第六十七走 ガバ勢と少女の悲鳴
パニックに陥った人間の足の速さは尋常ではない。
頭はあらゆる肉体的セーフティを解除して、その場から逃げ去ること一点を優先する。
しかし、だからといって、背中に羽が生えたり、暗闇が見通せるようになったりはしない。
「あっ……!」
床に置かれていた何かに足をぶつけたエルカは、バランスを崩して床に転倒しそうになった。
「おっとお!」
ルーキは、それをぎりぎりのところで拾い上げた。
「ル、ルーキ!」
「足を止めるな! ジェニルファーは!?」
「さ、先に行ってしまったみたいですわ」
落ち着きを取り戻したエルカの手を引きつつ、扉を抜けてエントランスに出る。
すると、奥から再び絹を裂くような悲鳴が聞こえた。
「ジェニルファー!?」
薄闇の奥から、ブラウスの白さが滲み出てくる。
ジェニルファーだ。こちらに戻ってきている。
「どうした!?」
「こ、こっちにも、あいつが、あいつがっ……!」
ジェニルファーの背後の闇に蠢く影があった。
さっき風呂から出てきた小柄な何かだ。
いつの間に回り込まれた?
「上、上に逃げましょう!」
彼女は叫び、一足先に、二階へと通じるゆるやかな螺旋状の階段を駆け上がる。
少し遅れてルーキとエルカが階段のすぐ下に着いた時だった。
「きゃあああっ!」
ルーキが咄嗟に見上げた先。階段の踊り場にいるジェニルファーの前に、さっきの影が飛び降りてくるのが見えた。
「また先回りだと!? どうなってるんだ!?」
今度は相手の姿がはっきりと見えた。
やはり小柄。よもや子供ということはないだろうが、仮面をつけていることから顔かたちはわからない。背丈より長さのある雨合羽のようなコート。そして、手にした異様な物体。
――庭師が使うような、枝切りばさみだ。
刃の部分は錆びなのかあるいは別の何かがこびりついているのか赤黒く変色し、噛み合わせも悪いらしく開閉させるたびに耳障りな金属音を響かせている。
乱雑に切り刻まれた制服のジャケットが自然と思い起こされた。あれにやられたに違いない。
じゃぎん、と追跡者のすぐ脇にあった金属製の燭台が捻じ曲がるように断ち切られる。
刃物というより、潰し切る工具だった。
「いやあーっ!」
ジェニルファーが頬を両手で覆って恐怖の叫びを上げる。足がすくんでしまったのか、その場から動けない。
「ダメだ、逃げろジェニルファー!」
ルーキの叫びも空しく、少女の胴体に、刃を開いたはさみが伸びる――。
瞬間、彼女の下半身がすっと前に出た。
上半身をのけぞらせるようにしながら下半身を押し出し、足の裏で強烈に相手を突き飛ばす。
「!!!!」
彼女の足の長さが幸いした。枝切りばさみの下をくぐる思わぬ反撃に、小柄な怪人は簡単に蹴り飛ばされた。
恐らく体重もさほどなかったのだろう、蹴り出された勢いで階段を転げ落ちていく。
さらに階段のカーブで手すりを突き破り、一階の床へと叩きつけられた。
「よくやった、ジェニルファー!」
「ナイスですわ!」
ルーキとエルカが揃って歓声を上げると、ジェニルファーは何が起こったのかと目をぱちくりさせ、恐る恐る階下をのぞき込んだ。
「きゃあああ!」
エントランスの絨毯の上でもがく怪人を見たジェニルファーは、パニックが再発したのか驚いて悲鳴を上げ、残りの階段を駆け上がった。
そして、制服のポケットから何かを取り出し、シュッと投擲する。
エントランスにあるシャンデリアを吊っている支柱目がけて。
「えっ」
ルーキは目を疑った。
支柱が腐食していたのか、シャンデリアはただその一撃で落下し、轟音を立てて怪人を叩き潰した。破片の一つ一つが楽器のように打ち鳴らされ、異形の音楽を奏でる。
それを上から見ていたジェニルファーが叫んだ。
「や、やったわ! 二人とも、今のうちに早く上へ!」
「う、うん……」
「な、何か今、ものすごいことをなさったような……」
ジェニルファーに導かれ、ルーキたちは一つの部屋に逃げ込んだ。
衣裳部屋のようだ。設置式のクローゼットがいくつも並んでいる。
「この中に隠れられないかしら……」
さっきの小男は神出鬼没だ。秘密の通路でもあるのかもしれない。
どこへ逃げても回り込まれるのなら、闇雲に動き回るより一か所でじっとしている方がいいように思えた。
そうして時間を稼ぎ、反撃への策を練るのだ。
中の様子を確かめるため、ジェニルファーが両開きの扉を開いた時――。
「きゃあああっ!」
クローゼットの闇の中から、ぬう、と枝切りばさみがせり出てきた。続いて、あの仮面も。
「こんなところにも!?」
ルーキが咄嗟に前に出ようとするよりも早く、
「いやあ!」
ジェニルファーは悲鳴を上げながらクローゼットの扉を閉め、相手を押し戻した。
さらに取っ手の部分に金属の棒を差し込んで開かないように固定。クローゼットそのものを前へと引き倒し、その上に別の引き出しやテーブルなどを重ねて完全に閉じ込める。威嚇するように蹴りも一発入れていた。
「鮮やかですわね……」
「動きに一切迷いがなかったゾ……」
「ここも危険よ、逃げましょう!」
呆然と見つめるルーキとエルカをよそに、ジェニルファーは慌てて部屋を飛び出す。
しかし。
「きゃああああ!?」
「ジェニルファー!?」
廊下に出た彼女がまたまたまた悲鳴を上げる。
ルーキが扉から顔を出すと、ジェニルファーは枝切りばさみの持ち手の部分を掴み、小男と押し合いになっていた。
まずい。あんなハサミで金属すら断ち切る小男の力は相当なものだ。純粋な力比べで彼女に勝ち目はない!
「きゃあああ!」
しかしジェニルファーはハサミを横に振り払うと、低く腰を落とした体勢からドンと足を踏み鳴らし、両掌を前に突き出した(↓←→P)。
「!!!!」
突き飛ばされ、仮面男が仰向けに倒れる。
「きゃっ!」
ジェニルファーは迷わず男に飛びかかり、腹部に追撃の拳を叩き込んだ(↑P)。
「綺麗なコンボですわゾ……」
「相手がピクリとも動かなくなったんですがそれは……」
ルーキは、彼女の悲鳴が実は「猿叫」(東方に伝わる剣術サツマ・ジゲンスタイル特有の獣じみた掛け声)なのではないかと疑った。
三人でその場から逃げながら、ルーキは聞く。
「な、なあ、ジェニルファー。クラブで護身術習ってるとか言ってたけど、それ本当に護身術か?」
「えっ? こんな時に何? でも、そうよ。さっきのもそこで教わったの。本当は“淑女の嗜みクラブ”というところなの。顧問はローズ・ティーゲルセイバー先生というのよ」
「あっ……」
察した。
※
続いて逃げ込んだのは、真っ暗な部屋だった。
「あ、明かりを探さないと……」
エルカがルーキと手をつないだまま言う。
ジェニルファーのカンテラは、逃げている最中にどこかに落としてしまっていた。この暗闇で襲われれば、今度こそ対応は不可能だろう。
ルーキも明かりを探そうとした、が。
「待って。明かりをつけるとあいつに気づかれるかもしれないわ……」
そう言ったジェニルファーの声はどこか確信に満ちていた。すでに扉のそばから部屋の奥に移動している様子だ。
「ジェニルファー、迂闊に動くと危ないぞ」
「大丈夫よ。よいしょ……このへんに何か……」
ごそごそと彼女の気配が動いている。
「? ジェニルファー? 何してるんだ?」
「このへんに重要な何かが隠されている気がするの。外に出るための何かか、それとももっと別の何か……」
「いやいやいや。そんなの何でわかる?」
「だって、この部屋は他に比べて暗すぎるの。窓もないなんて変よ。大切なものを隠すなら闇の中って、ローズ先生もおっしゃってた」
「いくらあの人でもそれは……」
「あ、あったわ! 形からして鍵みたい!」
「えぇ……」
隠す方も隠す方だが、見つける方も見つける方だ。何だこれは。彼女は一体何者なんだ。委員長のカッチャマは、あの学校で一体何を育ててしまったのか。
「きっと重要なところを開ける鍵よ。あのハサミ男がいなくなったら、部屋を探しましょう」
エルカの気配がうなずき、その後で思い出したように言う。
「そういえば、鍵が二つになってしまいましたわね」
「まあ、単純に考えて、鍵のかかった扉を開けられる確率は二倍に上がったわけだし、悪いことじゃないだろ」
とルーキは素直に受け取ったのだが、
「……いえ、さっきの猫ちゃんが運んできた鍵は怪しいわ」
「ジェニルファー?」
「勝手に運ばれてきた鍵と、隠してあった鍵。この館の主にとって、使われたくないのはどっち? きっと最初の鍵は罠なんだわ。使ったら最後、何かとてつもなく危険な仕掛けが作動して、チェスでいうところの“チェック”にされるような気がする。ローズ先生なら、きっとそうおっしゃるわ……」
そう言い切ったジェニルファーは、ようやく“敵”に対して少し優位に立てたと思ったのか、強気に続けた。
「ふっ、残念だったわね、館の主。こっちを素人だと思ってこんな見え見えの手を使うなんて。わたしは先生からRTAを少しだけ教わったことがあるし、何よりこっちには本業の人だっているんだから。ねっ、ルーキさん」
「……あっ、はい。ソノ鍵ハアヤシイデスネ……」
「やっぱり!」
「…………」
それまですがるように強く握ってきていたエルカの手が、まるで慰めるような優しい力加減になったのは、この時からだ。
出演
ジェニルファー:主人公
エルカ :ヒロイン
友人たち :ヒロインその2
男性(16) :エキストラ




