樹の苦悩1
風が吹いた。
その風にハッとさせられた時にはすでに遅く、目の前に置いてぼんやりと眺めていた一枚の紙は飛ばされていった。
急いでその紙を追うと、一人の女子学生が拾ってくれていた。
仄かに茶色に染めた髪、黒い半袖のブラウスにデニムという、決して派手なタイプではなく、言っては悪いがどこにでもいるような出立ちの女の子だった。
彼女は、じっと描かれたものを食い入るようにみていたのだからどうにも居心地が悪い。
自分が描いた絵を人に見せることなんてしばらくしていなかったのだ。
それが、瀬戸茉莉花との出会いだった。
二度目、正確には三度目に会った時に話しかけた。
お礼を、なんて自分にしては珍しく人に話しかけようと思ったのだ。
もしかしたら頭の片隅に、あの食い入るように見ていた理由を聞いてみたいという馬鹿みたいな思いがあったのかもしれない。
知り合ってから1ヶ月も経っていないが、彼女は自分にとって随分と面白い存在だった。
最初に見せてくれたのがまさか失恋劇なんていうことは誰も想像しないだろう。
人の不幸を笑ってはいけないとはわかっているが、笑わずにはいられない。
それに、そんなことに真っ直ぐと悩んで泣いて怒って笑う。そういうことができる彼女に少しの羨望も抱いていた。
お互い関係のない人間、という距離感がちょうど良かったのだろう。
自分は恋愛相談相手に仕立て上げられ、
逆に彼女は、芸術とか絵なんてものには関心がなかったようで、だからこそ自分の描いた絵を見せてもいいやと思う相手になった。
けれどももう一つ、彼女に絵を見られても良いと思った理由があった。むしろそちらのほうが大きかった。
あの絵を「綺麗」と言ったんだ。
僕が、藍色で塗りつぶしてしまったあの絵を。
***
「たかう……樹っていつから絵描いてたの?」
夏らしい白いノースリーブのチュニックを着た彼女は今日も相変わらず絵を描く自分の横で駄弁っていた。
もうこちらも慣れたものだし、なんてこともない。むしろ意味のない会話をしながら筆を握ることができるようになったのだから、人間わからないものだ。
「樹で良いって言ったけど、そんな無理して呼ばなくて良いよ」
思わず笑いながら、数日前の夜のことを思い出した。
恐らくあれが失恋劇の終わりだったのだろう。
わんわん泣いて歩く女の子を一人放っておくほど、流石に自分も腐ってはいなかったことに安心しつつ、彼女のその真っ直ぐさが何故だか少しカッコよく見えたのだ。
そして彼女のことも、そんな彼女を羨ましく思っている自分自身のことも面白くなって、少しだけ仲良くなってみようと思った。
「いや、私のぐだぐだな感情を断ち切る援護をしてくれたから、樹の言うことは聞いておこうかと」
「なんだそれ」
そういう茉莉花はへへっと笑っていた。
「で、いつから?」
「いつだろうな。気づいたら」
「本当に好きなんだね」
その言葉に思わず回答が詰まる。
好きなのは勿論だ。
けれど純粋に好きだと言えるほど、自分の絵に対する感情はシンプルなものではない。
回答に留まっていると彼女が聞いてくる。
「何でそこ止まるの?好きだからやってるんじゃないの?」
「息するのと、同じ感覚」
悩んだ結果口から出た答えだ。
「え、描かないと死んじゃうんですか?」
その質問はさらに難しい。
描かないと死ぬ。
けれど描いていても死ねるのだ。
むしろ描いていた方が死ぬかもしれない。一度そんなようなことがあったのだから。
また回答に困っていると茉莉花は理解ができないといったような表情をしていた。
相変わらず顔にすぐ感情が浮かぶ人だ。
「茉莉花って、無意識だろうけど核心をつくようなこと言うよね。描かないと死ぬかもだけど、描いてても死ぬよ」
「いや、そりゃ人間だからどっちにしろ死ぬんだろうけど」
自分の考えていることと、彼女の言葉の間にあまりにも乖離があるのが面白くて思わず笑ってしまう。
きっと茉莉花と仲良くなっても良いかなと思えたのはこう言うところもあるんだろう。
夏の芝生は青々と茂り、白っぽい太陽の光の下、氷菓を食べている人や、ほんのり滲んだ汗を光らせる人、大の字に寝転んでその陽を浴びる人。
そんな様子は自分にとって浅葱色の世界に見えたのか。
青とも緑とも言えない、薄い薄い藍色を今日は選んでいた。
ほとんど黒に近い藍色を好んでいるはずなのに、その日は浅葱色で真っ白な紙を塗り始めたのは感情の変化なのか。
そう思いながら筆を進めていると、例の如く茉莉花が絵を覗き見てくる。
「それ、海?」
相変わらず彼女は面白い。
僕が何故塗りつぶしたような絵しか描かないのかなんてことは気にせず、見たまま、思ったままを言う。それが心地よかった。
「そう思うのなら、それが正解」
「また難しいこと言ってる」
少し顔をしかめながら茉莉花は言いながら荷物を片付け始めていた。
「バイト?」
「うん。人って不思議だよね、暑くなりはじめはお客さん来ないのに、ここまで暑くなると涼を求めてお店混むんだよ」
はぁっと笑いながらため息をついた彼女は、バイト先が混むことを嫌だとは思っていない様子だ。
じゃあまたね、と言って立ち上がり茉莉花はその場からいなくなった。
彼女がいなくなってからは目の前の絵に集中した。
自然と彼女とは話しながらでも筆が動かせる。絵のことなんてわからないだろうという安心感があるからだろうか。
自分でもわからない。
一人で集中して絵を描き始めると何かに取り憑かれたように目の前にある一枚の紙を仕上げて行く。
昔やっていたような大創作は全くしていないが、どんなものを描いていてもこの感覚はその頃も多少あった。
けれどもあの頃と違ってその感覚がひどい上に何を描きたいのか、何を描いているのかすらわからない。
しばらく握っていなかった筆を久しぶりに握ったものの、あの藍色で、一つの絵を塗りつぶしてしまった日から、ずっと何を描いていいのか分からないのだ。
確かあれは、夕陽の絵だった気がする。
綺麗な、瞬きすらしたくないと思える夕陽だったんだ。
空は青を水に流したように薄く、白菫のようにも見える色を選んだ。
きっとそんな景色をどこかで見たのだろう。
微かな記憶の中では水平線に沈むはずだったが、作り上げた茜色があまりにも綺麗で海は描かなかった。
清々しさと少しの憂いを含んだその絵は、自分の心を落ち着かせてくれた。
自分が描いたものなのに自分で見て落ち着くなんてあまり理解されないが、僕にはそう言うことがよくある。
自分のためだけに描いていているのだから当たり前だとは思うが。
けれどある日、筆を握った瞬間に衝動に駆られたんだ。
そんな綺麗なものを壊してしまいたいと言う衝動だ。
そんな衝動を持ってしまった理由は、わかっている。
全部壊した時ほど、綺麗なんだ。
壊した後にそっと目を瞑る。
その時見える藍色が、綺麗なんだ。