道化師
(この人、何を言って……?)
彷徨う道化と名乗った仮面の女の言葉が、空には何一つとして理解できなかった。『ろーど』だの『こうほしゃ』だの、彼女が当たり前の様に発した単語の意味が分からない。今、現在進行形で自分を押さえ付けている不可視の力が何なのか分からない。どうやって空の部屋に忍び込んできたのか分からない。何故よりにもよって自分の元に来たのか分からない。
「だからね、貴方は必要以上に怯える必要なんかないわけなんだよ。いっそ堂々としててくれた方があたしも話し易いし、折角貴方のお婆ちゃん達に気づかれない様に色々小細工もしてるんだからさ? もうちょっとあたしとの蜜月を楽しもうって思わない? フランクに仲良くいこうぜベイベー☆」
怯える空の心情等お構いなしに 彷徨う道化は手前勝手な口上を語りつつ、ずいっと仮面を付けた顔を空に寄せてくる。飾り気の無い白黒の仮面は彼女の得体の知れなさも相まって、眼前に迫ってくるだけでこの上ない恐怖を掻き立てる。
「ひぃ……ッ!? い、嫌……こないで……ッ」
震えながら空は涙声で拒絶する。目を瞑って耳を塞いで、全てから逃げ出したい思いに駆られるが 彷徨う道化が何をするのか分からないという恐怖から下手に目を背けることすら出来ないでいる。その様子を見て 彷徨う道化は心外とばかりに大仰に肩をすくめた。
「はぁ、やれやれ。ロードの運営も、こうまで怖がられちゃあ形無しだねぇ。ま、いっか。空ちゃんはあくまでも『候補者になりうる素質のある一人』なわけだし、あたしもやることサクっとやっちゃおう」
「…………?」
彷徨う道化は懐からトランプくらいのサイズの黄緑色のカードを取り出す。中央に種の様なイラストの描かれているだけのシンプルなデザインをしたカードだ。薄暗い中でキラキラと輝き、どこか不可思議な魅力すら感じさせる。そんなカードを 彷徨う道化は前触れも、遠慮も、容赦も、気負いも感じさせない自然さで空の額に押し当てる。
「よっこいせっと」
「ッ!? な、何を……ッ」
空が悲鳴に近い戸惑いの声をあげるが、そんなものは 彷徨う道化にとってどうでもいいのだ。ぐいーっと力を込めてカードを額に押し当てると、淡い黄緑色の光と共に種のイラストが描かれたカードが空の額に吸い込まれていく。まるでファンタジーの魔法の様な事が起きたのだ。
「ぇ、うあ……私の、中に……ッ。あ、ああ……ッ!!」
痛みはない、だが強烈な異物感が空を襲い苦悶の声をあげる。それはまさに未知の何かが自分の中に浸入してくる様で、例えるなら人体というハードに謎のカードというオプションを介してアプリが強制インストールされる様な感覚だ。今まで生きていて感じたことの無い嫌悪感に、空は思わず吐きそうになって必死に抑え込もうとする。
「あはは、必死だねぇ空ちゃん。大丈夫だよ、別に死にはしないからさ」
そしてそんな空の様子を見て 彷徨う道化は愉快そうに笑う。軽薄で得体の知れない彼女の言葉等信じられる筈もない。空は恐怖を押し殺しながら、涙目で精一杯目の前の仮面女を睨みつける。自分を押さえ付ける謎の力とか、今の変なカードとか説明出来ない事が多すぎて思考などとうに停止してしまった。その分幾らか自棄になった空は塵の様な勇気をかき集めて、せめてもの抵抗と 彷徨う道化を睨みつけた。
「ぐ……ッ。早く、出て行け……ッ」
「ひゅー怖い怖い。そんな必死で睨みつけなくても、用事が済んだんだから出て行くって。ロードの候補者になれるかもしれない貴方に、今のカード……『シード』を移植した段階でもう今出来ることはおしまーいだからね☆ あたしもこれで中々に多忙な身なんだよ? だから今日は年頃のきゃわゆーい黒髪少女との逢引を癒しにしようとしてきたわけだし」
そんな適当なことを言いながら、 彷徨う道化は本当に用事は済んだようで空から離れる。
「……………ッ。私に、何をしたの……?」
「そんなに睨まないでってー。その年で眉間に皺残ったら大変だよ? 貴方に与えたシードの力はすぐに目覚めるかもだし、永遠に目覚めないかもしれない。まあその辺は空ちゃん次第なんだよね。あたしが貴方の前に姿を見せるのも、これが最初で最後かもしれない」
まるで詠う様に 彷徨う道化は空には理解出来ない話を手前勝手に続ける。
「まあ結局のところ、運命ってやつを掴み取るのはいつだって自分自身の努力と根性ってやつなのさ。そしてそれに加えて強烈な自我だね。何かを成し遂げ、掴み取るやつってのは総じて特大のわがままなんだ。こうしてあたしがペラペラ喋ってることも、空ちゃんにとって意味あるものになるか、無意味なものになるかは貴方次第ってこと」
「自我……? 私次第……? 貴方の言っていること、何一つとして分からない。私に説明しているようで、ただ自分だけが知っている言葉を使って好きな様に喋ってるだけ……。なんなの、貴方……?」
彷徨う道化が話を終わらせて撤退しようとしているのを悟ってか、空は少しだけ恐怖が薄まりまともな思考が戻ってきた。今までの 彷徨う道化の言動を省みて、慎重に言葉を選びながら疑問をぶつける。『そもそも、お前は何なんだ?』と。
その質問に、仮面で表情が見えないはずの 彷徨う道化が一瞬だけ呆けた顔をした気がした。しかし、すぐにその表情を不敵な笑みに変えてこう答える。
「名乗ったでしょ? あたしは 彷徨う道化。ロードの運営を取り仕切る、運命の中で踊る道化師だよ。それじゃあ、縁があったらまた会おうね鷲尾空ちゃん☆ 世界を手にする資質を持った”エゴイスト”!!」
パチン、と 彷徨う道化が指を鳴らすとまるでそんな暗示を掛けられていたかの様に空の意識が遠のいていく。
(…………”エゴイスト”……私、が……?)
瞼が重くなり、思考が鈍化し、もう目を開けていられなくなる。
(なんなのさ、一体……これって、夢……なのかなぁ……?)
うつぶせの状態から、布団に崩れ落ちる様に空の意識は断絶し暗闇の中へと引きずり込まれていった。
さあ、ここで普通の女の子である鷲尾空の物語は終わりを告げる。両親を火災で亡くし、今まで一度も会ったことの無かった祖母に引き取られ新しい街へとやってきた。そこで新しいクラスメイトとも仲良くなり、新しい家族には嫌われながらも前を向いて生きていくと心に決める。そんな少しだけ心が温まる一人の女の子の話で終わるはずだった物語は、道化師の介入によって全く別物へと変貌することになる。
歯を食いしばれ、拳を握れ。嫌悪すべき未来達との決別のために。
ここからが物語のリスタート。薄氷の上で成り立っていた鷲尾空の日常は終わりを告げました。
さあ、拳を握りしめる系ヒロインのスタートです!
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