茉莉花の失恋1
夏の始まりになるのだろうかという空の下、いつものように私は大学の授業へと向かった。
「おつかれ!席、ありがとう」
友人の綾美が声をかけてくる。
「うん、貸しイチね」
そう答えると綾美は、わかってるってと言いながら私がとっていた席に座った。
綾美の横顔はいつ見ても凛としていて、綺麗だ。そんな風に思える友人がいることは勝手に心の片隅の小さな自慢だ。
彼女とは大学1年の教養の授業で同じ班だったことで仲良くなった。
「茉莉花、今日授業の後、予定ある?」
「あー、うん」
その答えに綾美が少し呆れた顔をする。
「またあの人?」
そう聞かれるので苦笑いをして頷く。
「もう、いい加減にした方が良いんじゃない?遊ばれるだけって辛いだけじゃん?」
その言葉は自分の心には痛かった。
けれど、辞められない。自分を止められないんだ。そんな自分が不甲斐ないとは思う。
「わかってるんだけどさ」
「実らない恋なんでしょ?さっさと捨てて次行こうよ」
その言葉に曖昧に笑いながら頷いた。
その日の授業は全然面白くなかった。
そもそも大学に入ってから面白いと思える授業は数えるほどだ。
けれども自分で選んだ大学、学部だ。
なんとか面白さを見出さなければと思いながら大学に通っているのはきっと周りのみんなも同じだろう。
***
授業が終わり綾美と別れた後、
少し予定の時間まで空き時間があった。
カフェで時間を潰すには短すぎるし、予定の場所まで早めに行くには早すぎる。
久しぶりに構内にある小さな庭園にでも行こうと思い一人、足を向けた。
各学部ごとに分かれた校舎とは別にある、共通校舎の裏手にあるその小さな庭園は学生が思い思いに過ごしている、割と居心地の良い場所だ。
ベンチに座るカップル、
1人で本を読んでいる人、
友達と談話をするグループ、
ピクニックのようにお弁当を食べる人、
楽器を吹く人。
みんな自由だし、元々自由な校風というこもとあってか大学側もここでの自由を許してくれているのだ。
ちょうど空いたベンチがあったので、そこに座り一息をつく。
梅雨が明けるかどうかという今日は、よく晴れていて気持ちが良い。
風が程よく吹いていて、気温は高いが暑苦しくはない。
梅雨は植物を潤わせ、優しく見せる気がするから嫌いではないが、やっぱり晴れた日の方が好きだ。
早く夏が来れば良いなと思いながらスマホを取り出し、約束している人にLINEを送る。
『夕飯作るね』
既読がつくのはきっとしばらく経ってからだろうなと思うが、
返事が来る、それだけで良い。
そう思っていた。
自分でも馬鹿馬鹿しいと思う。
好きだったサークルの先輩に、告白してフラれたのに、良いようにされている。
弄ばれてる、と言った方が良いのか。
付き合う、という形をとっていないだけであって実際はそういう関係なんじゃないかと勘違いすることもある。
けれども自分は彼の特別にはなれない。
ただ、彼の同情のような優しさに漬け込んで、そばにいれるという脆い幸せに浸っているだけだ。
それでも辞められない。
いつかもしかしたら。
そんな自分が不甲斐ないとは思ってはいる。
ふと空を見上げると、真夏と見紛うような入道雲ができている。気持ちが良い空だ。
そう思った時だった。
一瞬、強い風が吹いた。
思わず髪を押さえる。
自分は飛ばされるようなものを持っていなかったが、本を読んでいた人は勝手にページがめくれ、レポートだろうか、紙を手元に置いていた人は見事にバラバラと飛ばされていた。
そんな様子を他人事に見ていると足元に一枚、紙が飛んできた。
誰かのものかと思い手に取り拾い上げると、それは一枚の絵だった。
思わず息を飲んだ。
青天の霹靂とはこういうことを言うのか、と。
自分の体に何か電気のようなものが走った気がした。
藍色と茜色。
たったの二色で描かれた抽象的な絵だ。
夜の藍と、夕方の茜色なのか。
それとも別の何かを描いたものなのかはわからない。
けれどその深い藍色と、鮮やかな朱に染まった茜色が自分の心を奪っていったことは確かだった。
「あの…」
その声にハッとし、声の主の方を向いた。
目の前には自分と同じ学生だろう男の子が立っていた。
「あ、ごめんなさい。これ、あなたのですか?飛ばされなくて良かったです」
「ありがとうございます」
持っていた絵をその人に返すと彼はそう一言だけ言って自分の前から立ち去った。
その後ろ姿をいやらしくない程度に目で追うと、自分の座っていたベンチから少し離れた芝生の上で画材を広げて絵を描いているようだった。
(うちの大学、芸術系の学部ないのにな)
もったいない、そうなんとなく思った。
少し早いが、そろそろ向かっても良いかと思っているとスマホが揺れる。
珍しく連絡が早く返って来た。
嬉しくなってすぐその内容を確認する。
『今日は夕飯、大丈夫。けど少し話したいことある』
その言葉にさっと背中に嫌な感覚が走った。
これは、何かまずいやつだな。
第六感が言う。
話したい事があるなんて、わざわざLINEで送ってくるなんてきっと良いことではない。
思わずため息が漏れた。
『わかった!じゃあとりあえず予定通り、そっち向かうね』
気付かぬふりの返事をして、重い体をベンチから持ち上げ駅に向かった。
何を話されるのだろうと考える。
何度も何度も、私は言ってきた。
好きだから、そばにいれたらそれで良いから。
だからキスだってしたし、体を重ねることだってしてきた。
それを今まで許してくれていたのは彼だ。
まんざらでもない表情や行動をしてきたのも彼だ。
今更、何を言われるのだろうか。
良い加減、やめようという話か。
いつか言われるとは思ってはいたが、本当に言われるのかと思うと苦しい。
けれどもここで逃げたとしても何も意味がないことくらい、わかっている。
肩から背中のあたりに何か冷ややかなものが乗っているような感覚に襲われながら、彼の住む家に向かった。
インターホンを鳴らす。
これを押すのももしかしたら最後なのかもしれないと思うと押してはいけないものを押してしまったのではと思うが、もう遅い。
ガチャリとあいたドアから彼、飯山颯太が出てきた。
「おぅ」
そう言って自分を招き入れる彼はいつも通りの声だ。
けれどもわかってしまう。
その空気がいつも通りではないことを。
「今日晴れて良かったね、梅雨もう飽きちゃったや」
本題を話されたくない。
わかりやすいくらいにどうでも良い言葉が口から流れ出る自分が虚しく感じるが仕方がない。
「……茉莉花、ごめん。話したいことあるんだけど」
あぁ、やっぱりなと思って口を閉ざすと重い、沈黙が流れた。
自分が口を開く順番ではないので黙っていると、颯太がそっと口を開いた。
「もう、こうやって会うの辞めたいんだ」
「……なんで?」
「……言いづらいんだけどさ、好きな子できた」
「……そっか。誰?」
「言いたくない」
「それはなくない?」
「茉莉花、傷つけるから、言いたくない」
「そういう言い方するのは、私の知ってる人だってことだよね?教えて。じゃないとその人に変なこと言っちゃったりするかもだし。私たちのこと、その人知らないでしょう?」
そう言うと、颯太は黙って俯いた。
どうしてそんなに苦しそうな顔をするんだろうと思う。
苦しいのはこちらなのに、相手がそんな顔をすると私は苦しい顔なんてしてはいけない気になってしまう。
私は何も悪いことはしていないはずなのに。
「ねぇ、誰?」
「沙希」
その名前に大きくため息をつきたくなった。
沙希さんは、同じサークル、颯太と同じ学年だ。
明るくって、面倒見が良く、私にもよく声をかけてくれる、けれどそれがお節介とかそういうものに感じない、素敵な人だ。
どうしてそんなにも近い人を今更、と責め立てたくはなったが、そんな権利私にはない。
「そっか。じゃあ私、だいぶ邪魔者だよね。もう、やめるね。色々と」
そう言って床に置いたバッグを手に取り玄関に向かおうとすると、颯太が口を開いた。
「茉莉花、ごめん、本当に」
謝るくらいなら、最初からなにも期待させないでほしかった。
最初から私の全てを拒絶して欲しかった。
颯太の言葉には何も答えず、玄関を出た。
駅までの線路沿いの道は何度も颯太と歩いた道だ。
友人の綾美にしか話していなかった関係だったから、誰かに見つかりやしないかと思いながら、少しだけそのスリルと好きな人の隣にいれると言う喜びを噛み締めながら歩いた道だ。
そんな道も、今日はまるで闇に向かう道のように暗く重い。
目の前が滲み、口元が震えてくる。
どうして……どうして。どうして!
ずっと優しくしてくれていたのに。
せめて颯太の好きになった人が自分の知らない人だったら良かったのに。
せめて、私から見てそんな女なんで好きになったの?とでも罵れるような相手だったらよかったのに。
悲しい訳ではない、苦しいとも違う、当てようのないこの気持ちをどこへ向ければ良いのかわからない。
渦巻く気持ちが爆発しないようにギュッと唇を噛んで歩いた。
雨の降っていないその梅雨の日の夜は、昼間見た入道雲など見間違いだったかのように季節外れに少し涼しく感じた。
次の日、平年より早く梅雨が明けた。
そんな夏の始まりだった。