第四十七走 ガバ勢とダンジョンガチ勢の実力
樹の中に広がる森は静かだった。
静かすぎた。
あのヒヒに似たモンスターの不意打ちの一件から、まださほど時間もすぎていないというのに、いつの間にかあたりからは動物の気配が消えている。
「まずいっすね……」
「サクラ?」
「あれ見るっす」
彼女が指で示したのは、細い木の幹に刻まれた三本の溝だった。
「爪のとぎ痕か?」
「縄張りの主張っすね。ダンジョンで自分の存在をアピールするってことは、“それなり”以上のモンスターである証拠っす」
「じゃあ、道を変えた方がいい?」
「それはこっちが決めるよ」
話を聞いていたのか、前からマリーセトスの声が割り込んできた。すぐさまリズへと向けられた「どうする?」という問いには、相手を測る意図が見え見えだ。
リズは少し考え、
「進みます。今のパーティーなら突破できる相手です」
静かな眼差しをマリーセトスへと返す。少しもブレない目線が、“次はあなたも戦いに参加してもらう”と告げているように見えた。
「いいよ。じゃ進もう」
ガチ勢はニヤリと笑い、変わらぬ歩調で進み続けた。
このテストは命がけだ。最終的な安全を誰も保証できない。その中で、先々の判断はリズに一任されている。結果となって現れる責任さえも。
少しして、地形が変わってきていた。
平坦な地面に高低差がつき始め、木の根の中だというのに、道の片側が崖になり、滝が流れ落ちている場所もあった。
ここが樹の根の内側の世界だとは到底思えないような広大さだ。落差も地上と大差なく、落下すれば命はないと、霞む崖下を見ながらルーキは確信する。
「また傷だ」
背中のプリムを軽く背負い直し、ルーキは樹の幹に視線を向けた。
「さっきより引っ掻き傷が深くなってるっす。これはもう“最後通告”っすね」
サクラがそう言った直後だった。
ゴウ、と草木が揺れる。風ではない。獣の咆哮だった。
肌の表面を目の細かい紙やすりで撫でられた気分で、ルーキは思わず足を肩幅に広げて身構えていた。
狙われている。ここの主に、はっきりと敵意を照射されている。
すぐさま、草を広く踏む音が響いた。続いて落ちていた枝を踏み折り、巨大な影が躍動する気配が、空気を押し動かしてくる。
「来ます!」
リズの叫び声から一拍の静寂を挟み、それは現れた。
ゴオオッ!
クマだ。胸と顔の大部分が白い、黒毛の巨大なクマだった。
深く裂けた口からのぞく鉄杭のような牙もすさまじかったが、それ以上に凶悪なのが両前脚の異様に発達した爪。
走るよりも完全に攻撃に特化した長さで、今も地面とその近くにあるものを区別なく抉り飛ばしながら、こちら目がけて突っ込んできている。
狙いは――マリーセトス!
しかしあろうことか、この期に及んでまだ彼女は地図に目を落とし、手を動かし続けている。
「な、何やってんだ!?」
ルーキが愕然と叫ぶ中、空気を六つに切り分けながら魔獣の爪が迫った。
対処できない。やられる!
ルーキがそう思った瞬間、マリーセトスが倒れた。前に。
その頭上を、確実に命を刈り取る五本の溝が通過していったというのに、彼女の態度は、まるでベッドの上に寝転がったままお絵かきを続ける子供のようだった。
そう、彼女はまだ描いていた。地図を。
必殺の爪をかわされ、魔獣は続けて牙を繰り出した。
大型獣の牙は、中型以下の獣と違って、獲物の失血死を狙うためのものではない。噛みついた相手の肉体を、骨ごと圧壊させるための力を秘めている。
その致命の一噛みを、マリーセトスは横に一回転がっただけでかわした。
まさに寝返りのような呑気さだった。
魔獣はさらに攻撃を重ねる。しかしマリーセトスの柔肌に届くことは一度もなかった。
そして――彼女はありとあらゆる状況において、ずっと地図を描くのをやめなかった。
しゃがむ、跳ぶ、飛び退く、潜り込む、どんな激しい動きの中にあっても、絵筆を動かし続けた。
様々な体勢での回避の末、とうとう彼女は、魔獣の頭の上にのぼってしまっていた。しかも、頭のみで倒立するという異様なポーズだった。
長いローブの裾も完全にひっくり返って、ベビードール風の下着が丸見えになる。
ローブの裾が上下逆転したことで、逆立ち状態にあるマリーセトスの上半身が隠されていたが、その内側でも彼女が地図を描ているのが見て取れた。
頭での倒立という珍妙な姿勢の真相は、つまり彼女がフリーハンドであることを最優先にした結果のようだった。
「いや、真面目に戦ってくださいよ!」
我に返ったルーキが、可愛らしい下着に赤くなりながらツッコミにも似た要望を投げつけると、突風でぶっ壊れた傘みたいになったマリーセトスから、心外そうな返事がきた。
「ボクは十分真面目だよ。取っ組み合いのケンカができないから、こうして的になって時間を稼いであげてるのに。そっちこそ早く戦ってよ」
「……!? そ、そうだったのか! センセンシャル!」
ガチ勢が何でもできるバケモノだと勝手に思い込んでいたのは事実だ。身のこなしはやはり尋常ではなく――そして逆さになっても地図を描き続ける執念はもはや病気だが――、攻撃手段がないということは本当らしい。
魔獣はマリーセトスに苛立ち、執着している。こっそり忍び寄ることは難しくなさそうだ。ただ、手持ちの武器であの巨獣にダメージを与えられるかどうか……。
それでもやるしかない。
ルーキは腰に差したショートソードを掴もうとして、ふと、体の動きにくさから重大なことを思い出した。
プリムを背負ったままだった。
慣れてしまったのか、それとも緊張で麻痺していたからか、これまで彼女の重さをまるで感じていなかった自分に驚く。ともかく、フル装備の姫騎士を背負って戦うことはできない。ルーキが慌てて彼女を地面に降ろそうとした、その時。
ガシッ、とプリムの両足――というか両腿が、ルーキの胴体を左右から挟んだ。
「えっ」
続いて、両肩を鉄製の指にわっしと掴まれる。
「えっ、えっ……」
重心がわずかに高くなるのを感じる。それまで丸まっていたプリムが背筋を伸ばしたのだと、感覚的にわかった。
しかし次の言葉は、完全に予想外。
「突撃!!!!」
鼓膜どころか、骨まで揺さぶるような勇壮な叫び声が頭上から降り注いだ。
「何をしている、馬よ! 我が突撃と言ったら突撃せんかあ!!」
「ええっ!? ええええええ!?」
ルーキの上でプリムが身を揺すって暴れる。
「お味方も我に続けェ! 人類の興廃この一戦にあり! 徹底的に撃滅せよ、撃滅せよ、撃滅せよッッ!!」
「う、うおおあああああ!?」
ルーキの両足が勝手に前へと飛び出した。
背負った少女の号令に思わず駆けだしていたというのが本音だが、同時に、踏み込んだ瞬間の得も言われぬ爽快さも否定できなかった。これは、何なのか。
「よし、いい馬だ! それでこそ我が愛馬に相応しい! そのまま征け、フラアアアアアアアアアアア!!!」
「ホッ、ホーッ、ホアアーッ!!!」
頭の芯にまで突き抜けてくる明快な声に思考を溶かされながら、少女が突きつけたグレートソードの切っ先方向へとルーキは突っ走った。
何と勇壮で華やかな姿。これが本当に、さっきまで腐った魚の目を閉じて寝こけていたプリムのものなのか。まるで戦場に舞い降りた女神のようだ。
その先陣を共に切れるなんて、身に余る栄誉!
「お、来た来た」
魔獣の頭の上で側転を繰り返していたマリーセトスが、歓迎する言葉を向ける。
「どっせえええええええい!」
プリムが突き出したグレートソードが、人間十人くらいなら容易に詰め込めそうなほど分厚いクマの胸部を豪快に撃ち抜いたのは、その直後だった。
ヘッドスプリングで宙に浮いたマリーセトスを残し、魔獣の巨影が数メートル先までぶっ飛んで、激突した樹木を震撼させる。
そのまま。
両後ろ足を前に投げ出して木にもたれかかった体勢で、魔獣の目はもう何も映さなくなっていた。
ただの一撃。恐らくは心臓を直撃した。筋肉と脂肪と毛皮に覆われた、動く要塞のような獣を、たった一撃で葬ってしまったのだ。
「モンジョワ・サン=ドニ!!」
グレートソードを掲げ、声高らかに叫ぶプリムを背負った自分の周囲に、ルーキは万雷の拍手と色とりどりの花吹雪が舞い落ちる幻を見た。
が。
「…………ちかれた……」
直後。べちゃり、という表現がぴったりの落差で、彼女がルーキの背中に覆いかぶさってくる。周囲を彩っていた華美な幻も、元の景色に戻る。
「な……!?」
ルーキは我に返った思いで、急にのしかかってきた重みに思わずたたらを踏んだ。
今――俺は、何をしていた?
「やー、ご苦労」
マリーセトスが地図を描きながら呑気に近づいてきた。
「こ、この人、何なんですか? 何をしたんですか今!?」
ルーキが混乱しながら聞くと、
「ああ、その子は、必要な時が来れば今みたいに豹変するんだよ。ただし滅茶苦茶エネルギーを消費するから、RTAは常に最短距離で行かないといけないし、移動中も死にかけみたいになってるってわけ」
「……!」
主義主張を理由とするレギュレーショナーではなく、自らの体質からそういう制限を課さざるを得なくなった走者ということか。それなら、今回のような寄り道ありのルートは圧倒的に不向き。こちらの背中に覆いかぶさっていたことも理解できた。
だが聞きたいのはそこじゃない。
さっき、ルーキ自身に起きたこと。
あれは何だ? プリムの声の一つ一つに、こちらの体の内側を発火させるような強力な熱があった。走れと号令されれば、何も考えずに走り出してしまいそうな……というか、実際そうした。あれは一体?
「その人の怖いところっすよ……」
歩み寄ってきたサクラが、青い顔で言った。
「生まれついての王というか、女王というか、人をごく自然に従わせる気質があるんすよ。プリムの声にあてられた人たちは感化されて、疲れも感じない狂戦士状態になるっていう……。サクラもそれでどれだけ無茶をやらされたか……」
「ひえっ……」
その通りの現象がルーキに起きた。
いや、今の戦闘だけではない。さっき小川を見かけた時は少し休憩したかったのに、いつの間にか疲労も感じなくなり、むしろ彼女を背負っていることで、何かの活力を得ていた気さえする。
だが、恐ろしい。
さっき自分が感じた熱狂。彼女とどこまでも突っ走っていきたくなる衝動。あの瞬間、それが自分にとってのすべてだった。他のことは何も考えられなかった。
そして、それが冷却された今、もう一度あれを体感したいと切望する気持ちが、心のどこかで蠢いているのだ。
危険だ。この少女は危険だ。彼女なしでは生きられない体にされてしまう……。
「怖くないよ……。へへ、へへへ……」
「ヒ!?」
「き、聞かれたっす!」
地の底に堆積した泥のような笑い声に、ルーキとサクラがすくみ上る。
さっきの突風じみた鬨の声とは正に雲泥の差。同一人物とはとても思えない。
やはり。やはり彼女もガチ勢なのだ。だっておかしいし、おかしいもん。
「ともあれ、強敵撃破だね。みんなお疲れ様」
ただ一人態度の変わらないマリーセトスがまとめるように言い、リズを見てニヤリと笑った。彼女は硬い表情を動かさないまま、「はい」と答えて静かに視線を落とした。
そんな二人を見て、ルーキの内側に再び疑念が湧き上がる。
……違う。俺は何か勘違いをしている。
極めて危険なテストだということを差し引いても、あまりにも強張りすぎている。
命がけというのなら、それは普段のRTAだってそうだ。特にこの前の〈バーニングシティ〉では本当に二人とも死にかけた。死を覚悟したあの時ですら、彼女はここまで体を硬直させてはいなかったはずだ。
何か別のものが、切羽詰まらせている。
それがわからないもどかしさに、ルーキが顔をしかめた時だった。
戦いが一段落して緩んでいた瑞々しい空気が、突然、干上がった。
一瞬後、凄まじい絶叫が空間を走る。
思わずびくりと首をすくめた直後、雄叫びとも怒声ともつかない唸り声を上げながら、赤い毛の大グマが樹木を切り裂きながら突っ込んでくるのが見えた。
双眸から噴き出す殺気が、周囲を赤く照らしているようにすら思えた。
「なっ、何だあれ!?」
違う。さっきの熊――いや、普通に森に暮らしている怪物とは明らかに一線を画する圧力。その範囲に入った者はすべからく死に絶えるべしという強烈な意志が、まだ離れたルーキにも痛いほど伝わってくる。
赤い魔獣の目線が、息絶えたクマを捉えた。その眼光が区切るキルゾーンの内側が、より一層濃さを増す。
倒された黒いクマの親――あるいは王。そんな風格と気配。
ルーキは瞬間的に、あれには勝てないと直感した。
戦ってはならない。逃げるしかない。
しかしそんな相手は、真っ直ぐにルーキを目指してくる。
いや。狙われてるのは、
「俺じゃない……!?」
ぴくりと、背中のプリムが身じろぎする気配。
あの黒クマを倒したプリム。彼の血の付いたグレートソードを持っている少女が、本当の標的だ。
プリムがルーキの体からするりと手足を抜き、地面に降りる。
唖然とするルーキに何も言わず、濁った眼をマリーセトスに向けた。
マリーセトスは、初めて地図を描く手を止め、
「わかった」
とだけ告げた。
何の合意がなされたかもわからないまま、ルーキはプリムが走り出すのを目の当たりにする。
赤い魔獣に向かって、ではない。
反対側。その先には、樹の根の中とは思えない、切り立った崖があった。
魔獣はルーキたちに見向きもせず、彼女を追う。
「!?」
赤い魔獣に背中を追わせたまま、姫騎士の少女は、崖から身を投げていた。
GKUでさえナッパの上には足で乗ったのに、頭で乗るガチ勢のご無礼お許しください。




