狭間
やっばい。予約投稿し忘れた
翌朝、鷲尾空は目を覚ますと真っ先に服を脱いで自分の体を調べた。下着だけになり、自室の畳の上に置かれた姿鏡を使って自分の体に変なところがないかを念入りにチェックする。
「……変なところは、無い……よね?」
結果は異常なし。見慣れた自分の姿が鏡に映るだけだ。安心した様な、肩透かしを食らったようななんとも言えない気分になった。
「……昨日の夜のこと、夢……だったのかな……?」
昨晩、空の部屋に彷徨う道化を名乗る仮面の女が浸入し、謎の力で空の体を押さえ付けて、意味不明の言葉を語りながら空の体にこれまた謎のカードを入れた。夢にしては肌で感じたものがリアリティありすぎるのだが、内容が内容だけに現実だったとも信じがたい。
「ロード、候補者、シード……意味分からない単語がいっぱい出てきた気がするけど……あれが夢だったなら私、妄想力逞し過ぎないかな……? それとも、やっぱり転校初日の疲れとかが一気にきたとか……?」
空はそんな事をぶつぶつと呟きながら考えを整理しようとする。取り敢えず飛和達に相談するのは無しだろう。夢オチの可能性が高い法螺話等呆れられるのが目に見えているし、もし本当だったら本当だったで仮にも家族である飛和達を巻き込みたくはない。自分が嫌われていることはわかっていても、空にはどうしても飛和達を嫌いになることが出来ないし嫌うつもりも無い。とはいえ昨晩何か変なことが無かったか、聞いてみるくらいはしようか……と空が下着姿のままで鏡の前で仁王立ちして思考にふけっていた時だ。
「…………空。あんた、下着姿でいつまでも何やってんのよ?」
「うひゃんッ!?」
いつの間にか襖を開けて部屋に入ってきていた風が呆れ顔で空の後ろに立っていた。
「わ、わわわ風姉さんッ! ノックくらいしてよ!! 恥ずかしいじゃんか!!」
飛びのき、両手で抱きしめる様にして体を隠す空は真っ赤な顔で叫んだ。
「したわよ馬鹿。朝ご飯できてるってのにいつまでも居間にこないあんたが悪いんでしょうが。ってか、中学生のお子ちゃま体型で何一丁前に恥ずかしがってんのよ?」
「うーわー! そういうこと言う? そういう言い方しちゃうの!? 私の成長期はこれからなんだよ? 思春期を迎えたばっかりの従姉妹のこと、ちょっと位気遣った言い方してくれてもいいじゃん!! あと朝ご飯は今から行きますごめんなさい!!」
「あんたホントナチュラルに図太い神経してるわよね? とにかく、あんたが遅れると車で一緒に登校する私まで遅れさせられるのよ。ただでさえ放課後部活が禁止されてる今に朝練の時間まで削られて堪るかってーの! だからさっさと服着て居間に来いこのちんちくりん!」
「むがーーッ」
朝から喧しく喧嘩して若干不満げに唇を尖らせながらも空は着替えを済ませて居間に向かう。昨晩の出来事が夢か否か等この時には既に頭の中から吹き飛んでいた。
そして居間に付くと既に空以外鷲尾家の面々が全員揃っていた。庭に面した畳敷の広々とした居間の中央に長テーブルが置かれ、そこで各々が好きなように座っている。
「えっと、遅くなってごめんなさい。おはよう」
「……ああ、おはよう。今日は随分と寝坊したね、さっさと座りな」
「おはよう空ちゃん。はい、これ君の分のご飯ね。お代わりあるから好きなだけ食べて」
「ふん、どうせ夜更かしでもしてたんだろ。ガキんちょは」
「早くしなさいよ、『いただきます』があんた待ちなのよ」
畳の上の長テーブルの一番奥に正座で座るのが祖母であり鷲尾家当主の鷲尾飛和。空にご飯茶碗を手渡したのが風の父親であり入婿の鷲尾竜真。胡座を掻いていらいらしているのが今は亡き空の父親の鷲尾陸の弟である鷲尾迅。そして先ほど口喧嘩したばかりの従姉妹鷲尾風の四人。これに空を加えた五人が普段鷲尾家に住んでいるメンバーであり、お手伝いの春代さんは通いだ。
因みに飛和の子供は陸を含めて男二人、女一人の三人兄弟であり長女で竜真の妻、風の母である鷲尾結という女性もいる。しかし彼女はバイオリニストで世界を飛び回っており普段は鷲尾家にいない。竜真は脚本家の仕事をしている眼鏡を掛けた穏やかな男性であり、娘の風と異なり特に空の事を嫌ったりはしていない様子だ。対照的に空の父、陸の弟で飛和の次男にあたる迅は漁師でかなり体格のいい海の漢なのだが、空の事は快く思っていないようでかなり突き放された態度を取られる。
「たはは、本当にごめんなさい。ちょっと起きてからぼーっとしてて……」
空は自分の遅刻を詫びながら用意された自分の席に付く。朝ご飯の用意は時間の関係で春代では無く竜真がしてくれるので、これで今改めて鷲尾家にいるメンバーは全員集合となった。
そして飛和は全員が揃ったのを確認してから手を合わせる。どうやら鷲尾家ではこの時に飛和から簡単な連絡をするのが習慣となっているようだ。
「私は今日ちょっと遠出する用事があるから夕飯は私無しで食べてくれ。空と風は昨日と変わらず、不審者に気をつけること。……それじゃあ、いただきます」
「「「「いただきます」」」」
五人は一斉に箸を取り、朝食に手を付け始める。すまし汁に焼き鮭、ご飯とシンプルな和食だ。空の知る限り、この家では春代を除けばどうやら竜真が最も料理上手だ。空自身母に料理を教わっておりそれなりに出来るが、手際の良さ等の総合力では竜真には敵わない。自分の分の鮭を食べきってから空は思い出したように飛和に訊ねる。
「そういえば、昨日の夜何か変なこと無かった?」
「いや、何も?」
答えは呆気ないものだったが、簡潔で明瞭だった。風達も特に何も言ってこないことを見るに本当に昨晩は飛和達にとっては何の変哲もない夜だったのだろう。
「……そっか、ならいいんだけど」
「いきなりそんなことを聞いてどうしたんだい?」
「ううん、別に。ちょっと寝苦しかったからさ、どうにも夢見が悪くって」
結局、昨晩の彷徨う道化とのやり取りは夢だったということなのだろう。空は胸に若干のもやもやを押し込めながら、一人納得した。そうだ、あんな不思議で怖いことあるはずがない。
そしてその後、家に来た春代の運転で空と風は各々中学校と高校へと送り届けられる。空にとっては転校二日目の柊坂中学校生活が始まるのだが、それは昨日とは比べ物にならない程にスムーズに進んでいく。
「えっと、それじゃあ鷲尾さん。この問題、前で解いてみてください」
「はい。……………………よし、出来ました」
「うーん、惜しいわね。最後の符号が逆になってるわ。途中式の、ここで移項する時にプラスをマイナスに変え忘れてる」
「え? ……ああ、本当だぁ」
数学の授業で恵子先生に指名されれば前に出てすらすらと問題を解くが、後一歩詰が甘かったり。
「空ちゃん、トス!」
「オーケー林檎ちゃん! せいや!!」
「わーナイスナイス!! 空ちゃん、結構動けるやん~」
「たはは、一応体動かすのは嫌いじゃないからね」
体育の授業ではバレーボールで林檎と共にそれなりに活躍してチームの勝利に貢献したり。
「あーっと、ねえ翼くん。ちょっと図書館の使い方教えて欲しいんだけど……」
「ん? おー、いいよー。何何、空はどんな本読んでるのー?」
「えっと、推理小説とか結構好きだよ。今はアガサ・クリスティーのを順番に読んでいってるんだ」
「あー推理小説なら俺も結構読んでるぜ。うちの図書館、結構品揃えいいんだ。なんならオススメも教えようか?」
昼休みには翼と共に図書館に行き、好きな本について話したり。
転校初日のど緊張が打って変わって、空は心から楽しんで学校生活を送れていた。それはやはり昨日仲良くなってくれた林檎と翼の存在がかなり大きいだろう。まだクラスメイトの名前と顔も一致しない中で、空が安心して話せる友達がいてくれるのは彼女にとって本当にありがたいことだ。二人を通して少しずつ他のクラスメイトとも交流が出来るようになり、友達も少しずつ増えていくだろう。空は確かにこの瞬間、満ち足りた幸せを感じていた。
そして放課後になると林檎が思い出したかのように空に聞いてくる。
「そういえば空ちゃん、入りたい部活動ってもう決めた?」
「えー……いや、決めてないね。前の学校では手芸部に入ってたんだけど柊坂には無いみたいだし。だから他の部活動の活動を見て決めようと思ってたんだけど……」
そういって空は言葉を詰まらせる。今天宮市内で連続発生している通り魔殺人事件、通称”切り裂き魔事件”の影響で市内の中学、高校は須らく放課後の部活動を禁止していた。そのため空が学校内の部活動の活動風景を見るのはかなり困難な状態になっている。家でグチグチ文句を言っていた風の顔が思い出される。
「あーまあ今部活動禁止されとるからねぇ……。恵子先生辺りに明日事情話せば、多分申請は落ち着いてからでええよって言ってくれると思うけど……」
林檎は納得顔で頷き、部活申請の延期を勧める。元より空もそのつもりだった。
「うん、そうさせてもらおうかなって。心機一転で運動系の部活に入るのも悪くないと思うし、だったらやっぱり練習風景とか見たいからね」
そんな事を話しながら空は校門前で林檎と別れる。林檎は既に母親が学校内の駐車場に迎えに来ていたのだ。因みに翼は今日は用事があると言って一足先に教室を出て行っていた。
「さて、と。私もぼちぼち春代さんが迎えに来てくれる頃かな……っと」
そう思いながら空は校門付近で春代の迎えを待つ。しかし10分程待ってみても春代が来る気配は無かった。もう殆どの生徒を保護者が迎えに来ており、校門付近でさえ生徒の数はまばらになっていた。
「あれ? おっかしいな……春代さん、そろそろ来てもいい時間帯なのに……」
会って数日だが家政婦の山崎春代という女性は別段時間にルーズな人では無いと空は思っている。もしかしたら家で何かトラブルでもあったのかもしれない。そうなるともしかしたら……。
そこまで思い至って、空は持たされてるスマホを制服のポケットから取り出す。柊坂中学校ではスマホの持ち込みは授業中は学校に預けるというルールさえ守ればオーケーなのだ。
「あ、やっぱりメッセージ届いてる……」
空がスマホのメッセージアプリを確認すると春代から数十分前にメッセージが届いていた。『ごめんなさい空さん、先ほど確認したら車がパンクしていて今日は迎えに行けません。出来るだけ他の子と一緒になって、帰ってきてください』……どうやら今日は迎えは無いらしい。
「あちゃー……お婆ちゃんは今日出かけてるらしいから車もう無いんだ……。うーん、ちょっとメッセージ見つけるの遅かったなぁ。さっき気づいてれば林檎ちゃんに家まで乗せていって貰える様に頼めたのに……」
これは何ともタイミングが悪い。更に他の生徒達はもう軒並み帰ってしまっており、ざっと目の届く範囲に空が一緒に帰れる様な知り合いの生徒はいなかった。
「……仕方ないか。出来るだけ早足でさっさと帰ろう」
あまり気が進まないが一人で帰るしかないらしい。柊坂中学から鷲尾家まで数キロの距離だ。距離的には大したことないのだが、山の方の坂道に近づくにつれて民家が少なくなっていき、人気の無い雑木林も近くに有る。流石に教師に付いて来てくださいとお願いするのは申し訳ない気がして、空は遠慮してしまう。
どうか不審者に会いませんように。心の中でそう祈りながら、空は通学路へ駆け出した。
そんな空を、離れた場所から見張る影が一つ。
「ああ、良かった思った通りだ。あの子に狙いを定めて正解だったな」
どこにでもいる様な目立たないカジュアル系の服を着た少年が口元を釣り上げる。放課後の時間帯で制服ではない少年は人目を引く可能性もあったが、幸い近辺には私服登校がスタンダートとなっている高校があるのはこの辺りの住民なら周知の事実だ。少年は瞳に獲物を前にした肉食獣の様な鋭い光を宿しながらも、どこか空虚に空の背を視線で追う。
ここから先は”狩り”の時間だ。切って、斬って、切って、斬って……切り裂いて殺すのだ。だが今回は今までと違う。一刀両断で即死させてはいけない。彼女には申し訳ないが、実験に付き合ってもらわなくてはいけない。少年は心の中で形式的に少女に頭を下げる。自分を客観視すれば最低だとも思うが、これは仕方のないことだ。あの少女には事故や天災の様に、自分の力ではどうにも出来ない理不尽に運悪く出くわしてしまったと思って死んでもらうしかない。
”自分がロードで勝ち残るために”。