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【第1話】犬と小説



 映画が好きだった。冒険映画が。


 どんな困難を前にしても、決してめげない主人公に、自分を重ね合わせていた。立ち上がる姿に励まされたことも、一度や二度ではなかった。


 いつからだろう。破滅を求めるようになったのは。俺と映画の主人公は、違うと知ってしまったのは。


 現実にはハッピーエンドなんて、めったにない。勝者はほんの一握り。誰であろうと一度は負ける。最後には必ず勝つ主人公は、絵空事に過ぎない。


 それでも、もし粒子みたいに小さいチャンスがあるなら、俺は手を伸ばすだろうか。叶わない夢だと知って、高い空を見上げるだろうか。


「根本、おい根本」


 腹まで響く低い声がした。含まれた少しの怒気に目線を上げると、八幡さんが立っていた。一九〇センチメートルはあろうかという巨体を屈めることなく、俺を見下ろしている。顔は日に焼けていて、彫りも深い。窪んだ目から覗く眼光は鋭く、唇は厚い。


 Vシネにでも出てきそうな外見だ。サングラスをかければ、完全にその筋のオーラを纏うだろう。


「お前、今日のバドの記事もう出来てるか? まだ締め切りまで時間はあるけど、確認しときたくってよ」


 口調まで厳つい。編集局が一瞬にして、事務所にでもなりそうだ。


 俺は「はい、出来てます」と、印刷ボタンをクリックした。ほとんど逃げるように、プリンターへと向かう。


 スポーツ東美。創刊七〇年を誇る老舗のスポーツ新聞社で、俺は働いている。親会社の東美新聞社は、プロ野球チーム、東美ラビッツも所有し、購買部数もトップを維持し続けている。


 だが、スポーツ東美にはそれほどの訴求力もなく、業界内での地位はせいぜい三番手。編集局長の北方さんは常に部数増を掲げていて、八幡さんはその急先鋒だ。


 この日の俺は、バドミントンのダブルスの取材をしていた。東京オリンピックでメダルが期待される女子ペアの記事だ。俺が所属している運動第二部はサッカーや、五輪競技全般を扱う。


 俺の担当はバドミントンと柔道。所属している記者もあまり多くないので、一人が複数競技をかけ持つのは、半ば慣例となっていた。

 

「おお、ありがとう。さすがに速いな」


 八幡さんは俺の書いた初稿に赤いボールペンを走らせる。心から感謝している? 機械的に口に出しているような気もする。


 だけれど、記事を書くスピードは俺の少ない長所の一つなので、悪い気はしなかった。


「とりあえず、こことここ、直しとけよ。これじゃちょっと分かりにくいから」


 返ってきた初稿には、修正箇所がいくつも書き込まれていた。それでも、全直しよりはマシだ。まだ時間に余裕はある。きっと間に合うだろう。


「ああ、あとそれと」


 自分の机に戻ろうとする俺を、八幡さんが呼び止める。この導入で、良い話だった試しがない。八幡さんは知っているのだ。俺が反発を示さないことを。


「来月からスケボーの担当もしてもらうから。知ってるだろ? 東京オリンピックでスケートボードが新種目になったことは。お前になら任せられると思ってな。やってくれるよな?」


 八幡さんの語尾が下がる。まるで俺が担当するのが、決定事項みたいに。


 冗談じゃない。今でさえ二競技は手に余るというのに、この上、三競技にでもなったら、目が回る程の忙しさになることは明白だ。


 目線を上げる。八幡さんは俺を見つめて、いや、睨んでいた。微かに芽生えた、反逆心もぽっきりと折れてしまう。


「分かりました」


 俺は知っている。陰で同僚から「八幡の犬」と呼ばれていることを。純粋な蔑称。奴らは八幡さんと仕事をしたことがないから言えるのだ。八幡さんに凄まれると、誰だって言うことを聞かざるを得ない。


 俺は犬であり、鉄砲玉であり、体のいい駒でもあった。


 それでも、変える気は起こさない。波風を立てないのが、サラリーマンとして生き残る一番の秘訣だ。


「ありがとな。お前ならやってくれると思ってたぜ。ただ、一人で三競技は大変だろうから、来月から配属になる新人をお前に一人つけてやるよ。けっこう優秀みたいだからな。期待しとけよ」


 そう言い残して、八幡さんは煙草とライターを手にして、喫煙所に向かっていった。三競技を担当して、新人の世話もしなければならない。そちらの方がよほど大変だろうと思ったけれど、声に出さず飲み込む。


 八幡さんに口を挟むなんてできるはずもない。尻尾を振ることで食い扶持が維持されるなら、いくらでも振ってやる。


 俺は机に戻って、原稿の直しを始めた。キーボードを叩く音が、汽笛のように遠く鳴った。




***




 コンビニエンスストアで買ったスタミナ弁当は薄味で、胃は満たされたものの、とうてい満足はできなかった。自炊をする気は、とっくに失せてしまっている。化学調味料だらけの弁当は体に悪いとは思いつつも、面倒くさがる気持ちには勝てない。


 ソファに寝転がる。家具店でも一番安かったソファ。真っ白だった布地もすっかりくすんだ。クッションに顔をうずめる。口を閉ざして、今日の出来事を反芻する。


 上司からの無茶ぶり。心にもない感謝。朱入れされた原稿。目を瞑りたいものばかりだ。それでも、このやりきれなさが通帳の印字に変換される。給料は悪くなく、私鉄の駅から徒歩五分のアパートに住むことができている。頷くたびに、打ち出の小槌を振っているかのようでもある。


 先月新調したばかりのクッションは、まだまだ柔らかい。低刺激の暗闇に俺はしばらく身を預けた。


 起き上がると、一時間が過ぎていた。最近、仮眠の時間が長くなっている。テレビの黒い画面は、額が少し赤くなった俺の顔を映す。ソファからゆっくりと立ち上がる。南向きの窓は、深夜一時には何のアドバンテージにもならない。


 五月のどこか馴れ馴れしい風が、俺の頬を撫でる。同時に香ってくるソースの匂い。隣人も帰りが遅い。


 眠れそうになかった。シャワーを浴びても、歯を磨いても、目が覚めるばかり。今日を終わらせたくないと、脳幹がうずいている。


 もう一つの部屋に、俺は足を踏み入れた。裸足で藺草を擦る感覚が気持ちいい。敷いてある布団を避けるように、平机へと向かう。デスクライトを点けると、白熱灯が樫の模様をぼんやりと照らす。類語辞典をどけて、パソコンの電源を入れた。


 記事を書くのではない。SNSや動画サイトを見るのでもない。Wordを立ち上げると、文字の波が静かに俺の目を濡らした。親切にも前回の続きから書き始めることができるようになっている。


 俺は背筋を丸め、キーボードを叩き始めた。帰りの電車の中で想像した文章が形になっていく。


 舞台は新聞社。政権を揺るがしかねない特ダネを掴んだ記者が、何者かの手によって殺されてしまう。昨日まで同僚だった人間が信じられない。猜疑心に苛まれる編集局。新人記者である主人公は、事件の真相を暴こうとするが、目の前で二人目の殺人を目撃してしまう……。


 画面の奥に宇宙を見た気がした。


 望遠鏡の中には、何万という星が輝いている。サンドアートみたいな空から、見合った星を掴み、真っ白なキャンバスに散りばめていく。文字の羅列は星座のようだ。いくつもの星座が合わさって、二つとない星空を作り上げる。


 瞬く星々の息吹を自分の呼吸に変える。俺の胸はどうしようもない歓びで溢れそうになる。


 時が進むのを忘れてしまうかのように書き進めて、気づけば二時間ほどが経っていた。まだ書き続けられそうな気分だったが、これ以上は明日の仕事に支障が出る。七時に起きて朝駆けもしなければならない。


 デスクライトを消すと、部屋はすっかり暗闇に包まれた。俺は布団に雪崩れ込む。仰向けになると、生暖かい空気が体内に流れ込んでくる。そのままスマートフォンのアラームも掛けずに眠った。


 会社で受けたストレスは、いつの間にかどうでもよくなっていた。




(続く)



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