第六十六走 ガバ勢と館の影
「ロレッタ! ロレッタ!」
「ジェニルファー、待て!」
ここから俺がグラップルクローで降りた方が早い――という言葉を飛ばす前に、ジェニルファーは元来た道を駆けだしていた。
別々に行動しない方がいいと直感したルーキは、青ざめて固まっているエルカの手を掴むと、ジェニルファーを追いかける。
彼女は裏庭に通じる扉をすぐに見つけ、外に飛び出した。ルーキもそれに続く。
激しい雨が、すぐに全身をずぶ濡れにした。
薄暗い裏庭は池や花壇があったが、ジェニルファーは何も目に入らない様子で駆けていく。当初は引きずられるようだったエルカも、いつの間にかしっかりと自分の足で走っていた。
ただ手は冷たく、指はすがるようにルーキの手をきつく握りしめていた。
問題の場所に到着する。
生い茂る草の中から、血を連想させる色が見えていた。
エルカやジェニルファーが着ているのと同じジャケットだ。
「どういうこと……?」
先にたどり着いたジェニルファーの背中が、ぽつりと言った。ルーキとエルカは急いで隣に並ぶ。
そこにいたのは――。
「……上着だけ……?」
ルーキがつぶやくと、ジェニルファーは首を横に振った。
「そんなはずないわ。確かに、ロレッタ……いえ、誰かが落ちたのを見たもの……」
彼女の言う通りだ。ルーキも人らしきものを見た。
そもそも、ジャケットのような軽いものが窓を突き破るとは考えられない。
ルーキは周囲のガラス片で手を切らないよう、そっとジャケットを拾い上げた。
「ひっ」
エルカが口元を押さえ、顔を青ざめさせた。
ジャケットは、ズタズタに切り裂かれていた。
窓を割った際にできた傷ではないだろう。切断面は荒く、切れ味の悪い刃物で力任せに切り刻んだみたいだった。
「何なんだ、これは……?」
ルーキは思わず、尖塔の割れた窓を見上げた。
エルカとジェニルファーも、同じく空を仰いだ。
そこに。
何かが、いた。
尖った何かを持った、何かが、割れた窓から、身を乗り出すようにしてこちらを見降ろしていた。
『…………!!』
ルーキは身震いした。直感があった。
こいつ、今。
笑った。
雨粒が目に入り、ルーキは咄嗟に目を閉じた。
再びまぶたを開けた時、割れた窓には誰もいなくなっていた。
「……一旦、中に戻ろう。これ以上濡れるのはまずい」
ルーキが言うと、少女二人はうなずいてそれに従った。
※
広々としたエントランスにカンテラの小さな光が揺れている。
それを取り囲むようにして、ルーキたちは座っていた。
雨の被害はそれほど深刻ではなかった。ユリノワール女学院の制服は防水性にも優れるらしく、下のブラウスは少し湿った程度だった。
反対に、完全に濡れ鼠になったのは、安物で固めているルーキだ。
ジャケットを脱いで一時干すだけでよかった彼女たちと違い、今すぐパンツ一丁になって服をしぼりたかったが、エルカに何を言われるかわからないのでやめた。
幸い、寒い季節ではない。
「……ダメ。手がかりになるようなものはないわ……」
調べ終えたジャケットを丁寧に折りたたみ、ジェニルファーは首を横に振った。
ポケットに遺留品はなく、誰のものかも不明。一応、二年生の学年章がつけられていたが、オカ研全員が同学年なので意味はない。
ただ、彼女たちのうち、誰かが何者かに襲われたという可能性だけはどうしようもなく高まった。
つまりこれは、ただの迷子では、ない。
「とにかく、この屋敷に何らかの異常があることだけは確かみたいだな。もう二人は帰った方がいい。後は俺がやるよ」
ルーキの提案を即座に突っぱねたのはジェニルファーだ。
「いやよ。こんなもの見せられたら、なおさらじっとしてられない。今帰らされたら、わたし、後で絶対にここに戻ってくるわ」
おしとやかそうだが、芯の強い声だった。どこか緑髪の委員長を思わせ、ルーキに反論を躊躇わせる。きっと追い返しても、本当に戻って来てしまうだろう。それがわかった。
「大丈夫。学院のクラブで護身術を習ってるから。自分の身は自分で守れるわ」
「わかった。でも、荒事は俺が引き受けるから、無茶はしないでくれよ」
「……ありがとう。ルーキさん」
ジェニルファーは少しほっとしたように微笑んだ。
「ねっ、ねえ、ルーキ……」
横からひどく情けない声がした。
いつの間にか窓際に移動していたエルカからだった。彼女は青い顔のまま、カーテンを開ける。
「何だ?」
ルーキは目を見張った。ジェニルファーからも息をのむ気配が伝わる。
窓に鉄の鎧戸が降りていた。
持ち上げようとしても、まるで最初からはめ殺しのようにびくともしない。
玄関扉も調べてみるが、外で何かが引っかかって開かなくなっていた。
「こ、これって、わたくしたち、閉じ込められたんじゃ……」
エルカが泣きそうな顔で聞いてくる。
しかし、そんな彼女にルーキはグラップルクローを見せ、
「問題ない。さっきの裏庭に出れば、塀くらいこいつで飛び越えられる」
「さ、さすがルーキですわ!」
エルカが歓声を上げると、離れた場所からジェニルファーの声がした。
「ダメ。裏庭への扉も開かないわ!」
「やっぱりルーキですわ!」
どうやら館は、意地でもこちらを逃がさないつもりらしい。
しかしジェニルファーは拳を握り、
「いいわ。こっちだって逃げる気なんてないんだから。こんなことする人になんて、わたし絶対負けない!」
「そ、そうですわ! わたくしも負けにゃい!」
ニャーン。
『キャーッ!』
宣言から二秒で敗北したジェニルファーとエルカがルーキに飛びつく。
少し湿ったブラウス越しに、少女たちの柔らかな肌がぴったりと吸いつく。ルーキの心拍数は一気に上昇し、ガバセンサーがあったら大反応を起こしていただろう。
「お、落ち着け二人とも。猫だ。どこから来た?」
女子二人の匂いに挟まれながらも、何とか平静を保ったルーキは、膝をついて現れた黒猫を迎えた。
ただの猫と気づいて、少女二人も興味深そうに彼を見る。
毛並みのよい、品のある猫だった。首輪もしているから野良ではない。
「あらっ、この子、鍵を持ってますわ」
エルカが気づいた。首輪からどこかの鍵が垂れている。
彼女がそれを取ろうとすると猫はギャーと声を荒げて威嚇したが、ルーキが手を伸ばすと「しょうがにゃいにゃあ」という顔で、鍵を取り外させた。
エルカはニヒッと笑い、
「まあルーキ。猫にまでしょうがない人扱いされているみたいですの」
「そんなわけないだろ……」
恨みがましくぼやく。
だいたい、何で自分がそういう扱いになっているのかいまだにわからない。
未熟ではあるが走者として努力はしているし、掃除洗濯も一応自分でできている。人間関係だって清廉とまでは言えないが、潔白だ。
まあ、ちょっとばかり、昔よりは女子といる時間が増えたかもしれないが、それはたまたま、単に走者仲間として巡り合ったからにすぎない。妙な火種もない健全な間柄だ。
ルーキがそんなことを考えていると、黒猫がとことこ歩き出した。
見れば、わずかに開いた扉がある。そこから入ってきたようだ。
「行ってみるか?」
ルーキが問いかけるとジェニルファーはうなずき、階段手すりに引っ掛けていたジャケットを羽織った。
「行きましょう。これがどこの鍵かも調べたいし」
エルカも慌てて、
「ま、待ってくださいましルーキ。ほらっ、手を繋いで差し上げますわ。か、勘違いしないでください。これは単に、はぐれると探す手間が増えて再走案件になるからですのよっ」
「そう……」
ごちゃごちゃうるさいエルカと手をつなぎ、猫の通り抜けた扉を開く。
「通路か……」
廊下が続いていた。
「多分こっちは水回りね。台所とかお風呂場とか……」
ジェニルファーがつぶやく。
「個々の家庭に風呂があるのか。俺は公衆浴場しか知らないぞ」
「このあたりの家はみんなそうよ。上下水道がしっかりしているから」
黒猫の姿はもう見当たらなかった。もっとも、猫というのは角一つ曲がった先で簡単に姿を消してしまう生き物だから、不思議でも何でもないが。
「ん……。待てジェニルファー」
「なに? ルーキさん」
「音を。何か聞こえる」
ジェニルファーは耳に手を当てた。
「水の音……?」
遠く聞こえる雨音とは別に、たっぷりと溜められた水が揺れる音が聞こえていた。
「お風呂場!」
ジェニルファーが進みだし、とある扉の前で止まった。
ドアノブに触れ、はっとした顔でこちらを見る。開くらしい。次の行動を問いかけるように、目元が硬くなる。
ルーキはうなずき、微妙に立ち位置を移した。
ジェニルファーとエルカは扉が開いた時に陰になる側に、ルーキは開く側の正面に陣取る。
そっと扉が開かれる。
大衆浴場のような大きな風呂場を予想していたルーキは、その小ぢんまりとした室内に少し拍子抜けした。
カーテンで仕切られたむこうに、水を溜めた陶製らしき“かめ”が見える。ちょうど人が一人横たわれる程度の大きさだ。
そこから溢れた水が、床を、扉のすぐ手前まで濡らしていた。
ちゃぷ、ちゃぷ、と揺れた水が何かに当たっている音がする。
「バスタブに、誰かいる……?」
横からのぞいたジェニルファーが、小声でつぶやくのが聞こえた。
遠い稲光が室内をほの照らす。
カーテンに人影が映った。
「……!?」
全員が声を失った。
人影は明らかに不自然な体勢をしていた。
かめの底と腰があるであろう高さが合っていない。まるで少しだけ浮いているようだった。
そして、人影の頭上からはロープのような細い影。
ルーキは駆け寄ってカーテンを引いた。
エルカとジェニルファーの悲鳴が、湿った空気を引き裂いた。
そこにいるのは、首を吊った、一人の、少女――。
「いやああああっ!」
エルカが顔を覆ってその場にしゃがみ込み、ジェニルファーは短い呼吸を繰り返しながら棒立ちになる。
死体。
学院の制服を着た、オカルト研究会の誰かの、死体!
少女二人が恐慌状態に陥る中、ルーキはただ、それを見つめていた。
この場において、彼だけが実戦経験者だった。
獣相手ではあるが、飛び散る臓物を目の当たりにしたことがあるし、解体だって経験している。
その神経をもってしても、そこにある死体は、無残の一言に尽きる。
濡れてうねる髪を張りつけた顔は、やすりで執拗にこすられたように皮膚がぼろぼろ。
制服もずたずたにされ、どこかいびつに曲がった腕が、かめの外側に垂れている。
思わず目を背けたくなるような凄惨さだ。
が。
「…………?」
気づく。
死地を知っているからこそ、察知する違和感。
この惨たらしい死体は、あまりにも――。
あまりにも、においがない。
水に浸かっていることを含めても、血の、そして死のにおいがしない。
ルーキは死体に近づき、その肩を手でつかむと、感触を確かめ、張り付いた前髪を持ち上げた。
一つ、わかった。
「二人とも落ち着け。これ、人形だ」
『えっ!?』
ルーキは首吊りのロープをはずし、それを浴室の床へと横たえた。
「本当ですわ……」
エルカが口元を両手で押さえたまま、震える声で言った。
布製の、ぬいぐるみのような人形だった。
そこに学院のジャケットだけでなく、ブラウスとスカートまで身につけさせているのだ。
一体何なんだ、これは?
「……何か手がかりになるようなものは……」
吐き気をこらえるような顔でジェニルファーが言い、恐々とジャケットのポケットを調べた。
「ああっ……」
濡れたハンカチが出てくる。アナ、という文字が刺繍されていた。
「こ、これって……」
エルカがかたかたと震えながらつぶやく。
「誰かがアナさんから衣服を奪って、こんな悪趣味な悪戯をしたってことですの……?」
「だとしたら――」
ルーキは周囲を見回した。
「どこかで犯人は俺らを見てるはずだ」
水が大きくゆらめく音。
突然、水しぶきが怪物のように跳ねあがった。
「!!」
人形が入れられていたかめの中に、もう一つ、別の何かが潜んでいたのだ。
「きゃああああ! いやあーっ!」
パニックに陥ったエルカとジェニルファーが浴室から駆け出す。
ルーキは慌てて二人を追いかけようとして、一度だけ背後を振り向いた。
じゃぎ、じゃぎん。
錆びた音を立てながら、柄の長いハサミのようなものを開閉させたのは、小柄な猫背の生き物だった。
雨合羽のようなコートから水をぽたぽたと滴らせ、一切凹凸のない仮面をつけた顔が、なぜか笑みの形に歪んだのを、ルーキは見た気がした。
――何だ、こいつは!?
こっちは走者だ。
色々なものと戦ってきた。人であり、敵であるのなら、戦えるはずだ。
しかし、何かが違うと本能が訴える。
自分がこれまで相対してきたものと、少しだけ、しかし根本的にズレた存在。
そこにいないのに、見えている。
こちらは掴めないのに、掴まれる。
そんな理不尽な恐怖感を血管に流し込まれ、次の瞬間、ルーキはもう振り返ることなく部屋から駆け出ていた。
絶体絶命、生き残るのは死んでも無理!
次回、「シリアスさん死す!」
シリアスさん「えっ」




