シーン19 虫の好かない奴もいる
レバーロックの朝は、スープの匂いで始まる。
ルナルナはアタシよりもずっと早起きで、微睡みから覚めた頃には、朝の仕事はもう一通り終わってしまっていた。
結局、昨夜も彼女の部屋で眠った。
よく眠れたとはとても言えなかったが、とりあえず目の下に出来たクマを簡単なメイクで誤魔化してから、アタシは酒場へと顔を出した。
見覚えのない若い兄さんがルナルナに何かを手渡していて、それから足早に出ていった。
ふんわりと香ばしい匂いが漂った。
「おはよう、いい所に起きてきたな、たった今、焼き立てのパンが届いたぜ」
彼女はそういって、届いたばかりのバスケットから、白くて大きなパンを取り出した。
「自然の小麦粉から作ったパンなんて、宇宙じゃ滅多に食べられないだろ」
「合成パンじゃないの? もしかしてアタシ初めてかも」
「そりゃあ良い機会だな、一回くらいは本物を味わっておくべきだぜ、風味も食感もまるで違うからな」
「へー楽しみ~」
アタシはカウンター近くのテーブルについた。
殆ど待つ事もなく、彼女はアタシの前にプレートを並べた。
今朝の朝食も、素敵なメニューだった。
レバーロックの近くで栽培しているというイモを煮たミルク仕立てのスープと、新鮮なグリーンサラダ。鼻腔を刺激するのは、添えられたレモンの爽やかな香りだ。
それに、さっきのパンをスライスにして、隣にはハムとピクルスを用意してくれた。
どんな時でも、ちゃんとお腹が空くのはアタシの長所だ。
食欲があるというのは、生きる活力を体が欲している証拠だし、食を楽しめるという事は、まだ心にちゃんと遊びが残っている証拠だ。
アタシはオーダーしたカフェオレも待たずに、そのままパンを口に運んだ。
口の中いっぱいに、豊かで芳醇な香りが広がった。
素晴らしいのは、香りだけじゃない。
噛むほどに、素材そのものから湧き上がる自然な甘さが溢れてきて、あまりの幸福さに、脳みそが蕩けそうな程の感動を覚えた。
「今どきさ、気候と戦いながら原料を育てて、時間をかけて食料を作るなんて馬鹿みたいって思うだろ。手間ばっかりかかるし、合理的じゃないってさ」
彼女は頬杖を突きながら、アタシの顔を嬉しそうに眺めた。
こぽこぽと音がした。
彼女の隣で、サイフォンとかいうコーヒーを淹れるガラスの奇妙な瓶が、中に入ったお湯を熱の力で上下させていた。
確かに、彼女の言う通りだ。
宇宙に住む人々の感覚からすれば、驚く事かもしれない。
食料を手に入れるため、植物を栽培するという行為そのものが、アタシ達の宇宙においては常識ではないのだ。
食べるものは自然の中で育てるのではない、化学工場で作り出すもの。
そういう感覚の方が、当たり前になりつつある。
もちろん、宇宙生活においても、食料問題は常に存在している。
増え続ける人類種が、様々な星系において争いを起こしているのも、そういった原始的な問題が引き金になっているのは、間違いない。
ただし、それは食料が不足しているから・・・とは限らない。
食料生産という事業の利益と恩恵に、星域による格差・・・、つまり、持つ者と持たない者の、偏りがあるから、なのである。
この世界はいびつだ。
いびつであるが故に、成り立っている。
そして、成り立っているからこそ、成り立たないモノがあふれてくる。
そう、矛盾だらけだ。
だからこそ、社会の問題というのは、幾年月を重ねても無くならないし、無くなってしまう事もまた、問題なのかもしれない。
とはいえ。
そんな哲学を追及するのは、アタシの役目じゃない。
アタシは適当に不平不満を口にしていればそれで十分で。
気がつけば、あまり悩むこともなく、この世の恩恵を受けて生きている。
つまるところ、アタシは人工のパンでも肉でも、それで満腹にはなれるということだ。
いや、アタシじゃなくても、それしか食べた事のない人間にとっては、それが味覚の全てなのだから、生きていくうえで、本物のパンがある生活を必要とは思わない。
だけど。
今日はほんの少しだけ、その概念が変わった。
アタシはこの一切れのパンが、かけがえのないものに思えた。
ただ美味しければそれでいい、っていう安易な満足を超えて、なんだか「食べる」っていう行為そのものを、とても有難く感じた。
「この星の人たちって、不思議な事をするよね」
アタシはユーグのハムを、少しだけ切り取ってパンに挟んだ。
少しの塩気が、パンの旨味をさらに引き立てた。
「植物を育てたり、動物を飼育して、ミルクや肉をとったりするんでしょ。自然素材からお酒を造ったりとかね・・・。アタシ達の技術があれば、数分で出来る工程を、何日も、何年もかけてやるんだから」
「本当はこっちが本来の、人間の生き方かもしれないぜ」
「そうだね。わざわざ気候も安定しない惑星の上に住むっていうのが、アタシにはずっと疑問だったけど、こういう生き方も悪くはないのかもね」
「どっちがいいのかなんて、オレにも分かんねーけどさ」
彼女は淹れたてのカフェオレを、アタシのテーブルに置いた。
そう、良し悪しなんて、無いのかもしれない。
それでも、アタシはどこかで彼女の生き方に、羨ましさを覚えた。
カフェオレの適度な甘さと苦さが、アタシの舌の上で軽くダンスした。
階段を下る音がした。
一瞬バロンかと思ったが違った。
彼なら、ブーツの音は立てない。
ちらりと、ルナルナが視線をあげた。
男だった。
この町の人間でないことは、その身に着けた宇宙服でわかる。
パッと見にはどこにでもいるテアードだ。
だが、屋内というのにサングラスをかけていて、表情を読ませない。
髪は前髪が鬱陶しい程に長く、茶と黒のメッシュに染めていた。
まあまあ、良い男の部類に入りそうな雰囲気はあった。
だけど、彼が側を通り過ぎた時、アタシは何とも言えない嫌悪感をすぐに覚えた。
何でって・・・それは。
「えーと、ライトさんだったよな、朝飯は居るかい? 宿泊者にはサービスするぜ」
ルナルナが好意でかけた声を、男は軽く無視した。
かわりに、ちらりとアタシを見た。
いや、サングラスで顔は見えないから、見たように思えただけかもしれない。
が、彼は何も言わずに、酒場を通り過ぎて玄関を出ていった。
「ちぇ、なんだよあれ、愛想悪いな」
ルナルナが腕を組んで、唇を尖らせた。
アタシは相づちを打ちながら、本能的に、あの男とはあまり関わらない方が良いと思った。
それは、男から漂っていた臭いだ。
多分、他の人間にはわからないかもしれない。
だけど、アタシは感じ取ってしまった。
鉄の焼けたような、独特の焦げ臭いにおい。
あれは熱線式の銃が放つ匂いだ。
正確に言うと、酷使された熱線銃を幾年もしまい込んだホルスターが生む臭い。
けして、堅気の人間が纏うようなものじゃない。
そして、アタシを見た瞬間の、あの冷え冷えとした感覚は何だ。
なんだか目をつけられたような、変な感じがした。
アタシ、あんな男に興味を持たれるような何かあったかしら。
覚えてしまった緊張はなかなかほどけなかった。
誰にも気取られないように振舞ったが、男が店を出ていったその後も、手のひらにかいた汗が治まらなかった。
それにしても、良く知りもしないのに、こんなに嫌悪感を覚えてしまう人間なんて珍しい。どこにでも、意味もなく虫の好かない人間というのは居るものなのだろうか。
アタシは気持ちを立て直すために、おかわりのカフェオレを頼んだ。
ついでにパンをもうひと切れ食べてしまったのは、さすがに食べ過ぎだったろうか。
バロンが死にそうな顔で降りてきた時には、もうすっかり満腹になってしまって、膨れ上がったお腹を撫でている所だった。
バロンはアタシを見るなり、ばつが悪そうに項垂れた。
あちゃー。
あの顔は、昨夜は一睡もできなかった感じかな。
彼は額に「反省」の言葉でも書いてあげたくなるほど萎れた様子になって、アタシから三つくらい離れた席に座った。
「ようカレシ」
バロンに気付いて、ルナルナが声をかけた。
「昨夜は大変な痴話げんかをしたみたいだな。駄目だなー、女を泣かせるなんて最低野郎のやる事だぜ」
アタシはカフェオレを噴き出しそうになった。
なんで傷口に塩を塗りこむんだ。
ほら、バロンが死にそうな顔になっちゃったじゃない。
「な・な・な・・・」
バロンが言葉に出来ずに震えた。
そんな様子を楽しげに見て、ルナルナは続けた。
「まあ、誰にだって間違いってもんはあるよな。男と女の間じゃ特にそうだ。・・・それに、ラライだって悪いよな。誘うだけ誘って、お預けさせてるって話だろ」
「い・・・・いや、その、でやんすね」
彼は消え入りそうな声になった。
「ルナルナっ! 昨夜はアタシが誘ったわけじゃ・・・」
アタシが口を挟もうとすると、
「その気が無いから、ますます困ったもんだな」
彼女は首を竦めて、意味ありげに流し目をした。
あれは、早く仲直りをしてあげなよ、って顔だ。
ったく、どっかの誰かみたい。
どうしてアタシの周りにはお節介な女が多いのかしら。
ようやく、バロンは我に返った。
悩まし気に頭を振ると、拳?を握りしめて、肩を震わせた。
「昨夜のことは、あっしが全部悪いでやんす。なんだか一緒に旅行できたのが嬉しくて、つい魔がさしてしまったでやんすよ。ラライさんの気持ちも考えないで、もう、あっしのバカバカバカ・・・・」
「そう自分を責めんなよ、昨夜は仕方ねえ状況だったってコトだろ」
ルナルナは彼の肩・らしきところをポンと叩いた。
「ラライって奴は昔からそういう所があるからな、困った事に、自分がいかに人を狂わせる魅力の持ち主かって事を、全く自覚してねえ」
え、そうなの。
アタシって人を狂わせちゃう?
もしかして、魔性の女って奴だったりして。
バロンはようやく顔をあげて、自分を慰めるルナルナと視線を合わせた。
お互いの顔を正面からじっと見つめる形になって、しばらくの間、妙な沈黙が生まれた。
急に、ルナルナはプッと噴き出した。
それから、さもおかし気に腹を抱えて笑い出した。
「な、何でそんなに笑うでやんすか、あっしは本気で反省してるでやんすよ~」
「悪い、悪い、まじまじと顔を見たら、なんだか面白くなっちまって」
「それはいくら何でも失礼でやんしょ、あっしは、これでもカース人の中じゃアイドル並みの容姿の持ち主でやんすよ。いわゆるイケ顔って奴でやんす」
いや。それはないでしょ。
とりあえず、突っ込みたい気持ちを必死に堪えた。
「だってよー、ラライの奴、すげえなって思ってよ」
「何が凄いのよ」
「見た目主義じゃないのは知ってたけど、こんだけ自分と外見の違う人類種を好きになるなんて、正直、オレ無理だわ。いや、人柄だけなら好きになれるかもしれねえけど。真面目な顔してキスするなんて、さすがに出来ねえや、いや~、・・・うん、無いな~」
「ちょっと待ってよ、ルナルナ、それって言い過ぎじゃない」
アタシは思わずテーブルに手をついて腰を上げていた。
「そんなに笑う事ないじゃない、アタシが誰を好きになろうとルナルナには関係ないでしょ」
「だけど、・・・よく見なよ、この顔だぜ」
くいっと、バロンの顔をこっちに向けた。
うん。
確かに面白い顔をしてる。
じゃなくて。
「アタシは見た目なんて気にしてないわ。それに顔だって、目も、鼻みたいなところも、口だってちゃんとあるでしょ。少し変わった体はしてるけど、同じ人間よ。アイドルだろうがモデルだろうが、結局のところ大差なんてないわよ」
「っていっても、ちょっとどころじゃないぜ。タコにしか見えねーし」
「タコって、言わないでよ!」
アタシは憤慨して叫んだ。
それが彼女の作戦だとは、全く気付きもしなかった。
「バロンさんがどんな外見だって、アタシにはどうだっていいの。アタシは彼の見た目とかそんななものに惚れてるんじゃない。中身に惚れてるんだからっ!!」
思うままに口にしてしまって、それから、ようやくアタシは自分の唇が何を口走ったかを悟った。
バロンが口を半開きにしたまま固まった。
アタシも固まった。
ルナルナは、してやったりと微笑んだ。
「だってさカレシ。良かったな、ラライのやつ、なんだかんだ言ってるけど、アンタに惚れてるってさ」
彼女はそう言って、自分の今朝の仕事は終わったとばかりに、カウンターの方へと歩き去っていった。
「あ・・・アタシが惚れているっていうのは、・・・その」
アタシはバロンの前に立って、何とか自分を誤魔化そうとしてみた。
だが、もう口をついてしまった言葉を、今さらひっこめることはできなかった。
そして。
その必要も、無いようだった。
「昨日はあっしが悪かったでやんす」
バロンは素直に頭を下げた。
その言葉だけで、アタシは十分だった。
それ以上は、何もいらなかった。
「いいよ、別に気にしてないから。ちょっと、・・・ちょっとだけびっくりしちゃっただけでさ。だって、変な所触ってくるんだもん」
「じゃあ、こんなあっしの事を、許してくれるでやんすか」
「許すも許さないも無いわよ・・・、もともと、喧嘩したわけじゃないんだし」
アタシはそれだけ言って、彼の隣の椅子に腰を下ろした。
離れて座ってる方が、よっぽど不自然だ。
「なあ、カレシの方も朝食食べるよな」
ルナルナの声が飛んできた。
「え・・・はいでやんす」
「よし、コーヒーはどうする? 言っとくけどオレのコーヒーは最高だぜ」
「じゃあ、頂くでやんす」
「オッケー。少し待ってろよ」
バロンは頷いて、それからようやく安心したようにアタシに笑いかけた。
まったくもう。
アタシの朝食は終わっちゃったけど、仕方ないから付き合ってあげるとするか。
また、ルナルナが入れるコーヒーの香りが漂ってきた。
「砂糖とミルクはいるかい?」
何事も無かったような彼女の声が、遠くから、やけに明るく響いた。




