茉莉花の失恋3
サークルを辞めてから、学校内で一緒にいる人が少し減った。
それもそうだ。
1年の頃からほとんどをサークルのメンバーで過ごしていたからだから当たり前だ。
それ以外の友人となると、綾美と、あとは数えるほどしかいない。
綾美がとっていない授業のある日は基本的に一人だ。
高校時代だったら一人なんて耐えられなかったかもしれないが、
大学は自由だ。
一人でいようが誰といようがあまり周りは気にしないし、自分も気にならない。
そのことが今は少し嬉しかった。
梅雨が明けたためなのか、随分と夏らしい日が続いていた。
その日も夕方からバイトを入れていたが、授業はシフトの時間より少し前に終わる。
折角なので、あの庭園にでも行こうかと思い一人足を運んだ。
(そういえば、ここで話があるってLINEがきたんだったな)
そう思うと急に切なくなる。
泣かないよう空を見上げる。
太陽はまだ朱くはなく、夏らしい白く眩しいものだ。
無意識にしたため息が空に消えていった時だ。
「あの」
最初は自分が話しかけられているなんて思わなかったので
そのまま空を向いていた。
「あの」
二度目の声でやっとそれが自分に向けられた言葉だということに気がつき声がする方に目を向けた。
「あ、やっぱりそうだ。この前、ありがとうございました」
そう話しかけてきたのは白いリネンのシャツを腕まくりした男の子だった。
「え?」
何のことかわからず思わず聞き返してしまうと
その人はふっと笑って続けた。
「あ、そうですよね。すみません。突然声かけて。カフェでおしぼり、ありがとうございました。それにこの前紙が飛ばされた時も拾ってくれて」
その言葉にバイト先で手に青い何かがついていた客のことを思い出した。
まさかここで絵を描いていた人と同一人物だとは思わなかったので少し驚いてしまう。
「あ、あの時の」
「はい。この前カフェで見た時、確信が持てなくて声かけなかったんだけど、やっぱり同じ人だって思って。思わず声かけてしまってすみません」
「いえ、とんでもないです」
そう笑って答えると同時に、あの、藍と茜の絵を思い出した。
「あの絵、あなたが書いたんですか?あの風で飛ばされた」
そう聞くと彼は小さく頷いた。
「すっごく綺麗で、素敵だなって思いました。いつもここで描いてるんですか?」
少し彼が驚いたような顔をした。
何か変なことを言ったかと思ったが、彼が口を開いたので気のせいだろう。
「はい。他に書く場所ないので」
そうふっと笑う彼は夏がよく似合う雰囲気だ。
「あの絵、今持ってますか?また見てみたいなって思って」
「今日は持ってないです」
「そうですか。あ、何年生ですか?私2年なんですけど」
「え、俺も2年です。学部は?」
「政治経済」
「え、一緒です。全然知らなかった」
同じ学年で、同じ学部なのにまだ知らない人がいる。
当たり前のことだが、世間は狭いのだなと思って思わず笑ってしまう。
時計を見るとそろそろバイト先に向かわなければならない時間だ。
「私、この後またあのカフェでバイトなんです。よかったらまた今度、来てくださいね」
「はい」
そう、その場を後にした。
****
今日はついてない。
朝から会いたくもない人に駅で会ってしまったのだ。
せめてもの救いは、颯太が一人だったということか。
沙希さんも一緒の時に会ってしまったら自分はどんな顔をするかわからない。
軽く、上部だけの挨拶をしてその場を後にしたが、その時の颯太の顔が忘れられない。
情けをかけるような、同情するようなその表情なんて、どうして向けてることができるのか、意味がわからなかった。
授業はあったがそんなものに行ける気分ではなくなってしまい、初めてサボった。
綾美はとっていない授業だから期末のレポートの時に困るかと一瞬思ったがそれどころじゃない。
学校から出ようかと思ったけれど、それはそれでなぜ自分が逃げるようなことをしなければならないのかという変な意地みたいなものが出て、仕方がなくあの庭園に行くことにした。
授業のある時間帯だからか人は少なかった。
空いているベンチに座るが、多分酷い顔をしていたと思う。
泣いてはいけない。
泣いたって何にもならないことくらいもうわかっている。
だからこらえた。
そんな顔だ。
ベンチに座りながら体を折り、自分の膝に顔を突っ伏した。
どうしてあんな表情ができるのか、
人の気持ちをなんだと思っているのか。
そう問い詰めたかった。
それと同時にそんな勇気は自分にないこともわかっていた。
(もうちょっとだけ、強くなりたいな)
少し息苦しさを感じ勢いよく顔を上げながら大きく息を吸うと、夏の匂いがした。
その匂いに、梅雨のジメジメを引きずったような自分のこの感情を早くどうにかしたいと願ってしまった。
しばらくベンチでぼんやりしていると、授業の終わったタイミングだったのかちらちらと人が増え始めた。
その人の流れの中、仲良く手を繋ぐカップルが目について疎ましいことこの上ない。
どこの誰かもわからないその2人にそんな感情を当てるのは失礼極まりないが、そうでもしないとやっていられない。
冷めた目でその2人を見届けると斜め向かいのベンチに座った。
舌打ちの一つでもしたくなり、ここに居続けるのは得策ではないと思い立ち上がった時だった。
あのリネンのシャツを腕まくりした彼の姿を見つけた。
向こうも自分がいることに気づいたようで軽く会釈をしてくれたので、それに返す。
「授業終わったとこですか?」
そうなんとなく聞いてみた。
颯太のこととは別のことに気が向けば気がおさまるかもしれない。
そんな自分勝手な質問だった。
「うん。政治理論。とってないですか?」
「あ……とってるんですけど、今日ちょっとサボっちゃって」
「そうなんだ」
そう彼はハハッと笑った。
「今から、また描くんですか?」
「うん。あ、そうだ」
そう言って彼はリュックの中を漁り始めた。
出てきたのは授業の教科書や資料、そして画材。
最後に取り出したのは、あの絵だった。
「これ。また見たいって言ってもらえたから」
藍色と茜色だ。
初めて見た時と同じように綺麗だった。
綺麗すぎて、どう表現したら良いかわからなくて言葉が出なかった。
それと同時に、その二つの色は自分の心を代弁してくれているように見えた。
この藍色のような闇に沈んでしまいたい。
この茜色のように朱く強くいたい。
そんなことを思っているとさっきまでの颯太に向いていた気持ちがフツフツと戻ってくるような気がした。
沈んでしまったら、きっと楽なのに。
なんで茜色にもこんなに強く惹かれてしまうのだろうか。
そう思った時にぽろりと自分の目から涙が溢れたことに気がついた。
「……えっと、大丈夫、ですか?」
そう白いリネンのシャツの彼が言う。
「あ、えっと、ごめんなさい、何でもないです!ほんと気にしないでください!」
恥ずかしい。
ほとんど話したことのない相手の前で突然泣くなんて、何をやっているんだろうか。
顔が熱くなってきた。きっと赤くなっているだろう。
いたたまれなくなり、予定があるのでと適当なことを言いながら彼に渡された絵を突き返し、その場を後にした。
15時からのバイトまでの時間、一度家に帰ろうかとも思ったが自分の部屋に1人でいると良い感情は生まれない。
逃げるようだから嫌だと思っていたが、学校から電車で行ける一番近いターミナル駅に向かった。
意味もなくふらついていれば何か良いことでも見つかるかもしれない。
そんなことあるはずもないのはわかっているが、そのくらいしかやれることが見つからない。
駅の商業ビルのショーウィンドウは夏一色だ。
マネキンたちが着た弾けんばかりの夏服たちは随分と元気な色味で目に痛かった。
そういえばいつも使っているボールペンのインクが切れそうだったんだと言うことを思い出し、近くの文房具も取り扱っているバラエティショップに向かった。
平日の昼間ということもあり店内は静かだ。
ノック式のボールペンの替え芯を買うだけなのですぐに用事は済んでしまう。
必要なものだけを購入し、エスカレーターを降りようとした時にふと足を止めた。
(こういうので描いてるのかな)
足を止めた場所は、絵の具や筆など画材道具が沢山並んだコーナーだ。
絵のことは何もわからない。
絵の具の違いや筆の違い、そんなこと何もわからない。
けれどもあの藍色と茜色の絵が随分と頭の中に残っていて少しだけ興味が湧いた。
もちろん高校時代、美術の成績は中の下だった自分が描こうなんては思わないが、知らない世界を少しだけ垣間見れたような気がしてほんの少しだけ嬉しかった。
その後は本屋に寄ったり用もなく化粧品を見たりして少しだけ早めにバイト先に向かった。




