第五十七走 ガバ勢とシノノメの内変
特に名前のない男だった。
生まれた時からそうだったわけではない。
ただ何度も名前を変えるうちに、社会の中で個人を識別する固有名詞など、むしろ足かせにしかならないと気づいただけのことだった。こんな仕事ばかりしていると、特に。
男は放棄された地下プラントにいた。
じき、一人のコルボがやってくる。
もはや社内では知らぬ者のいない〈シノノメのギロチン〉だ。
あの気まずそうに人込みに隠れていた日からまだそうたっていないというのに、今では本社が何よりも手放したくない重要な戦力にかぞえられている。
同じ依頼主のところで働いた日数は、こちらの方がずっと上だというのに、だ。
まあ、それは別にいい。優れた結果を残した者が優遇されるのは、このクソのような街の唯一の美点だ。
それにその栄光の日々も、
どうせ、今日までなのだから。
古びたシャッターが開き、旧式のABが室内に入ってきた。
毎回外殻パーツを使い捨てにしていると噂されるほど、いつ見ても〈シノノメのギロチン〉に目立った外傷はない。しかし現実はより信じがたい。この過去から這い出てきた機体は、ほとんどの戦場を大した損害もなしにクリアしてきているのだ。
誰も、こいつを撃破できない。
なるほど、と男は思う。
だから、俺が必要だ。
「来てくれたか。助かったよ」
男は通信用のマイクにそんな声を吹き込んだ。
〈シノノメのギロチン〉からの返事はないが、あちらの意志はすでに明白だった。
助けに、来てくれたのだ。
「この先にシノノメの敵がいる。そこまで誘い込むので精一杯だった」
ABの腕で奥の部屋を示しながら、男は告げた。
――見栄を張って、分不相応に難しい依頼を受けてしまった。報酬は依頼主から受け取った分を全額前金で払うから、どうか俺の代わりに達成してほしい……それが、男が〈シノノメのギロチン〉に向けて密かに送ったメッセージだった。
実力第一主義のコルボとしては、こんな話、恥さらしもいいところだ。誰にも明かすべき内容ではない。だがそれゆえに、疑う者は少ない。
旧式のデュアルアイが、じっとこちらを見つめてくる。
「わかってる。こんな馬鹿なことはこれきりにする」
説教された小心者の悔悟を装い、男は諸手を軽く上げる仕草まで加えて、そう返した。〈シノノメのギロチン〉はそれで納得したように、奥の部屋へと歩いていった。
機体が完全に部屋の中央にまで到達したところで。
男は緊急隔壁のスイッチを押して、その部屋を完全に封鎖した。
ハハッ。と、誰に向けるでもない嘲笑がもれた。
壁際に取りつけられたコンソールから、閉じ込められた〈シノノメのギロチン〉に呼びかける。
「騙して悪いが仕事なんでな。あんたを始末することが、俺の本来の依頼だったってわけだ。そこはABの武装用実験室で、いかにあんたの〈月蝕〉と言えど破壊して脱出はできない。そこで餓死するなり、その前に自決するなり、好きにしてくれ」
室内を映し出すモニターから、〈シノノメのギロチン〉が下したばかりの隔壁のすぐ向こう側に立っているのがわかった。つまり扉一枚隔てた先。
男は笑った。
「そんな顔するなよ。あんただってわかってるはずだ。目立つ花から摘まれる。あんたはやりすぎたんだよ。じゃ、俺は帰らせてもらうぜ」
そう言い切った直後、不意に、室内のライトが緊急事態を示す赤色に変わった。
「な、何だ!?」
焦る男に、古びたスピーカーから途切れ途切れの人工音声が届く。
《異常ハッセイ。異常ハッセイ。ルーム81010003・14の隔壁に異物が引っかかったため、強制解放を行いマス。実験中のスタッふは、速やカニ作業を中断しテください。あくしろ(豹変)。繰り返します……》
「なにいいいいいッッッ!? ばかやめろ!!! なんでガバるんだそこで!!? 壁を開けるな! やめろおおおおッ!」
男が大慌てで叫んだが、すでに隔壁は持ち上がり始めていた。
そして数秒後。
目の前には、肩に〈月蝕〉を担いだ〈シノノメのギロチン〉の姿。
「おい、何か言っとくことあるか?」
氷よりも冷たい声が、スピーカーを通してコックピットに広がった。
〈月蝕〉を実際ののど元に突きつけられている気分で、男は背筋を凍結させたまま、死にかけた声を返した。
「だ……騙して、本当にすいませんでした……」
「質問に正直に答えたら命だけは助けてやる」
再び押し込まれた冷たい声は、それでも男に希望を抱かせた。
「正直に答えたら許してくれるんですか」
「おう考えてやるよ」
さっきと言ってることが微妙にトーンダウンしたような気もするが、今すがれるのは〈シノノメのギロチン〉のご機嫌だけだ。
「知ってることなら何でも言います! センセンシャル!」
「おまえの依頼主は誰だ」
当然来るべき問いかけに、それでも男はのどを強張らせた。
コルボが自ら依頼主を明かすのはご法度。依頼主との関係の崩壊を意味するだけでなく、今後の傭兵稼業全般にミソをつけることになる。しかし、〈月蝕〉で今すぐぶった切られることと天秤にかけるわけにもいかない。
彼は全身を震わせて叫んだ。
「シノノメの上層部だ!」
スピーカーから返ってきたのは、沈黙。
「本当だ! シノノメの役員からの依頼だった。名前まではわからない。ノ、ノールかもしれん! 適当に言ってるわけじゃないぜ。あの女はあんたの強さを誰よりも理解している。強いってことは、危険ってことだ」
無言を動揺と受け取った男は、さらにまくし立てる。
「あの女も所詮は企業の人間だ。影響力の大きくなったコルボほど面倒なものはない。このあいだ、新型ABが完成したんだろう? あんたも、俺も、もう用済みってことかもしれないぜ……」
「…………」
相手からの通信はまだなく、しかし言えるべきこともすべて言ってしまった男は、静かな低音を響かせる〈月蝕〉の圧迫に耐えきれなくなって、機体をわずかに後退させた。
「じゃ、じゃあ、俺ギャラ払って帰るから……」
その肩をがしりと掴まれた。
「命だけは助けてやるが、無事に帰してやるとは言ってない」
「そ、そんな!?」
斬閃。
〈月蝕〉の軌跡がメインモニターに数条の光を焼きつかせた直後、男はコックピットごと床に落下する衝撃に全身を揺さぶられた。
モニターの端に表示されていた機体モデルが、四肢を真っ赤に点滅させる。浮かんでは消えていく「LOST」の文字を認識した頭が、ボーンごとABの両手足を切り離されたことを理解した。
「こいつはもらってくぜ。売れば多少は金になる」
傾いた映像の中で、愛機の手足を肩に担いだ〈シノノメのギロチン〉が言う。
男は悲鳴を上げた。
「ま、待ってくれ!! ……冗談じゃねえ……そいつをゲット・リワードされたら、どうやってここから帰ればいいんだ……? 借金があるんだ……。 俺たちの元締め、〈エッグ〉……。内に強欲な黒い鳥を住まわせたyakkoに……。これ以上負債が膨らんだら、あいつらからナニをされるか……これもうわからないのさ……」
「命があるだけ上等だろ。マシンを降りて畑でも耕せ」
そう言い捨てて、〈シノノメのギロチン〉は去っていった。
男はただ茫然として、何も考えられなくなった頭を、傾いたコックピットの重力に従わせた。
ここでは勝った者が正義。敗北者は悪ですらなく、ただの鉄屑。それが唯一のrule……。
思えば、こういうdirtyなworkのために自分は雇われていたのだ。シノノメ上層部が、今までのこちらのキャリアを知らないはずがない……。だが、こうして最後の頼みの綱も切れた。無名のまま長く続いた冴えないDanceもこれで終わり。手足をもがれたウォーリアーには、もうどこにも行く当てなどないのさ……。
※
ノールは薄暗い廊下を歩いていた。
役員専用の通路を歩くことができるのは、実戦部隊の隊長が、他部署の長クラスの立場を飛び越えた特別扱いされているからに他ならない。
何度かのセキュリティゲートをパスした後、彼女は薄暗い空間へと体を潜り込ませた。
役員以外には存在すら秘匿されてきた地下格納庫。
普段は無数のコンテナ以外、何も置かれていなかったその薄暗い場所に、今は巨人の輪郭が滲み出ていた。
自分を見下ろす白骨の顔を、ノールは鋭く見返す。
新型AB。バナジンでは早くも、これを“ボーンヘッド”と呼んでいるらしい。
「中身のないマヌケ」という意味もあるが、彼らの言葉の裏に見え隠れするのは「中身の見えない闇」という恐怖心だ。
奥歯を強く噛んだ。
(何だ、こいつは……!)
知らされていなかった。プラントTの地下深くで、こんな新型が開発されていたなんて。
役員待遇とはいえ、それはセキュリティー面に限定される。開発部門の機密がこちらに降りてこないことは、情報保持の観点からも決しておかしなことではない。
しかし、このABは何から何までおかしかった。
ボーンのみでのあの戦闘力。四肢の形状も、これまでシノノメが開発してきたものとは根本的な設計思想での飛躍が感じられる。直感ではあるが、二段階、技術力が違う。
「…………」
いつ、シノノメはこんな技術を開発していた?
提携企業から新技術を提供されたにしても、あまりにも唐突すぎる。噂の一つくらい、漏れ出てきても不思議はないはずなのに。
ノールは不気味にうずくまるボーンヘッドの胸部に近づくと、ペンライトの光を頼りに外部ソケットを探しだし、懐から取り出したポータブル端末のコネクターと接続した。
モニターに吐き出されたのは、見たこともないマシンパラメーターの羅列だった。
キーボードの上に載せた指が震える。
シノノメの技術じゃない。……いや、それどころか、この街のどんな先端技術をも凌駕している。
何だ。こいつは、何なんだ……?
端末を操作して、コックピットのハッチを開けた。
瞬間、シートの上に人影を見て、ノールは思わずジャケットの内ポケットに忍ばせていた拳銃を引き抜いていた。
が。
「お、おまえは……!?」
痩せこけた木のように生気なくパイロットシートに収まっていたのは、見知った男だった。
ニック。
傭兵集団〈ブラックドック〉のリーダー。
「なぜおまえがここにいる?」
病院にいるはずだ。アル中で、復帰まで二ヶ月以上は先。しかしどんな質問も無意味だとすぐに気づいた。彼は衰弱死寸前だった。意識もない。
「まさか、意地で病院から這い出してきたとでも言うのか?」
つぶやいてコックピット内部に目をやったノールは、今度こそ言葉を失うことになった。
何もない。
計器類も、操縦のためのコンソールも、何も。
外を見るためのモニターすら存在しない真っ暗な空間に、彼はぽつんと置かれていたのだ。
「どういうことだ……。おまえが操縦していたんじゃないのか? これは一体……」
バチッという放電音と共に、背中の神経に弾けるような痛みが走ったのはその直後だった。
一瞬にして弛緩した手から護身用の拳銃が滑り落ち、膝をつかせた。
力を振り絞って振り向いたノールが背後に見たのは、スーツ姿の男。
急速に輪郭をぼやけさせていく視界の中で、役員のバッジがやけに輝いて見えた。
だが、この男は誰だ。
役員の顔と名前は全員記憶している。しかしこいつは知らない。
いや、一人だけ……。
どうしても覚えられない顔と名前の男がいた。
まるでそいつには名前も顔もないのに、無理やり「ある」と錯覚させられているような、そんな男。
「何者だ……おまえは……。何が目的で……」
言い切る前に体がコックピットの床に沈み込んでいた。
頭の内部が次々に断線し、思考するスペースがどんどん狭まっていく中、ノールは必死に使える言葉を繋ぎ合わせる。
何かがシノノメに入り込んでいた。
ずっと前から。なぜか、誰にも気づかれず。
ふつうの人間ではない。
なにかもっと狡猾で、こちらのじょうしきをはるかに超える異質なそんざい――たとえば。
この街、そのもののように。
こいつは。
こいつのしょうたいは――。
思い至った時には、もう何もかも手遅れだった。
悪いことをしても謝れば許す親の鑑なのさ…………冗談じゃねえ…………




