シーン18 流されたくない夜もある
その夜の盛り上がりは遅くまで続いた。
客が引けた頃には、昨夜よりも更に遅い時間になっていた。
サラは最後の最後に客を拾ったようで、閉店の手伝いをする事もなく二階の部屋へとしけこんでしまった。
結局、アタシとバロン、それにルナルナの三人で後片付けをした。
薄暗くなった店内には、それまでの喧騒が嘘のように、静寂さだけが漂っていた。
階段に向かう途中で、アタシは振り向いた。
「ねえルナルナ、そう言えばミュズさん出ていっちゃったんだよね」
声をかけると、カウンターの向こうから返事が返ってきた。
「ええと、それって誰だっけ」
ルナルナは、まだ明日の準備をしている最中だった。
グラスを洗う自動洗浄機の乾燥音が低く響いてきた。
「ほら、昨日泊まったお婆さんよ」
「ああ、あの婆さんね。うちは宿帳とかちゃんとつけてねえからさ、へえ、そんな名前だったんだ」
「もう、そんなんで宿が出来るの?」
「だから、普段は泊り客なんて居ねーんだって。それにさ、実は昨日に関しちゃ、お前とソコのカレシに気をとられて、その婆さんの顔もちゃんと見てねーんだわ」
「・・・」
こりゃ、話にならん。
アタシは肩をすくめるポーズをした。
「鉱山まで、息子を探しに行くとか言ってたでやんすね。・・・それにしても、随分と行動力のある婆さんもいたものでやんす。どこで手掛かりを掴んだんでやんすかね」
「さあ、でも、もともとエルドナ山の近くって言ってたから」
「ふーん」
「それよりさ、ってコトは、二階の部屋、一つ空いたって事だよね」
そう、それが重要な話だ。
ミュズが出て行ったって言うんなら、何もバロンと同部屋でなくっても良いじゃない。
「もし、良かったらさ、アタシ、今夜そっちに泊っていい?」
先に階段を登りかけていたバロンが、アタシの言葉を耳にして「ガーン」という顔になった。
きっと彼は、アタシと一緒の部屋に寝泊まりするのを、楽しみにしていたのに違いない。
うしし、これは、ショックを受けてるな。
後悔するがいい。
すぐ側にアタシが居るにもかかわらず、他の女の子に向かって鼻の下を伸ばしていた罰だ。
まったくもう、デレデレしちゃってさ、あんなニヤケ顔、まともに見られたもんじゃなかったわ。
アタシは少し意地悪になって、横目で彼の様子を盗み見た。
ふふ、やっぱりがっかりした顔になってる。
いい気味だ。
あ、言っておくけど。
これは嫉妬なんかじゃありませんからね。
あんなタコ助に、このアタシが嫉妬なんかするもんですか。
ところが。
「あー、それな」
ルナルナは思い出したように言った。
「悪い、それだったら断れば良かったな。・・・夕方さ、店を開けてから、新しい泊まり客が来ちまったんだ。しばらく逗留したいって、相談されてよ。一ヶ月分くらいの前金をポンと出してくれたし、何も考えないで受けちまった」
「えー、いつの間に~」
「お前が、何か暗い顔して、一人でブツブツ言ってた時だよ」
「・・・・・」
ちぇ、あの時か。
アタシは内心舌打ちをした。
とはいえ。
考えてみればアタシは客であっても、お金を払っていないのだ。
文句は言えた義理じゃない。
アタシの背後で、くそ、バロンの顔に生気が戻った。
「じゃあ、仕方ないや、・・・おやすみルナルナ」
アタシは諦めて、階段を登った。
アタシ達は部屋に戻った。
昼間締め切っていたせいか、微かに空気が淀んでいるような錯覚に陥った。
彼は自分の衣類をハンガーにかけて、それから、丁寧に皺を伸ばしながら、布地の表面を光シャワーで洗い始めた。
なるほどね、洗濯のかわりか。
濡らさないわけだから、酒場のにおいを飛ばすくらいには十分だろう。
「ラライさんのも洗うでやんすか」
「そうね、借りものだし」
「その服も似合うでやんすね」
「でしょー、アタシって何を着たって」
っと。
危ない危ない、つい笑顔になってしまう所だった。
アタシは怒っているのだ。
何で?っていわれれば困ってしまうけど。
繰り返して言うが、これは嫉妬じゃない。
でも、今思い返しても、先ほどの光景は面白くなかった。
サラもアコも、悪い子じゃないのは分かっているけど、気安く「バロンさん素敵」なんて呼ばないでもらいたい。
「じゃあ、シャワーしておいてよ」
アタシはワザとつっけんどんに言って、上掛けのベストを脱ぎ捨てた。
それから前合わせのボタンを半分くらい外した時。
「わわ、ラライさんっ」
慌てたような彼の声が耳に入った。
何よ~
と、彼を睨み返しかけて、アタシは自分がシャツの中に、キャミソールはおろか、ブラジャーすらもつけていなかったことに気付いた。
「たっとった、バッ、バロンさんのバカっ!」
咄嗟に胸元を押さえて、彼に向かって枕を投げつけた。
あーもう。
こうなるから同部屋なんて嫌なんだ。
ったく、着替えすらも気軽にできないじゃない。
アタシはバロンを壁向きに立たせて、パジャマ代わりのだるだるスウェットに早変わりした。
いてて。
急いで着替えたせいか、また背中の怪我が痛んだ。
今ごろになって、打ち身がジンジンと響いてきた。これは、寝るのもちょっと大変になるかもしれない。
「もう良いよ、こっち向いてさ」
アタシは背中越しに言った。
返事が無かった。
あれ、おかしいな。
「バロンさん、もういいって・・・」
アタシが振り向くと、彼はじっと壁に向かって立ったまま、身動き一つしなくなっていた。
ん。
アタシの声が聞こえていないのだろうか。
まさか立ったままで寝てるってコトはないよね。
「ねえ、バロンさん、どうしたの・・・」
アタシは耐えきれなくなって、自分から彼に近づいてしまった。
このあたり。
どうにもアタシは彼を無視し続ける事など、出来ないようだ。
「ばろんさ・・・えっ?」
アタシは壁に近づいて、その向こうから聞こえてくる声に気付いた。
そう、気付いてしまった。
それは、とても言葉では表現のしようもない声だった。
あーその、なんだ、つまりだね。
夜のベッドで、隣に健全な泊り客が居るなどとは想像もせずに、むつみあう男女が発する声と言えばいいのかしら。
もう。
聞かせられるこっちの方が赤面してしまう。
サラかアコか、どっちの声かはわからないけど、ちょっとこれは教育上よろしくない。
健全なお話であるこの物語の趣旨にとっても、この状況はあんまりよくないぞ。
「やーね、もうっ。バロンさんもバロンさんよ、そんな音、気にしないでよ」
アタシは彼の頬をぎゅっとつねると、気恥ずかしさを誤魔化すようにベッドに戻った。
「それはそうでやんすが、・・・ちょっと気にするなってのが、難しいでやんしょ」
彼はそう言いながら、アタシの横に腰を下ろした。
確かに。
声はどんどん大きくなってくるし、気にしないようにすればするほど、やけに耳についてくる。
「ちょっと驚いたでやんす。なかなか経験が無いでやんすからね、こういう、隣の声が聞こえるようなホテルは初めてでやんすし」
「まあ、同盟圏内の衛星にあるホテルじゃ、いくら安宿でも、まずありえないからね」
「これも商売、なんでやんしょね~。あんな若い身空で、なんだか嘆かわしいでやんす」
「羨ましいの間違いじゃなくて?」
「ラライさん、なんてこと言うでやんすか」
彼の声がちょっと怒ったようになった。
おっと、これは言いすぎちゃったか。
でも、なんだか隣の様子ばっかり気にしているみたいで、そんなの気分が悪いじゃないか。
アタシはさっき投げつけた枕を拾い上げて、胸元に抱き寄せたまま、足を丸めてベッドの上に胡座をかいた。
「なんだか、今日のラライさん、おかしいでやんすよ。その・・・あんまり笑ってくれないでやんす」
「だって・・・」
アタシはモゴモゴと口ごもった。
お昼は戦闘したりして疲れちゃったし、バロンは他の女の子と楽しそうにするし、マリアって子にはなんだか敵視されちゃうしさ。
幾ら得意技が愛想笑いのアタシだって、たまにはむくれたってしょうがないでしょ。
アタシが拗ねた顔になっていると、彼は、じっとアタシの横顔を覗き込んで、それからピンと来たように顔を近づけてきた。
「もしかしてラライさん・・・、妬いてるでやんすか?」
ずばりと指摘されて、アタシは挙動不審に陥った。
「ばばっばばば、バッカねー、何言ってんのよ、アタシが何にヤキモチなんか妬くっていうのよ」
「だって、夕方から様子が変でやんしたよ。ずっと難しい顔をしてたり、あっしに店の子が声をかけてきたりすると、急に睨んできたりして」
げ。
バレてた。
「そんなことあるワケないじゃない、何でバロンさんがモテて、アタシが気分悪くならなきゃなんないのよ、べっつにアタシとバロンさんはお付き合いしているわけでもないしー、バロンさんが誰と話そうが、誰とナニしようが、気になるなんてコト自体があり得ないんだから・・・、だいたいにしてアタシはバロンさんなんか・・・」
「あっしなんか、が、なんでやんすか」
彼が、ずい、と近づいてきた。
声が凄く近くて、真っ直ぐに見てくる彼の瞳から、アタシは逃げ出したい衝動にかられた。
「バロンさんなんか・・・」
アタシを見ないバロンさんなんか、大っ嫌い。
そう言いたかったけど、アタシの言葉は尻つぼみになった。
「あっしは大好きでやんすよ」
彼はそう言って笑った。
もう・・・ずるい。
自分だけちゃっかりカミングアウトしてるからって、堂々とアプローチしてきやがって。
アタシだけ誤魔化してばっかりだし、なんだか悪者みたいな気分になっちゃうじゃない。
「言っておくけど、アタシはまだ」
「恋人とは、認めてくれないでやんしょ。それでもいいでやんすよ」
言いながら、彼の手がアタシの体に回った。
ったく、またこれか。
いっつも、いつの間にかムードが出来上がっちゃうんだもんな。
どうしてこうなると、彼のペースに流されちゃうのかしら。
だいたいにして。
押されると弱いのよ、アタシってばさ。
「恋人でなくても、おやすみのキスは受けてくれるんでやんしょ」
「バカ、知らないっ」
ぷんと頬を膨らませるアタシの唇を、彼はいとも簡単に奪った。
優しい抱擁が続き、恋人にしか許すはずのない、深いて長いキスが始まる。
無意識に唇が開いて、微かに吐息が熱くなった。
アタシはなすすべなく、彼のリードに流された。
そのままベッドに押し倒され、瞳を閉じて、彼の唇に身を任せる。
いつものように。
ここまで。
許して良いのは、この瞬間まで。
それが、決まり事じゃないけれど、アタシ達の暗黙のルールなのだ。
ところが。
今夜に関しては。
彼は止まらなかった。
アタシの胸元に、ためらいがちな彼の触手が伸びてきた時、アタシは彼の様子がいつもと違う事に気付いた。
え、何?
どういう事・・・。
バロン、一体何をするつもり・・・?
と思う間もなく、スウェットの隙間から、彼の柔らかい感触が直接肌に触れてくる。
これは・・・やだ。
もしかして、彼って、その気になってる。
アタシはプチパニックになった。
はねのけようと力を入れたが、彼の力は思った以上に強いし、覆い被さってくる体重は見た目よりも重い。
アタシの耳に、更に激しくなる隣の部屋の嬌声が飛び込んできた。
待って。
こんなんじゃ、・・・こんなのって、アタシ嫌だ。
「ラライさん、あっしはもう、自分を押さえられないでやんす」
彼は、熱い眼差しでアタシを見つめた。
「ちょっと、そんなっ・・・、アタシ、まだ心の準備がっ」
「あっしは、本気でラライさんの事がっ」
再び唇を塞がれた。
激しく情熱的なキスは、いつもの優しさを失っていた。
なんだか気持ち良くない。
むしろ、バロン、こんなの怖いよ。
キスって、こんな一方的なものだっけ。
違うよね、きっと、これは違ってる。
アタシは目を見開いた。
彼の表情が、何故だか焦っているようで、そしてとても苦しげに見えた。
少なくとも。
愛する喜びには、満ちていない。
彼の気持ちなんてわかってる。
本気なのも知ってる。
知ってる・・・ケド。
アタシは渾身の力で、彼の体を押しのけた。
彼は、困惑した顔でアタシを見つめた。
「ラライさん、あっしは、ラライさんの事を考えると、・・・もう、頭がどうにかなって、狂いそうになるでやんす」
彼は苦しい気持ちを吐露するように言って、もう一度アタシに迫ろうとした。
それは分かるけど、こんなの勝手すぎる。
アタシは彼を睨みつけた。
アタシだって、バロンの事は好きだ。
きっと、いつかは結ばれたいと思うくらい、愛している。
でも、まだその時じゃない。
アタシの感情は、まだそこまで育ち切っていない。
こんな風に、一時の激情と雰囲気に流されるのって、アタシは望んでいない!
それに。
こんなに一方的なバロンさんは。
キライだ。
本能的に右手が動いていた。
アタシは自分が何をしたのか、一瞬判らなかった。
気付いた時には、彼はベッドから飛び降りて、一本の触手で自分の頬を茫然と押さえていた。
アタシは、目尻に涙をためたまま、手のひらに生まれた激しい痛みを感じ取っていた。
けど。
そんな痛みは、刻みついてしまった心の痛みに比べれば、たいしたことでは無かった。
「ラライ・・・さん」
彼もまた、自分が何をしてしまったのかに気付いた。
その表情がみるみると青ざめ、我に返っていくのがわかる。
後悔が押し寄せ、彼の体に微かな震えが走るのを、アタシは見た。
それでも、アタシは許せなかった。
一度乱れてしまった心が、そう簡単に落ち着くわけはなかった。
「やめて、バロンさん・・・」
アタシは呟くように言った。
それ以上、言葉が出なかった。
アタシは彼を拒絶した。
流されたくなかっただけ、それだけなのに、なんだか取り返しのつかないことを・・・。
彼に対して、ものすごく悪い事をしたような気持ちにさえなって、胸の奥が締め付けられるような痛みが走った。
悪いのは、アタシじゃない。
勝手にその気になって、アタシ達の境界を越えてきた、彼の方なのに。
その気にさせた自分自身が、ものすごく汚い存在のように思えて苦しくなった。
「ごめん、バロンさん。でも、嫌なの・・・」
アタシはかき消えそうな声で、何とか声を振り絞った。
「今以上の関係になるのって・・・アタシ、まだ納得できてないの・・・」
「ら・・・、ラライさん・・・」
「アタシ・・・、頭を冷やしてくる。バロンさんは気にしないで、先に休んでて・・・」
アタシはふらつく頭と足で、よろよろと部屋を出た。
彼は引き留めなかった。
引き留めるなんて、出来た筈がない。
廊下中に、忌々しい女の嬌声は響いていた。
止めてよ。
こんな声がするから、バロンだっておかしくなっちゃったんだ。
きっと。
彼は悪くないのに。
あんな事、しようとなんて、思っていたワケは無いのに。
アタシは耳を塞ぐようにして、階段を駆け下りた。
外に飛び出そうとして人にぶつかった。
ごみを捨てに行って戻ってきたルナルナだった。
「ラライ、どうしたんだ」
驚くルナルナに向かって、アタシは無意識で抱き付いていった。
涙があふれて、急に感情がこみあげてきて止まらなくなった。
わけも分からず、それでもルナルナは、何かを察してくれた。
アタシの頭を抱いて、ぎゅっと自分に押し付ける。
アタシは。
泣いた。
まるでママに抱かれた小さな子供みたいな気分になって、そのまま、しばらく彼女の胸の中で泣き続けた




