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樹の苦悩3


数日後、喫茶店のオーナーから家に電話がかかってきた。

出たのは親だったが、一度話がしたいとのことで学校帰りにあの店に向かっていた。


その日は朝からひどく暑く、少し歩くだけで汗が噴き出してくる。

教科書や画材道具の入ったリュックが背中に張り付き気持ちが悪い。

学校から喫茶店への道の途中には公園があり、その横を通り過ぎる時は蝉の鳴き声が随分と煩かった。


店内に入ると、エアコンで程よく冷えた風が体に当たり、いつものあの柔らかなジャズも、うだるような暑さを幾分か忘れさせてくれるようだ。


「久しぶりだね」

そう声をかけてくれたのはこの喫茶店のオーナーだ。

彼と会うのは随分と久しぶりだった。

記憶の中にある彼はもう少し若いのだが、目の前にいる彼は「初老」という言葉がピッタリにあうものになっていた。


「お久しぶりです。何だかお話に巻き込んでしまったようですみません」


「いやいや、とんでもない。樹くんの絵が評価されることは、私にとっても嬉しいことだよ」


そう言いながら大きな窓の近くのソファ席に座るように促された。


「今日はコーヒーで良いかい?」

「はい。ここのコーヒーは本当に美味しいので、コーヒーしか頼まなくなりました」

「昔はオレンジジュースだったのにな。大きくなったもんだ」


そう懐かしそうにオーナーは話を続けるが、僕にとっては幼い頃の話をされるのはむず痒い。

少しの間、そんなむず痒い話を続けられていると出来上がったコーヒーが手元に届いた。


示し合わせたようにオーナーと僕は一口、同じタイミングでコーヒーを飲んだ。

香りが頭の中に充満する。気持ちが良い香りだ。


「それで……樹くんはどうしたい?」


何を、と聞かれなくても聞かれていることはわかっていた。


「正直、悩んでます。あの絵はこの店のために、あとは、今だから言えますが、自分のために描いたところもあるんです。だからここじゃない場所、誰かの手に渡るということがあまり想像できなくて」


「そうか。私は、樹くんの意思に従うつもりだ。彼に渡すというのであれば、それは君の門出にもなるかもしれない。喜んで渡そう。けれどもちろん、この店にあのまま置いておいてくれるという選択も、私にとっては嬉しいものだ」


そう言いながらオーナーはまっすぐと僕の目を見た。

穏やかに、包み込むように、その言葉を言ってくれたのだ。


「……ありがとうございます。少し考えます」


「あんまり悩みすぎないほうが良いからな、受験勉強もあるだろう」


そうさっきとは違い、明るい朗らかな声でオーナーは言ったが、僕はどんな顔をすれば良いか分からずに曖昧に笑顔を返した。



***


ずっと考えていた。

何度か新谷から家に連絡があったらしい。

携帯の番号を教えなくて心底良かったと思った。

僕の気持ちはまだ決められていなかった。

どちらとも決められず、その感情はその時描いていた絵にも出ていた。

その様子に気づいてか美術教室で、先生に初めて心配された。


「何か悩み事があるのなら聞かせてくれないか」


先生の部屋に呼び出されたと同時に言われた言葉だ。

悩んでいるのか、考えているのか、自分でも分からずにその質問に答えられなかった。


「何かあったのか」


その質問になら答えられると思い、口を開いた。


「僕の描いた絵を欲しいという人がいるんです。もちろん有償で。けど、その絵はある人に頼まれて描いたもので。それに自分のために描いた部分もあって。だから、今飾ってもらってある場所からなくなるということが想像できなくて」


その言葉に、なるほどねと先生は言った。

彼の机の上は画材や資料集が煩雑に置かれ、さらに灰皿の上にはタバコの吸殻が随分と溜まってきている。

決して清潔感があるとは言いづらいが、その身の回りとは裏腹に指導の丁寧さは他では得られないと僕はこの人を信頼している。



「先生だったら、どうされますか?」

たらればの話など意味をもたない。けれどこの時は誰かに教えて欲しかった。


「俺だったらか……。高浦くんはそれを聞いてどうするんだ?」


「……わかりません」


「だろうな。欲しいと言っているのは誰だ?」


そう言われ、リュックに入れっぱなしだった新谷の名刺を取り出し、先生に渡した。


「なるほどね、これは悩むだろうな」


その言葉に先生も知っているような人なのだと理解した。


「高浦くん、君が一番欲しいものは何だ?それだけ考えてごらん。そうしたら、きっと答えは出るはずだから」


そう言った後、先生は胸ポケットに入れたタバコを一つ取り出し火をつけた。



これまで何も考えずに絵を描いていた。

ただただ自分が好きなように描いてきた。

もちろんコンクールのためにと準備をしたり、美大に行くためにと少し自分の興味関心と逸れたことをやることはある。

けれどそれらは詰まるところ、自分が好きなようにやるための手段だったのだ。

だから急に、一番欲しいものは何だと聞かれると何も分からない。

ただ、絵を描いていたい。それだけだった。


だけど同時にわかっていた。

描き続けるためにはお金が必要で、それをどう得るのかをいつかは考えなくてはいけないと。

それを考えるタイミングがたまたま想像していたよりも早い段階だったのだ。


少し一人になりたかった。

家でも、学校でも、美術学校でもない、そしてあの絵が見えてしまう喫茶店でもない場所に行こう。

そう決めて、電車に乗った。



住んでいた町から30分ほど電車に乗るとそこは海がある町だ。

一人になるにはちょうど良い。

途中、車窓にパッと現れた海は青というより群青色で少し傾き始めた陽の光が反射し煌めいていた。


駅に降り立ち、海岸沿いに歩く。

海水浴場の辺りは人が多く、あまり気が紛れないと思いしばらく真っ直ぐと歩いて行った。

道路沿いにある、コンクリートの堤防。

一人で考え事をするにはもってこいの場所だ。

そう思い、そこに座ってぼんやりと考えていた。


あの絵のこと、描くこと、お金のこと、そして将来のこと。


全てが絡み合って、一つずつ整理して考えようにも解けていかない。


『一番欲しいものは何だ』


その言葉がぐるぐると頭をめぐる。

何度も何度も考えても出てくる答えは一緒だった。

描いていたい。それだけだ。


陽が傾き、街が茜色に染まり始めていた。

カモメかウミネコか、鳴き声が高いのはどちらだったか。そんなことを考えながら飛んでいく二羽の鳥を見ていた。

空を仰ぎ見ると天上は藍が滲み始め、少し視線をおろすとその藍色を水に流したように薄く綺麗だ。


水平線に夕日が沈む。その少し前、風がやんだ。

少しだけ夏の熱気が体にまとわりつくような、けれども風がやんだことにより周りの音が静かに聞こえて気持ちが良かった。


(こういうものを描いていたい)


小さな頃はそれだけで良かった。

だけどもう、それだけじゃダメなことは流石に気づいている。


腹を括ろう。


描き続けるためには、越えなくてはいけないものが、多分ある。

描いて、描いて、描き続けたい。


この時、自分の中で何となく、答えが出た。

きっと絵を描く、いや、作品を作る人間ならば一度は越えなくてはいけないものなのだろう。

それがたまたま今だったのだ。

それが早いのか遅いのかはわからない。

ただ、一人の芸術家として絵を描くために、描き続けるために取らなくてはいけない選択がある。



その日、茜色の太陽が消え去るまでその場所にいた。

風が戻った空は藍色で、その藍色が自分の心を落ち着かせてくれるように感じしばらくの間、そこにいた。

夏の夜の香りと潮風の香りが混ざり合っていた。



翌日、親に喫茶店のオーナーの連絡先を聞き自分の意思を伝えた。

彼は、電話口でもわかるほど「わかった」と嬉しそうに言ってくれたのだ。

その声は僕の背中を押すには十分すぎるものだった。


その週末、新谷があの喫茶店にまた来てくれることになり、僕もその場所へと向かった。

オーナーも一緒に立ち会ってくれると言ってくれていたのが心底心強かった。



僕の、新しい門出だ。

芸術で、絵で、生きていくための。



「いやぁ、良かったよ」

そう言いながら新谷がコーヒーを一口、口に運んだ。

今日は濃紺のスーツだ。前も思ったがさすがは大企業の役員なのか、見るからに良い生地だ。



「いえ、僕の方こそ、こうして目をかけていただけて嬉しいです」

そう答え、コーヒーを飲むが口の中はいつになっても潤わない。緊張しているのだろうか。


「細かな契約書なんかは、あとで秘書の方から連絡を入れるから。何か気になることがあったら私に連絡をしてくれても良い」


はい、と答えもう一口コーヒーを飲む。

オーナーはゆったりと微笑んで僕の横に座っていてくれた。


「あの、あの絵、どこかに飾る予定とかあるんですか?」


「あぁ、所有している画廊にね。飾ったら、見にきたら良い」

そう笑う彼は、欲しいものを手に入れたのだという充足感に満ち溢れた顔をしていた。


ジャズの柔らかな音が聞こえた。ピアノの音だ。

以前オーナーに何の曲か聞いたことがある曲だった。

前奏のゆったりとした曲調から、少しだけ小気味の良いリズムに曲調が変わった時だ。

新谷が立ち上がり、壁に飾ってある絵に近づいた。

思わず自分も立ち上がって彼の後ろにたった。自分より背が少し高い新谷の背中は、生きていくために必要なものを携えた大きな背中に見えた。

だけど同時に、そんな人がいないと、自分は絵を描いていけないのかという小さな絶望感が襲ってきた。


悔しいが、仕方がない。

描き続けるためには、この選択が一番だ。


(これでよかったんだよな?)


そう急に別の自分が問いかけてくる。

けれども、新谷の背中を見るほか僕に選択肢はなかった。



「高浦くん、君はずっと絵を描いていたいかい?」

新谷がこちらを向かずに聞く。


「はい」

小さな声で、けれどそれは紛れもない本心で答えていた。


「それなら、ちゃんと売り込んでやるからな。まぁ君の今後の活躍次第だけど」


その言葉は、当たり前のものだった。

今後作る作品次第で、僕の人生がどうなるかなんてわかり切っている。


(よかったんだよな?)



なぜか、自分の胸を抉るような、切り裂くような、そんなものを感じた。


俯いたまま、小さく「はい」とだけ答えるのが精一杯だった。


新谷が動く気配がしたため、そっと顔を上げると彼は何を思ったのか、

壁にかけてある絵の額をそっと撫で始めていた。

自分の描いたものが大切にされているはずなのに、喜ばしいはずなのに。



耐えられない。

触らないで欲しい。

その場所のために描いた、その絵に。

僕のために描いた、その絵に。


真っ黒な感情が自分の中に溢れ出している。

そう頭が理解した時にはもう僕の体は動いていた。


「樹くん!」


オーナーが自分を呼ぶ声が聞こえた。

でももう、自分を止めることなどできなかった。


新谷を押し除け、壁から額を外し自分の描いた絵を引っ張り出した。

そしてそのまま、この手で、その絵を破った。


こんなものがなければ、こんな思いをせずに済む。

こんなものがなければ、誰かに生きてく術を与えてもらわなくても済む。

こんなものがなければ、誰かに価値などつけられずに済む。


新谷の顔が真っ青に染まるのがわかった。

驚きに染まったその顔は心底面白かった。


その顔を見た後、そっと目を閉じた。

目の前に広がる藍色が、あの海で見た藍色の空よりももっともっと深くて、ただ綺麗だった。



雨の降る、8月のある日のことだった。



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