋯⋯⋯⋯嘘だろ、おい⋯⋯」
まさかこんな幼女を押し付けられるとは。ベリルは途方に暮れ、思わず力を緩めてしまった。幼女はその隙を逃さず、あっと言う間も無くベリルの腕から抜け出した。
「れでぃーにきょかなくふれるのは、しちゅれいでしゅよ!」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯それは、申し訳ありません」
あんなに暴れていた誰が淑女だと思わなくも無いが、幼い女の子にそんな事を言っても仕様が無い。ベリルは素直に謝った。
そしてその小さな子から話を聞く為、ベリルは魔法で光源を作り出し、膝をついて目線を合わせた。ついでに喋り方もレディに合わせる事にする。
「ではレディ、この矮小なる私に貴女のお父様かお母様が何方にいらっしゃるか、教えてくださるでしょうか?」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯ふぁ⋯⋯」
「レディ?」
先程までうるさいくらいきいきい騒いでいたのに、幼女はベリルの顔を見て急に黙り込んでしまった。何事かとベリルが顔を覗き込むと、目が潤み頬が真っ赤に染まっている。
なんだかんだ言ってまだ小さいし、暴れ疲れておねむになったのかな?と、ベリルは考えたのだが、幼女はベリルの顔を見詰めたまま、放心した様に呟いた。
「⋯⋯れい⋯⋯」
「ん?何です?」
一体何が?と聞き返すと、肩に乗っかっていたフェルニゲシュがベリルに囁いた。
【⋯⋯⋯⋯小僧、この娘、エレナ嬢の妹御であるぞ】
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯は⁉︎」
何故王城に居る筈の存在が、王都から離れた場所に居るのだとベリルが目を瞠った時、幼女は更に驚く事を言い放った。
「きれい!おひめしゃまみたい!」
ケット・シーと云えば某有名ゲームのキャラクターが有名ですね。猫又とはちょっと違うみたいです。猫又は猫が長生きして転化するもので、ケット・シーは猫の姿をした妖精⋯⋯らしいです。
ちなみにうちのケット・シーはただダンディな髭が生えているただのケット・シーです。




