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鷲尾空

思えば完全な一次小説の連載は初めてになります。月・金の18時更新でやっていきますので、どうかよろしくお願いします。


『さみだれ空晴れて月あかく侍りけるに


五月雨の空だにすめる月影に涙の雨ははるるまもなし』


 新古今和歌集でとある女性歌人が詠んだ和歌だ。大切な人を亡くした悲しみによる心の雨を詠んだ歌、と古典の授業で紹介されていた。授業で聞いたときはいまいち意味が掴めなかったが、今ならすとんと胸の中で入ってくる。この歌を詠んだ歌人は、きっと自分と同じような気持ちだったんだろう……と。



 新しい部屋の窓からの景色はここ数日ずっと変わらず雨だった。金曜日の夕方に引っ越してきて、土曜日、日曜日と梅雨の大雨は止むことなく振り続ける。時折遠方の雲の切れ間から月が覗いても、結局家の周りは止むことのない雨の音で満ちている。自室の床は畳でその中央に敷き布団が置かれている。勉強机とクローゼット以外目ぼしい家具は置かれていない殺風景な部屋は窓の外の雨をバックとしてより一層のもの寂しさを感じさせる。そんな部屋にいて新しい街、新しい部屋に心が弾むことも無くその少女、鷲尾空は今日もため息を吐いた。

「…………はぁ、やだな。雨……」

 空は湿気でくたっとしたショートヘアの黒髪を煩わしげに弄りながら呟く。自身の心の暗雲はいつまで経っても晴れる気配は無く、心を切り替えるチャンスである引越しも酷い土砂降り続きではダメだ。明日はいよいよ転校初日だと言うのに、空は床に敷いた布団から体を起こす気力がまるで沸かなかった。




 鷲尾空は先月、両親を自宅の火事で亡くした。空が丁度近所のホームセンターに中学校の授業で必要な小道具を買いに出ている間に、自宅で待っているはずの父と母は轟々と燃え盛る炎の中へと消えてしまった。警察の調べによると近頃市内を騒がせる連続放火魔の犯行である可能性が高いとのことだが、どうでもよかった。犯人が捕まって、裁判で死刑判決が出て、刑が執行されて犯人が地獄に落ちて……それでどうなる? 優しく穏やかな父が、自分を抱きしめてくれた母が帰ってくるのか? 答えは否だ。市に保護された空はそんなことを延々と考えながら止めど無く流れる涙を拭おうともせず、一人で部屋の隅で膝を抱えていた。まるで糸の切れた人形の様にその場から何時間も動かない。施設の職員達の心配は膨らみ続けていた。

 そんな時だ。空を保護した施設に、背筋がピシッと伸び黒いと藍色の混じった着物を着た厳格な雰囲気を纏った老婆が訪ねてきたのは。自分は空の祖母だと職員に名乗ったその老婆は、録に目を合わせようとしない空を見てこう言ったのだ。

「……あんたが空、私の孫かね。私は鷲尾飛和わしお とわだ。……立ちな、駆け落ち同然に家を出た馬鹿息子の子供とは言えあんたは鷲尾家の人間だ。身元は私が引き受ける、わかったらさっさと支度しなさい」

「ぇ……?」

 飛和は一方的に告げると空の反応すら待たずに背を向ける。周りにいた施設の職員達がおどおどとする中、飛和は堂々と玄関口に向けて歩いていく。突然現れた祖母を名乗る老婆の余りにも一方的な物言いに空は困惑しながらも、その余りにも潔く堂々とした背中を見て感じたのは焦りだった。

(置いて……いかれる……)

 そう思った瞬間、空は立ち上がりよたよたとした足取りで飛和の後ろ姿を追いかけていた。

「待……って、くださ……い……!」

 火災のあと、空の周りには警察や病院、ご近所さん施設の職員と多くの大人がいて自分に慰みの言葉を掛けてくれた。そのどれもが空のことを思いやっての言葉だと分かっていても、自分は全てを拒絶して泣いていた。顔は一度も挙げられなかったし、言葉だって殆ど発せられなかった。だが……。

「あの、待ってください……!」

 空は立ち上がって飛和に声を掛けた。『誰かに声を掛ける』、それは空がこの施設に来てから初めてしたことで周りの職員達にどよめきが広がる。

 そして空の呼びかけに飛和は振り返る。その顔に表情と思えるものは無く、無機質な冷たさを感じる眼光だけが空を射抜く。思わず竦み上がりそうになるが、何故か空は自分が思っている以上にすらすらと言葉を紡ぐことが出来た。

「私の、お婆ちゃん……なんですよね? それも、パ……お父さんの実家の……。私、生まれてからずっと両親の実家からは遠ざけられていました。私、それがどうしてか分からなくて……もしかしたらお婆ちゃん達に好かれてないのかなって……」

「ああ、そうだね。私はあんたに好意なんざこれっぽっちも抱いちゃいないよ。寧ろ憎らしいくらいさ」

 なんてことの無いように、飛和は言った。嫌味でなく、ただありのままの心境を語るように。

「ぅ……」

 何となく予想していた答えよりも、より悪いものが返ってきて空は思わず怯んでしまう。自分は飛和とは間違いなくここで初対面のはずだ。なのになぜここまでバッサリと斬られる程に嫌われているのか。

「別にあんたが何をしたってわけじゃない。ただ、あんたは鷲尾家の娘、私の息子の娘であると同時に『あの家』の娘でもあるんだ。全く、駆け落ちなんて我が息子ながら馬鹿な真似したもんだよ。それについて行ったあんたの母親もね。それでいて火災で死ぬまで、二人とも一切実家を頼らずに独力であんたを育て上げたときた。気に食わないよ、当然さ。だから我が家に住むことは許しても、うちの人間に歓迎されるかは期待するんじゃないよ」

 淡々と語る飛和はどこまでも冷徹だった。まるで第三者に自分の内心を読ませて代読してもらっているような、飛和自身の感情の話をしている筈なのに正確無比な客観性を感じる語り口だった。何一つとして隠さず、空を子供と見下さず、親を喪ったばかりの可哀想な子と慰めず、対等に立って語る。

「……………………ッ」

 そして飛和の言葉に空は初めてその表情に怒りを滲ませる。目尻を釣り上げ、全身に血が通って体が熱くなる感覚があった。相手は初対面だが自分の身元引受人であり、祖母であり、恐らくは空も知らなかった父と母の駆け落ち云々に関して熟知しているのだろう。だがそれでも、空は口を閉ざしたままでいることは出来なかった。

「私の、お父さんとお母さんは……私のパパとママは、馬鹿じゃありません……ッ!」

「ほう……?」

 明確な反抗と抗議、つい先ほどまで部屋の隅で泣き続けるだけだった小娘が初めて会った祖母に楯突いた。そこで初めて、飛和は感情の篭もった眼で空を見る。端的に言えば、初めて関心を持たれたと言えるだろう。

「私のパパとママは……今まで私を育ててくれた。愛してくれた……私は、そのことに何の不満も不足も感じていませんでした……! だから、私のパパとママは馬鹿じゃありません……!」

 この僅かな時間で、糸の切れた人形のようだった少女に人間らしい熱が戻った。どうやら鷲尾空という自分の孫娘は思っていたよりも遥かに強い芯を持っていたらしい。飛和は自分の中での空への評価を少し上方修正する。だがそれは表情には出さず、空に背中を向ける。

「それだけ言い返せる気力があれば、うちで潰れることも無さそうだ。私はあんたの事が気に食わないし、多分他の家族達も似たようなもんだろう。だが、それとお前を引き取ることは全くの別問題だ。安心するといい、衣食住と学費その他雑費……鷲尾家の名に懸けて面倒は見てやる」

「え……?」

 自分の怒りをどこ吹く風と流され、更に飛和の空への最悪の印象とは裏腹の高待遇の約束。空は何が何だか分からないままだ。だが飛和は「話は済んだ」とばかりにすたすたと施設の玄関から出て行ってしまうものだから、空はそれを慌てて追いかけるしかなかった。去り際に空は施設に来てからずっと自分を心配して声を掛け続けてくれた職員達に一礼し、飛和がエンジンを掛けている黒いセダンに乗り込んだ。




 そして鷲尾空という少女は中部地方にある地方都市、『天宮市てんぐうし』へとやってきた。動いていく状況に振り回され、両親を喪った悲しみに打ちひしがれ、それでも何とか彼女は新しい生活を始める街へとやってきたのだ。梅雨の時期の長雨は止むことなく降り続け、空の新しい自室の窓を叩き続ける。飛和と出会った時の体の熱はすっかりと冷め、空は泣き続けることこそ無くなったが何とも言えぬ虚無感を抱え続けることになる。そしてこれは、どこにでもいる普通の女の子の物語である。

 

主人公


鷲尾空。4月1日生まれの中学二年生。火災で両親を亡くした後、今まで面識の無かった祖母である鷲尾飛和に引き取られた。幾らかの心の傷を持っており、そのため人付き合いで最初の一歩を踏み出すのを怖がる節がある。

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