旅の始まりと竜の口付け
「…さてと、このくらいかな。」
店の中の必要最低限の物をトランクにつめ、ふと見慣れた店内を見渡す。
「本当はもっと魔道具たちを持っていきたいんだけどなぁ。」
そう言いながら、置いて行くことにした魔道具たちに触れた。
「いらねぇだろ。ただえさえ、アンタの荷物多いのに。魔石だけ抜いとけ。」
そうは言うものの、何も言わずにさり気なく私の荷物の入ったトランクを持ってくれるあたり、いい子だなと思ってしまう。
「?何笑ってんだ?ほら、いくぞ。」
彼は、店の扉を開けた。チリリッと、ドアに取り付けた魔道具が音を鳴らす。聞き慣れたこの音も、魔道具を磨くための独特なオイルのこの香りも、100年近く共に過ごしてきたこの店も、もうお別れだ。
寂しさをかみしめながら、杖で体を支え、店を出た。
「なぁにしんみりしてんだよ。」
彼がクシャッと私の頭を撫でた。
「うん。ごめん。…ありがと、お兄さん。」
店の扉を閉め、鍵をかける。
「あ、そうか。竜の国へ向かう前に、商業ギルドによらないといけないよね。」
この店、かなり古いのだが、なんと買い手が見つかったらしい。世の中、物好きがいるもんだ。そんなことを一人考えていると、隣でキョトンとする彼。
「…言ってなかったっけ?その店買ったの俺。」
「!??えっと、今から一緒に竜の国に行く予定だよね…?」
「ん。そうだけど?」
サラッととんでもないことを言い出したぞこの男。使いもしないのに、家一軒を買うなんて…。
「君の金銭感覚、どうなってるの…。あ、じゃあこれ、お兄さんに渡せばいいのかな?」
そう言って鍵を渡すと、彼はジッとこちらを見つめてきた。
「?」
何だろうと首を傾げていると、ポイッと何かを渡される。
「…スペアの鍵?」
「それ、持ってろ。2個もいらねぇ。」
そう言いながら、彼はもう片方の鍵を腰のポーチにしまう。
「えっと…?でもこれじゃあ私も入れてしまうのだけれど…。」
「…店だけ残したって、アンタがいなけりゃ意味ねぇだろ…?」
決まりが悪そうに目をそらす彼。
「お兄さん…」
私はぎゅっと鍵を握りしめた。そして、抑えきれぬ感情のままに彼に抱きつく。
「!?」
そんな私の行動が予想外だったのか、彼は一瞬、驚いた顔をしたものの、私の身体を包み込むように優しく抱き寄せた。そして私の肩に顔を埋めるのだった。
「…だから店を畳むなんて言わないでくれ…」
その弱弱しい声にハッと気づかされる。この店を失えば私は再び空っぽになるだろう。幼いころに住んでいた小さな集落は、今ではただの砂漠と化し、人を寄せ付けない廃墟になってしまった。
新しい場所で新しい出会いがあったとしても、私はきっと過去の全てを忘れることなど出来はしないのだ。でもその帰りたい場所は既に私の手の中からこぼれ落ちてしまった。独りで思い出にひたって、過去を懐かしむだけなんて悲しいじゃあないか。
「…ありがとう。君は優しい子だね。」
そう、お礼を言いつつ彼のサラサラとした黒髪を撫でる。彼はピクリと反応したものの、されるがまま、私の手を受け入れた。
そんな彼の行動につい独り言をこぼしてしまう。
「なんだか子供をあやしてる気分…」
あ。と気づいた時にはもう遅かった。獣人族は他のどの種族よりも五感が鋭い。そのため、私の独り言はしっかりと彼の耳に届いていた。
それは美人を怒らせると怖いというのは本当だったんだなと今更ながらに痛感した瞬間だった。
彼は静かに顔を上げると黒髪から覗く金の目で私を見つめた。彼の背は私よりも高いので当然見下ろされている状態だ。私はゴクリと生唾を飲んだ。楽しんでいるのだ。彼は。焦る私を見て面白がっている。
無自覚に後ろに下がろうと足を引くと、それを察したのか彼は私の腰に腕をまわし、先ほどよりも強く私を己の身体の方へと引き寄せた。
「…えっと…、お兄さ」
ここは素直に謝るのが吉だと口を開こうとするものの、彼の人差し指が私の唇を触れた。どうやら前言撤回はさせて貰えないらしい。
彼はそのまま私の顔の輪郭をなぞるように撫でて、今度は親指で唇に触れる。そのまま、強制的に彼と目が合うように残りの指で顎を持ち上げられた。
彼はゆっくりと目を細めた。竜人特有の長細い瞳孔がより一層細められる。
あ、これ、目そらしたらダメなやつだ。と、最早呑気に現実逃避していると、彼の顔がゆっくりとこちらに近づいてきた。
「…は……」
私は目を見開いた。100年以上生きておいて、口付け一つで動揺するほど初ではない。この男もそれを分かった上でやっているのだろう。
が、この場合、私の唇が奪われるということが問題ではないのだ。このままでは結果的に私が彼の唇を奪ってしまう。それが問題なのだ。
彼の種族である竜人族は一夫一妻が原則であり、一般的に番になった者への執着と独占欲が激しい種族だ。この男、今だに番はいないようだが、容姿、財力、地位、戦闘力、紳士性、と兼ね備えているのだ。きっとその内、番ができることとなるだろう。そして、これはどの種族にも言えることではあるが、番になるのは同種族である可能性が高い。
マ、つまりは今ここで彼と口付けを交わしてしまえば、彼の未来の番から嫉妬の猛攻がとんでくる可能性が大いにあるわけだ。それだけは避けたい。
しかし依然として私は彼の腕の中。私が逃げられないよう、顎と腰がしっかりと固定されており、身動きがとれない状態だ。おまけに先ほど引き寄せられて、元々の距離が近いため、0距離までもう時間はないに等しい。
故に私は、この男の容赦のないたちの悪さに目を見張ったのだった。
マ、しかし。現実は無慈悲であり、時間は止まることを知らないのだ。──勿論彼も。
次の瞬間、私と、彼の唇は触れ合った。
金色の瞳が私を見つめているのが分かる。彼は私に唇を軽く押し付けた後、顔を上げた。
──ものすごく不服そうな顔をして。
「…アンタさぁ…」
そう言いながらため息をつく彼。
確かに、彼の唇は私と触れ合った。私の手の甲と。あの時、咄嗟に己の手で口を塞いでいたのだ。
彼は私の顎から手を離し、そのまま口を塞いでいる私の手を掴む。そしてゆっくりと私の指に絡めてきた。
手を引き剥がされるのは想定内だ。が、まさかこの男──
はっと気づいた時には既に手遅れだった。彼は絡めた手を引き寄せ、私の手のひらにキスを落とす。
手の甲へのキスは敬愛や尊敬。手のひらへのキスは──
絡まり合った指の隙間から覗く金色の瞳が、日の光に当てられてキラッと瞬いた。彼の薄い唇から覗く犬歯がカチリと音を立てる。まるで獲物を追い詰めた獣のように。
「君ねぇ…」
今度は私がため息をつく番だった。驚きを通り越して呆れる私に彼は問うた。
「さて、誰が子供だって??」
彼はわざとらしく小首を傾げ、いたずらっ子のようにかわゆくニコッと笑みを浮かべた。振動で揺れる黒髪が嫌に妖艶に映る。決して女のように光輝いている訳ではない。しかし男の硬くて重たそうで、そのような毛質が彼の色っぽさを引き立てていた。美人は怒らせると怖い。つまりはそういうことだ。
そんな私に構うことなく、彼は「ン?」と圧をかけて答えを急かす。
「…ッこんな意地の悪い子供がいてたまるか…!」
自棄糞にそう吐き捨てると、彼は満足そうに頷き、私の頭を撫でる。そういうところなんじゃないかしら…と内心苦笑いするものの、今度は私がされるがままになる番なのだった。