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樹の苦悩2


「高浦くん、今日も良い感じだね」


「ありがとうございます」


美術教室で、今日も先生が声をかけてくれた。

その言葉に純粋に喜んでいる自分がいたのと同時に、周囲の他の生徒からのほんの少しの居心地の悪い視線を感じた。

けれどもそんな視線に負けていたら絵など描いていられない。

高校3年、気づかないふりをするのはもう随分と得意になっていた。

志望していた美大は合格確実だろうなんて周りから言われていた。

そんなに簡単なものじゃないとは思いつつも、周りがそう言う気持ちもわからないでもなかった。コンクールでは自分の画風やテーマに沿ったものを選んでいるということはあったが、何度かそれなりの賞をもらったことがある。

それに一般教科の成績も悪くない。

高校の先生には他の、美術系の学部がない有名大学も受かるんじゃないかとこの前の面談時に言われた。

けれど自分の気持ちは決まっていた。

美大に行って絵を学び、絵を描きたい。

ただそれだけだ。


その日、僕は自分の絵が飾られている場所へ来ていた。

小さな頃から何かにつけて両親に連れて行ってもらっていた街の喫茶店だった。

オーナーさんと両親の仲も良く、彼は僕の絵を随分気に入ってくれて、中学2年の時か、何か店のために描いてくれと言われその店に合うものをと考えて描いた絵だ。

おそらくこれが家族以外の誰かに描いてくれと言われはじめて描いた絵だった。


深い緑色のソファと、ダークブラウンのアンティーク調のテーブル、落ち着いた雰囲気のその店は窓が大きく、午前中は陽の光が心地よく差し込み、夕方になるとしっとりとした雰囲気を漂わせる店だ。


その雰囲気に合うように、それに自分の妄想とも言える、ずっと抱いていた密かな願望を込めて描いた。

ここから森が見えたら、言い表せないくらい綺麗だろう、そんな願望だ。


描いたものをオーナーに渡した時、彼は顔をシワクチャにしながら喜んでくれた。

今では店内の壁面に飾られているのだ。

幼い頃から行き慣れている店に自分の絵が飾られている不思議な感覚が最初こそあったが、オーナーの喜んだ顔と、自分の小さな願望が叶ったことが純粋に嬉しかった。



コーヒーはほどほどにね、と耳にタコができるくらい母親には言われているが、この喫茶店で飲むコーヒーは他のそれとは比べ物にならないほど美味しいのでいくらでも飲めてしまいそうな気分になる。

注文が入ってから豆を挽きドリップしてくれるため提供されるまでに少し時間はかかるが、その味は上品な酸味と深いコクが忘れない味なのだ。

出来上がるまでの時間は店内に柔らかく響くジャズの音を楽しめるのも良い。



カランコロンと入口にかけられたベルが鳴った。

その音に入口を見ると、約束相手だろう人が店内を見渡している。

ソファから立ち上がり、彼の方を向いて軽く会釈すると彼も気づいてニコリと笑顔を向けてくれた。


「待たせてしまって、申し訳なかった」


そう言いながら暑そうにグレーのスーツの上着と持っていた鞄を自分の向かい側の席に置きながら彼は座った。

髪をポマードでオールバックに固め、清潔感のあるその顔は、イメージしていた人の顔と少し違うものだった。


「はじめまして、新谷と言います」

『新谷正一』と書かれた名刺を差し出され、僕はそれを受け取り挨拶をした。


「はじめまして、高浦です」


「いやぁ、分かってはいたけれど高校三年生なんてな」


そう笑う目の前の人のことを紹介してきたのは、この店の店長だった。

オーナーではなく、今日もこの店のコーヒーを作っている40代くらいだろう、田辺という名前の店長だ。


「高校三年っていうことは、今年受験か?もちろん美大に?」


その質問には、はいとだけ答えた。


「田辺さんにあの絵を書いた時、君はまだ中学生だったって聞いた時には流石に驚いたよ」


そう言って彼は壁に飾られた、僕の書いた絵を眺めた。

口元には笑みを浮かべ、自分も気に入っている絵をこの目の前のこの人も気に入ってくれているのだということがわかると、それまで僅かに抱いていた初対面の彼への不信感は少しだけ薄くなっていった。


「で、早速なんだけれど」


そう新谷は話を続けた。

彼は、絵の収集を行う人間のようで、特に若い画家や名前が売れ始める前の画家の絵を買い集めるのが趣味らしい。たまたま来たこの喫茶店で僕の描いた絵を気に入り、そこそこコンクールなどで名前が知られていたからか、すぐにでも会いたいとこの店の店長を経由し話が来たのだ。

本業は誰もが知る大きな会社の役員らしく信頼に足る人間だから、と店長に紹介された通り、名刺には重々しくその企業名と取締役という肩書が書かれていた。

何故こんな大して大きくもない街の喫茶店にと思ったら近くに親類が住んでいるらしく本当にたまたまだったということを店長が言っていた。

念のため両親にも話をしたが、この店で会うのならと何ら心配もされず、社会経験の一つと思って自由にしなさいとだけ言われてきたのだ。



「いくつか作品を見たいんだ。風景をテーマにしたものがやはり多いのか?」

話だけで作品は持って来なくても良いと店長づてに聞いていたはずだが見たいと言われ少しどきりとした。

けれどもこんなこともあろうかと、念のため自分の作品のいくつかを写真に納めてきていた。

物を持ってきても良かったがサイズが大きいものもあり学校にまで持っていくのは流石に気が引けたためこの方法を取ったのだ。


「はい。ものは持ってきていないですが作品の写真、あるので見てください」


そう言って、スマホのカメラロールに納めた自分の作品たちを彼に見せた。

彼はスマホ自体を受け取って、食い入るように一つずつ見て行った。


「これは、どこかの路地か?」


「あぁ、それは昔両親にスペインに連れて行ってもらった時に見た路地をテーマにしてます。雨上がりだったからか、その路地のもつ元々の雰囲気なのか、少しだけ寂しげな道に見えて。それを描きたいと思って」


「これは?」


「それは隣の市の山から着想を。夏の日に電車からみた風景が綺麗で」


「なるほどな。どれも素晴らしい」

そういうと彼はスマホを自分に戻してきた。

言葉とは裏腹に、これ、と名指しする作品がなかったことに少しがっかりしたものの、そもそも自分の絵に値段がつけられるなんていうことが想像できなかった。

だからか少しの安堵を覚えたのは、自分でも意外だった。



「あれは?」


そう言って新谷が指さしたのは、この店の壁に飾ってあるあの森の絵だった。

何を元に描いたわけでもない、ただただ自分の想像と妄想で作り上げた、この店に一番合うだろう森だ。



「あれは、特にどこという訳ではないんです」

中学2年の自分が妄想したものだということを知られるのが少しだけ恥ずかしくなり、曖昧な言い方をした。


「うーん、やっぱりあれが一番だな」


その言葉に、自分の胸の内がピリリとした気がしたのは気のせいか。


「あれは……ここのオーナーさんに頼まれて描いたものなので、もう僕がどうこうできるものではないです」


「不躾で悪いが、周りくどい話が苦手でね。いくらなら譲ってくれる?」


「えっと、だから僕の手からはもう離れているので」


「じゃあ、そのオーナーが良いといえば相談に乗ってくれるか?」


新谷が言う言葉に、こちらの言葉は詰まってしまった。

オーナーが良いと言うのだろうか。あの顔をシワクチャにして喜んでくれたオーナーはあの絵を手放すことなどあるのだろうか。

けれどもそんなものは自分の自惚かもしれない。


「オーナーさんとお話しされてからであれば、考えます」


どうにか口にした言葉はそれだけだった。


新谷はその後、店長にオーナーの連絡先を確認し仕事の予定がと言って忙しなく喫茶店を後にした。

彼の座っていた席の目の前に置かれたコーヒーカップには、置いて行かれたように冷めたコーヒーが少しだけ残っていた。

嵐のように彼がいなくなった後も、僕はそのソファから立ち上がる気が起きず、ぼんやりと、あの森の絵を眺め考え事をしていた。

考え事と言ったら少し語弊がある、空っぽな頭の中の、雲のような感情を捕まえようとしていたのだ。


彼は買い集めた作品を、自身が所有する画廊に展示しているらしい。

ネットで調べたら確かにその画廊は存在し、定期的に更新されているその画廊のSNSを見ると、

彼の本業もあってか名だたる経済界の偉い人たちが来訪した旨を紹介していた。

自分の絵に、お金と言う価値がつけられる、そしてこんな人たちに見てもらえるのかと思うと、純粋に新しい世界が見えるようでワクワクした。

絵を描いて生きていける人などほんの一握りの人間だ。

その可能性を今掴もうとしているのではないか、そう思うと自然と顔に笑みが浮かぶようだ。

けれども実際には笑みなど浮かばない。その理由が何なのか、自分にはまだわからなかった。


気のせいかいつもより苦味を感じる、冷たくなったコーヒーを飲み干して喫茶店を後にした。


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