第一歩
夕飯を食べ終え、自分の部屋の戻ると空は真っ先に部屋の真ん中に引かれた布団に身を投げた。この数日で嗅ぎ慣れた畳の匂いが鼻孔を刺激する。
「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
誰もいない自分の部屋、そこで空はようやく今日一日を振り返る余裕が出来る。
『ずっと固まっちゃってごめんなさい。転校って初めてで緊張しちゃいました。私の名前は鷲尾空と言います。同じ県内だけど天宮市よりもずっと南にある与花市という所から転校してきました。ご覧のとおり、人と話すのは少し苦手ですが……仲良くしてくれると嬉しいです。これから、よろしくお願いします』
『赤染さん、か。うん、正直分かんないことだらけでどうしようかと思ってたんだよね……。だから色々と教えてもらえてらものすっごーく助かる……』
『へぇー東雲君って情報集めとか得意なんだー』
『そ、そりゃ確かに赤染さんは初対面の私に親切にしてくれて、それでいて話しやすいいい子だなぁとは思うけどさ!』
『……その、人前で話すのが苦手でどんくさい私でよければ。よろしく…………林檎ちゃん』
『君は君で軽いーーー!?』
『…………あの、風姉さん。流石に人の顔見て『うげ』って酷くない?』
『えっと、取りあえずお祖母ちゃんに今の話全部教えてあげればいいんだね?』
『ほらほら、風姉さん。今なら私もお祖母ちゃんに黙っててあげるからさ、部活の皆さんに『練習中止します』って連絡して、部屋に戻った方がいいんじゃない?』
大丈夫だ。転校初日、自分は精一杯前を向いて頑張った。暗い側面はクラスメイトに見せなかったし悟らせなかった。仲良くなれた子達だっている。風ともようやくまともな会話を成立させることが出来た。お互いの触れられたくないことに触れずに、軽口混じりに彼女を諌めることが出来た。
「大丈夫、私は上手くやっていける。大丈夫、私は上手くやっていける……」
枕に顔をうずめ、震えながら空は呪文の様に同じことを繰り返す。『大丈夫だ』と。一度全てを失ってしまった自分でも、何も守れなかった自分でもやり直せると声に出さずに己を鼓舞する。ひと月前、両親を奪った火災で呆然と立ち尽くすことしかできなかった自分から新しい自分に一歩踏み出すために。施設に来た飛和の背中を追いかけた時、空は決めたのだ。このままでいいはずがない、自分で一歩踏み出さなければずっとこのままだ、そんなのは嫌だと。
今日一日の空は強がりの見栄っ張りで空元気だ。大切なものを無くした傷は全く癒えておらず、新しい土地への不安に雁字搦めになり、それでも歯を食いしばって虚勢を張り通した。怖くて怖くて仕方なかった第一歩を心をボロボロにしながらも踏み出したのだ。
そこでようやく空はごろんと体を転がし、天井を仰ぎ見る。気づけばびっしょりの汗で濡れていた。
「…………良かった、私頑張れた」
その一言を絞り出して、空の心に安堵感が満ちていく。右も左もわからず、怖くて不安で仕方のなかった転校初日が終わった。この一日は空にとって大きな意味を成すものであり、明日からの自信にすることが出来る。それだけじゃない、空はもう一人ぼっちではないのだ。学校には林檎や翼といった新しい友達もいる。きっとこれからも友達を増やしていって、学校を楽しい場所にしていけるはずだ。
「ふふ、ふふふ。あははははッ」
先ほどまでの震えていた鷲尾空はどこへやら、今はもう窓を開けて歌いだすのではという程に上機嫌になって笑い始めた。大切な人を亡くしたトラウマは消えていないし、心の傷は残ったままだ。それでも、その痛みを抱えたままで歩いていける自信が今の空にはあった。空はふと、視線を窓の向こうの夜空に移す。昨日までの長雨の気配はまるで無く、瞬く星の光を遮るものが何も無い澄み渡った夜空が見えた。
「…………パパ、ママ。私、頑張って生きていくからね。だから、どうか見守っててね」
そのまま空は今日一日の疲れが出たのか眠りに落ちていく。目覚ましはかけてあるし、宿題も夕飯前にちゃんと済ませている。寝る時間としては大分早いが、今日は流石に疲れてしまった。空はそんなことをぼんやりと考えながら意識を手放した。
「…………と、ここまでがごく普通の女の子で終わるはずだった鷲尾空ちゃんのお話。ここからが新しく始まる貴方のお話。奇々怪々の波乱万丈当たり前、”日常”なんて言葉が薄氷の上に成り立っていることを知る戦い……『ロード』の始まりなのでした」
「ッ!!?」
その女は気が付けば枕元に立っていた。電気を消した部屋、窓からの月明かりに照らされて奇妙な黒髪の女が空の枕元に立っていたのだ。その女が誰なのか、確かめるよりも先に空は布団から跳ね起きて廊下へ出る襖に駆け出そうとする。しかし、それは叶わなかった。
「きゃ……ッ!?」
何か見えない力が空の体を布団に押さえつけ、起き上がることすら出来なくなる。目の前の謎の女が何かをしているのは間違いないというのに、何をされているのかまるで見当もつかない。
「やめ、て……ッ!」
絞り出す様なうめき声に近い声で、空は懇願する。下手に逆らったり、これ以上逃げようとすると自分の命が危ない……そう本能的に感じたのだ。
「あはは、結構反応いいねぇ空ちゃん。真っ先に距離を取って逃げようとしたり、相手が得体の知れない力を使ってるのに気づくや下手な刺激をしないようにしたり……。一応悲鳴とか上げられても大丈夫なように対策はしてたんだけど無用の長物になったかな?」
そう言いながら謎の女は虚空で手をまるで指揮を執るように動かす。それに釣られるように不可視の何かが空の部屋を満たし、空と謎の女を囲うのが分かった。そしてそこで初めて空は謎の女の顔を見ることが出来た。
(なに、あれ……仮面……?)
彼女は顔の上半分を覆うような白と黒の仮面を付けていた。それによって顔は全く判別出来ない。だが腰まで届くような長い黒髪とモデルの様な長身は同性として平時なら羨ましさすら覚えるかもしれないが、この状況ではひたすらに全てが怖い。
正体不明の侵入者、目的もまるで分からず更に理解出来ない力で空の体を押さえつけている。同じ家にいるはずの飛和達に助けを求めることも出来ない。空は恐怖に震えながら、固唾を飲んで謎の仮面の女の出方を伺うしかなかった。
「あたしは彷徨う道化、貴方は『ロード』の『候補者』になりうる可能性を持ってるの。その可能性の鍵を否……可能性の種を、貴方にプレゼントしにきただけだからさ。そんなに怖がらなくっていいよ?」
彷徨う道化、そう名乗った謎の仮面女は心の底から楽しそうに笑うのだった。