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【第2話】居酒屋と新人



「やっぱりここの串カツは美味いな」


 俺は箸を置いて、中ジョッキを口に運んだ。酒は嫌いではない。むしろ好きだ。執筆しているときは飲まないと決めているが、誘いを受ければ断らない。最近少し腹が出てきた気がするが、些細なことだろう。


「火の通り方がちょうどいいよな。これ以上熱し過ぎたら固くなるっていう、ギリギリのラインをキープしてる」


 カウンターの横に座った巨漢が笑う。石川隆。東美新聞社の印刷局に勤める、俺とは同期入社の男だ。研修で一緒のグループになって以来、石川とは妙に馬が合って、月に何度か飲んでいる。


 いつも笑顔を絶やさない石川は、一緒にいて気持ちが良い。低反発のマットレスに寝転がっているような心地よさがある。カウンターで隣に座られると少し圧があるが、大して気にならなかった。


「そういえばさ、お前んとこの颯花ちゃん、先週が誕生日だったよな。いくつになった?」


「もう六歳だよ。来年から小学校だ。あっという間だよな」


 石川は入社して一年も経たないうちに、大学時代から付き合っていた彼女と結婚していた。良い言い方をすれば、授かり婚だったらしい。颯花ちゃんには、何度か会ったことがある。母親の遺伝子を濃く受け継いだ、目がくりくりしていて可愛らしい女の子だった。


「なぁお父さんよ、何かプレゼントしてあげたのか?」


「変身もののアニメのグッズを買ったよ。喜んでもらえた。あと、来月有休をとって、家族で鎌倉にでも行こうと思ってる。共働きでなかなか構ってあげられない分、一緒に過ごせる時間は大事にしなきゃな」


 いっそう石川の口元が緩んだように見えた。きっと今日も八時には帰るのだろう。家族の待つ家へ。残された俺は、騒がしい居酒屋でわびしく一人呑み。安い日本酒であまり良くない酔い方をするのかもしれない。


 ビールをまた口に運び、「良いパパだな」と僻み半分で言った。「よせよ、褒めても何も出ねぇぞ」と石川は朗らかに笑う。不思議なくらいに白い歯が見えて、俺の嫉妬は容易く解体される。


「で、お前の方はどうなんだよ。バドと柔道の掛け持ちは大変だろ」


「まあようやく慣れてきたとこだよ。でもさ、聞いてくれよ。八幡さんがさ、さらに俺にスケボーも担当しろって言うんだよ。三競技なんて体が二つあっても足りないっつうの」


 石川と喋っていると、胸の奥に秘めた不平不満ですら引きずり出されてしまう。脂肪をたっぷり含んだ巨体は、何を言っても受け止めてくれそうな安心感があった。社内でえびす様とあだ名をつけられているのも頷ける。

 

「八幡さんはさ、新人を俺によこしてくれるみたいだけど、配属されたばかりじゃかえって手がかかるっつうの。結局さ、あの人は何を言っても俺が聞くと思ってんだよ。まあその通りなんだけど」


「でもさ、その新人けっこう優秀らしいぞ。人事の道上に聞いたんだけど、研修の成績もトップみたいだし、期待できるんじゃないか」


 さすがは笑顔を武器に、社内でも随一の情報網を持つ石川といったところか。俺はキャベツをつまみながら、「だといいな」と応じた。何しろ六月からは、猫の手も借りたくなるほど忙しくなるのだ。優秀であることに越したことはない。


 俺の胸には、期待すら芽生え始めていた。辞令が下る日はもう明後日に迫っている。


「じゃあ、俺そろそろ行くわ。いつも通り割り勘でいいか?」


「ああ。颯花ちゃんと佐津紀さんには良くしてやれよ」


「言われなくても分かってるって。そのために腹半分で済ませたんだから。じゃあまた今度な」


「ああ、またな」


 俺もせめてもの笑顔を作った。身を細めるようにして、扉から出ていく石川を見送ると、喧噪の中で俺は一人ぼっちになった。大学生が騒ぐ声が聞こえる。


 豚串をつまみに中ジョッキを空けた。グラスを置く音はか弱くて、すぐに消える。周囲に人はいるのに、まったく俺は孤独だった。


 一つため息をつく。油にまみれた空気が、胃の中に入ってきて、かすかに目眩がした。




***




 編集局に運動第二部の面々が集合していた。年度初めに社長から訓示を受けたとき以来だから、実に二ヶ月ぶりだ。窓前のデスク席のそばに、二人の新入社員が立っている。男女一人ずつだ。


「じゃあ、これから第二部に配属になった新人二人に挨拶してもらおうか」


 デスクの一人で、第二部では一番の年長者である向田さんの声が、広い室内に浮かんだ。男の方はひどく緊張しているように見える。直立不動で、表情も強張っている。


 しかし、女の方は、飄々としていた。肩のあたりまでかかる長い髪が、窓から入ってくる風で揺れる。先輩社員を前にしても、実に堂々としていた。


「この度、編集局運動第二部に配属になりました徳永絵理子です。大学まで弓道をやっていました。なので、集中力や忍耐力には自信があります。まだまだ配属になったばかりで、至らぬ点は多々あると思いますが、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします」


 明瞭な声だった。小柄な体型からは想像もできないほど、良く通る声だった。伸びた背筋は、さすがは弓道経験者といったところか。言葉の節々に瑞々しさが感じられる。取材相手にも邪険に扱われることはなさそうだ。


 少しの間があったのちに、男が声を張り上げた。見くびられないように必死に取り繕っている姿が、ほんの少しだけ微笑ましい。


「この度、編集局運動第二部に配属になりました可児純真です。サッカーやオリンピックにはあまり詳しくありませんが、高校まで打ち込んでいた野球で培った気力と不屈の精神を持って力の限り、業務に当たります。何卒よろしくお願いします」


 可児は大げさに頭を下げた。正直すぎる自己紹介をしたその顔は、目が左右に泳いでいて、口が固く結ばれていた。大して暑くもないのに、額に汗が滲んでいて、先が思いやられる。


「この二人が、今日から配属になるから。お前ら、よろしく頼むな。徳永は根本について五輪担当。可児は松谷についてサッカー担当。詳しいことはそれぞれに聞いてくれ。じゃあ、仕事に戻ってくれ」


 その言葉を合図に、日常が編集局には取り戻される。ショルダーバッグを担いで、一年後輩の星原が駆け出していく。他の人間も自分の仕事に戻る。


 徳永が早足で俺の元へと向かってきた。まるで餌を目の前にした子犬みたいに。俺を見上げる目は、幼稚な希望に溢れていた。


「根本さん、改めて初めまして。徳永絵里子です。これからご指導のほどよろしくお願いします」


「うん、さっき聞いたから。今日これから取材だけれど、ついてくるんだよな」


 素っ気ない対応をしてしまう。やる気満々の新人を見るのは辛い。これから現実の厳しさを目の当たりにして、曇っていくのが目に見えている。


 いくら前評判が良くても、小柄な徳永がその負荷に耐えられるかどうかは未知数だ。


「はい、もう準備は出来てます。八幡さんから聞いたのですが、根本さんはバドミントンと柔道を担当していらっしゃるんですよね。今日はどちらの取材に行かれるんでしょうか」


「残念だけど、そのどっちでもねぇよ。今日はスケートボードの選手の取材だ。俺もスケボーを取材するのは初めてだ。ただでさえ慣れてないんだから、あまり邪魔はすんなよ」


「はい! 精一杯、勉強させていただきます!」


 徳永は微笑んだ。笑顔が万能の武器だと信じているのだろうか。


 俺は、少しため息をつく。可児とは違った意味で、先が思いやられる。


「それはさておき、お前もうパソコンのセットアップはしたのか? 帰ってきてパソコン動きませんじゃ話になんねぇぞ」


「すいません、そういえばまだでした。どのようにすればよろしいのでしょうか?」


 上目遣い。胸を掴まれる感じがして、不快だ。


「マニュアルは松谷が持ってるから、それを見てくれ。分からないことも松谷に聞けば、大丈夫だから。俺は取材の準備をするから、あまり話しかけてくんなよ」


 徳永は、無駄に元気のいい返事をして、向かい側にある松谷の机へと向かっていった。マニュアルを貰ってパソコンとにらめっこをしている。俺は、取材相手の最終確認に入った。


 資料を開こうとすると、周辺視野に手招きをする八幡さんの姿が映る。行かざるを得ない。


「八幡さん、どうしたんですか」


「なに、大したことじゃねぇよ。徳永はウチの期待の星だからな。くれぐれも潰すような真似はよしてくれよ」


 不意に見せる笑顔に、俺は背筋が伸びるのを感じた。


 つまり、八幡さんは徳永が可愛いのだ。お気に入りの部下を見つけた嬉しさで、心が緩んでいるのだろう。俺が新人のときは、叱咤の限りを尽くして、しごきにしごいたというのに。


 随分と丸くなったものだ。当然、口には出さない。


「分かりました。気をつけます」


 今なら八幡さんに付け入ることもできる。しかし、そんなことをしたら次の瞬間には、鋭い牙が食い込んでいそうだ。俺は、八幡さんの顔をしっかりと見て答えた。傷物に触ることを余儀なくされたような。


 振り向くと、そんなことはつゆ知らず、徳永は真剣な眼差しでパソコンに向かっていた。


 短くて長い十ヶ月が、こうして始まりを告げた。



(続く)

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