第四十二走 ガバ勢とバーニングファイター
それは、後に起こるできごとに比べると、あまりにもささやかな音だった。
タタタタ……と、猫が石畳を走っていく時のような軽い足音。
ルーキの絶叫から半秒と待たずに聞こえ始めたそれは次第に大きくなり、そして。
顕現した。
たくさんの肉の内側で骨と内臓がひしゃげる音をルーキは聞いた気がした。
妖魔たちが跳ねる。いや、撥ねられている。
隘路の右から左へ順繰りにかち上げられていく様は、人でできた波を連想させた。
何が起きている? ルーキは自分の中に湧き上がった質問を即座に黙殺した。
来た。来た。誰かが、来た!
ショートケーキが載っていた皿をなめ尽くすように、妖魔たちの人垣を丁寧に吹き飛ばし終えてから、それはルーキのすぐ目の前まで駆けてくると、キキッと靴底を叫ばせて止まった。
「あれ? いないぞ……。オレ様曰く、確かにここからヤツの声がしたはずなんだが」
男の第一声は、そんなきょとんとした、毒気のないものだった。
年齢は二十代後半から三十代、顔はごつごつとして精悍。短い金髪をリーゼント風にまとめ、身長は約二メートル。体重は百キロを下らないだろう。黒革のジャケットを腕まくりし、ズボンも同色。盛り上がった筋肉が、衣服を下から押し上げている。
「おのれバーニングファイター! どうやってここまで来た!」
クサリが叫んだ。さっきまでの超然とした態度は崩れ、目に見える怒気を噴出させている。
「当然走って来た」
対するその男は、ここにクサリがいること、妖魔の大群が結集していたことなど、窓の外にスズメが飛んでいたくらい何でもないことのように、平然と答えた。
「バーニングファイターだ!」
「くたばりやがれビル!」
倒れ伏した眷属を踏みつけたままの彼に対し、妖魔たちの蛮声が飛ぶ。
それを見た男はやれやれと嘆息し、そしてどこか嬉しげに叫んだ。
「照れ隠しはよせヨシオども。本当はオレ様に来てほしくてそうやって集まって乙女のように星に祈りを捧げていたのだろう? 貴様らがどれだけ鬱陶しいかは、夜でも顔を出さない星を見れば一目瞭然! 今度スタールッカーを通じてオレ様が直々に連中のクレームを受け付けてやろう! あのエトランゼにオレ様の言葉が通じればの話だが!」
「ふざけるな!」
「オレはヤスだ! 全員ヨシオにするな!」
とぼけた口振りに触発され、数体の妖魔が人垣から駆け出てくる。それをきっかけに、他も一斉に彼へと押し寄せた。
「貴様ら本当に懲りないな。いいだろう、オレ様の快楽をとくと味わうがいい!!」
バーニングファイター――ビルという名前らしい――が一人で妖魔たちに立ち向かっても、ルーキは不思議と危機感を覚えなかった。
それほどの揺るぎない余裕が彼にはあったのだ。
しかしルーキはやはり目を見開くことになる。
彼の、その異様な戦いぶりに。
「は……速……!?」
恐るべき速度の手業だった。ストレート、裏拳気味のパンチ、チョップ、逆水平チョップを的確に全身に叩き込み、瞬く間に妖魔たちをのしていく。
普通、連続技にはフィニッシュに向かう流れがある。しかしビルのラッシュは前述の四つの打撃をループすることで構成されていた。
攻撃にワンパターンは厳禁だ。敵に見切られる恐れがある。特に妖魔たちの割り込みは並の精度ではない。だが、無呼吸で繰り出される連打の速さが、つけ入る隙を見せない。
「…………!?」
いや、違う。
いる。中には、あのハイスピードのラッシュを掻い潜ろうと試みる相手もちゃんといる。
しかし彼らは届かない。
なぜなら、そういう動きをわずかでも察知した直後、ビルは次の攻撃をハイキックに切り替えて対応するからだ。
パンチとは異なるタイミングで放たれる一撃が、踏み込もうとした妖魔たちの首筋に絶妙のタイミングでめり込む。崩れ落ちた敵は白目を剥いて、二度と立ち上がってこなかった。
思わず間合いを広げようとした妖魔の動きも見逃さない。さがった瞬間、ジャンプで瞬時に間合いを詰め、タックルで吹っ飛ばす。
判断と行動がほぼ同時に行われていた。
相手を前後に挟んでタコ殴りにするフォーメーションなど作らせもしない。
強い。あまりにも強すぎる。
「ルーキ君……わたしたち、どうなったんですか……?」
鼻にからむような弱々しい声がルーキの背中からした。リズだ。
「委員長、見ろ。助けが来てくれたんだ」
ルーキは背中にしがみついたままの彼女を支え、ビルの雄姿を見せた。
絶望が膜を張っていたリズの目に、じわじわと元の光が戻ってくる。
「……あの妖魔たちを一方的にボコボコに……? だ、誰ですか!?」
やがて目が覚めたように、彼女は驚きの声をあげた。
「わからない。妖魔たちは、バーニングファイターとか、ビルとか呼んでたけど……」
「は!? バーニングファイター・ビル!?」
「知ってるのか委員長!」
リズは目を剥きながら言った。
「ガチ勢の中でもガチガチのガチの一人です! ほとんど街に帰らず、ずっとここバーニングシティで試走と本走を繰り返しているとか……。半ば伝説化していて、実在すら怪しまれていましたが、まさか……!」
「そ、そんなにすごい人なのか」
ルーキは改めてビルを見つめる。
すごいかどうかなど、他人の意見を聞く必要などなかった。自分の目で見たこれが答えだ。
今、彼は四人の巨漢に囲まれていた。いかにもゴンザレスとかダフィーと呼ばれてそうな肥満体系で、これまでのチンピラ風とは威圧感が違う。
それが四方から迫ってくるとなれば、それだけで命の十割を諦める場面。
「今日という今日は許さないんダフィー!」
「氏ぬんダフィー!」
「二度と来るなフォイ!」
「あと仲間を増やすのをやめるんザレス!」
不自然な語尾を叫びつつ、四人の巨漢が張り手を繰り出しながら怒涛の寄りを見せる。
逃げ場はない。防御する手立てもない。絶対的ピンチ。
はずなのに、ビルは前からやって来た通行人に道を譲るようにたやすく、その囲いから一歩で抜け出してみせた。
攻撃を失敗して素通りしたゴンザレフィーたちは、悔しがって地団太を踏む。
「あれ……? なんか、意外と大した敵じゃないのか……?」
ルーキは知らずつぶやいていた。
巨漢たちの動きは単調だ。あの雑魚妖魔たちのような鋭い動きが見られず、四人もいながらフォーメーションもあったもんじゃない。大きいだけあって戦い方も大雑把なのか……?
「それは違いますよ、ルーキ君……」
ルーキの素朴な感想に、リズの消え入りそうな声がかぶさった。振り返れば、彼女は先ほどまでとは種類の違う戦慄に肩を震わせていた。
「あれは、バーニングファイターが敵の動きをコントロールしているんです……」
「何だって!?」
「よく見てください」
四人がてんでばらばらに襲いかかってくる中、ビルは立ち位置を絶妙に変えながら、攻撃をやり過ごしている。よく見ると、目や腕、足の動きに微細な不自然さがあった。巨漢たちはそれに反応し、微妙にポジションを変えている。
「あれは、フェイント……!?」
妖魔はビルの予備動作に反応し、動きを先読みしようとして、逆に立ち位置をずらされていたのだ。
雑魚妖魔たちの動きの良さの秘密が今になってわかった。ヤツらは、恐ろしい精度でこちらの予備動作を読み解き、先回りしていたのだ。
しかし、ビルはそれを逆手に取って巨漢たちの動きをコントロールしていた。四人は雑魚でもなければ、戦い方が雑なのでもない。十分に強い。ただそれ以上に、ビルが上手なだけだった。
そして、四人も仲間がいるというのに、彼らは一か所にまとめられてしまった。
「ハッ!」
気合一閃。力強く加速した肩にぶち当てられ、四人の巨漢は同時に吹き飛ばされた。
「一撃で四人を……!」
それだけでもう尋常な戦いではないとわかる。
「特殊な武術の足さばきではありません。恐らくは無手勝流。けれど、妖魔に対してここまで戦い慣れているというのは普通では考えられない……」
極意というのは大袈裟な真理ではなく、基本を磨いていった果てにある最終到達点のことだ。何気ないあの一歩、あの身のこなし一つが、彼が超人である礎を作っている。
スタールッカーの奇抜さとは違い、まだ頭で理解できる範疇。しかし理解できるからこそ、その果てしない遠さがわかる。一体どこまで研鑽を積み重ねれば、あれほどのことができるようになるのか。
倒れたゴンザレスもしくはダフィー的な妖魔が、地面に染み込むように消えていく。
気づけば、倒された他の妖魔たちの姿もなかった。
これが彼らにとっての死なのか、それとも、単に逃げただけなのかはわからない。
どちらにせよ、もう残っているのはクサリだけ――。いや、
「待ちかねたぞ!」
塀の上に新たな参戦者が現れた。
黒い長髪の和装の男だ。
両手に抜身の刀を持っており、その眼からは達人しか持ちえない澄んだ殺気が静かに放散されている。
こちらも、ルーキが一人で対峙していたら絶望しか抱けないようなバケモノだったに違いない。しかしビルはその闖入者にも自然体を崩さず、
「ダブル・ソウダか……。オレ様曰く、貴様の金物臭い縄張りはもっと街の奥のはずだが、本当に待ちかねてこんなところに出てくるヤツがあるか?」
「喝ッ! たまにはそんな気分の日もある! つべこべ言わずに死ねい!」
ソウダと呼ばれた剣士が、塀から飛びかかってくる。
ビルは素早く身を引いてこれをかわした。
「まずい……!」
ルーキは焦った。これまでは肉弾戦だったが、今回の敵は得物を持っている。しかも二刀流だ。
着地したソウダは、続けてすぐには斬りかからず、慎重に間合いを計った。
ゆるやかな足さばきが名人のそれをうかがわせる。お座敷剣法ではない。もっと足場の悪い――たとえば、そこらに見えている鉄塔の上部ですら自由に動き回れるような、足の指先で地面を読む動きだ。
そんな相手に、ビルはぞっとするほど無防備に歩み寄った。
「!?」
端的に言って、リーチの長さはそのまま勝負の有利さと捉えていい。まず相手の必殺の間合いを踏み越えなければならない時点で、リーチの短い側は圧倒的に不利なのだ。
だからこそ、ビルの命知らずの動きはルーキの理解を超えていた。
ソウダが攻撃に転じるのと、ビルがタックルに踏み込むのはほぼ同時。
リーチがある分、刀の方が先にビルに届いた。
斬られた!
そのままビルの体当たりがソウダを吹き飛ばしたものの、彼はすでに深手を負って――。
ない。ビルのジャケットがわずかに傷ついたようだったが、刀創も、出血も見当たらない。
「攻撃のラインをずらしました……」
「え!?」
リズが恐れすら感じさせる声で解説した。
「刀というのは、単に叩きつけただけで攻撃が成立するものではありません。そこから押すか引くかして摩擦を生んで斬る、繊細な武器なのです。バーニングファイターは攻撃を誘うことでタイミングを読みやすくし、さらに刀の滑りに体を合わせることで、ダメージを最小限に抑えたのです……」
「うせやろ!?」
攻撃の向きに合わせて回転し、衝撃を逃がす技法は、拳闘だけでなく剣戟にも存在する。
だが、それはあくまで防御の手段。攻撃と組み合わせるなど聞いたこともない。
しかし敵もさるもの。吹っ飛ばされたソウダはすぐに立ち上がり、忌々しげに血混じりの唾を吐き捨てた。
「フン。相も変わらずパワーだのみの肉弾戦法か。まるで成長していないとは正にこのこと……」
「そういう偉そうなことは、一度でもオレ様の技を破ってから言うんだな。貴様のカタナ・ブレードこそ万年同じ太刀筋の上、時間稼ぎの“手すり渡り”が無意味だといつになったら気づくのだ?」
軽口を叩き合いながらも、互いの目つきから殺気が消えることはない。
両者は再び間合いをゼロにする。
それから何度もビルが突っ込みソウダを吹き飛ばしたが、彼は何度でも立ち上がった。痩せぎすの見た目とは裏腹に、これまでの敵の数倍の体力。やがてビルにもはっきりとした傷が刻まれるようになってきた。
ダメージを軽減しているとはいえ、ゼロにしているわけではない。鉄器でぶん殴られていることに変わりはないのだ。
あのパワフルかつテクニカルなタックルをあと一回繰り出せるか、どうか。
「委員長、俺たちも参加するべきじゃ――」
足手まといはわかっていた。それでも、少しでも敵の注意を引ければ。言いかけたルーキの視線の先で、ついにビルが斬られた。
足が止まったところだった。さっきのような超人的な体さばきを見せる余裕もなくクリーンヒット。
斬られた勢いで吹っ飛ばされ、建物のガラスを突き破って中へと消える。
その場に残ったおびただしい血痕が、傷の深さを物語っていた。
遅かった。ルーキは絶叫した。
「バ、バーニングファイターッ!!!!」
「応!」
スッ。
脇の道からビルが出てきた。
「へ?」
「ぬおおおおおおおッ!」
そして何事もなかったかのようにソウダへと向かっていく。それまでの疲弊はどこへやら、途端に鋭さを取り戻したタックルを繰り出し、相手を地面に転がしていった。
「ど、どうなってるんだ……?」
ルーキの戸惑いに、リズがこわばった声で吐き出す。
「残己です……!」
「委員長は何でも知ってるのか!? 今度は何だよ!」
「生物はもしもの時に備え、体力や生命力の予備を持っているんです。経験ありませんか? 体力的にもうダメだと思っていたのに、空に綺麗な虹が見えたとか、誰かに小突かれて頭に来たとか、気になる女子が応援してくれたとか、そんな理由で急に元気が湧いてきたことが」
「あ、あるけど……」
「それが残己です。生命の危機を感じて、本能がその弁を開いたんです。もちろんこれは観念的なものにすぎません。一歩間違えば、そのまま死にます。しかしバーニングファイターはその境目を正確に見極めて、もう一つの命を引きずり出したんです!」
「で、でも、傷も治ってるし、何か全然違うところから出てきたように見えたんだけど、それは!?」
「気のせいじゃないですか?」
「そこは説明してくれないんだ!?」
言っている間に、戦いは終わりを迎えようとしていた。
ソウダはボロボロで、もう限界間近だった。対するビルも、やはり捨て身の体当たり攻撃を繰り返した結果か、再び相当のダメージが蓄積している。
残己なんて捨て身技も、二度は使えないだろう。
攻撃に残された力は、お互いあとわずか。
張り詰めた殺気が、まわりから一瞬、音という音を奪う。その静寂の直後。
「ウギャア!!」
怪鳥のような叫び声を上げながら、ソウダが躍りかかった。
鋭い跳躍だった。空中からビルへと一直線に向かっていく。
ビルはその場でじっとしている。後ろに下がることもなく、懐に飛び込む気配もない。
踏み込むパワーも残っていないのか。刀身の中でももっとも強力な、物打ちと呼ばれる部分の軌道下で棒立ちだ。
妖魔の力を考えれば、人体が真っ二つにされてもおかしくない。
腹の中身が数センチ浮き上がるような時間と風が、ルーキの脇を通り過ぎた。
刀は確かに振り抜かれた。
数本の金髪が舞う。
しかし、それだけだった。
ビルはまったく動いていない。切っ先が遠かった。ソウダは空振りしたのだ。
達人が、愛刀の間合いを読み違えるはずがない。
それを引き出したのは、直前まで瞬きすらしなかったビルの鋭い眼光。ソウダはきっと、怖気づいた。
敵に近づくという単純な行為が、実はとても難しい。
もう体がぶつかってしまうと思うくらい近づいて、ようやく剣が届く距離だった、なんてことが、初心者の頃はよくある。
その原因は恐怖だ。本能が、体を敵から遠ざけようとしてしまうのだ。
バーニングファイターはソウダを恐怖させた。そして、紙一重手前で刀を振らせた。あれだけ強力な妖魔を、にらみだけで恐懼させる。
これまで彼の異様な技術を見せつけられてきたが、これこそがその真骨頂と呼べるものだった。
一刀を振り終えたソウダの首元に、ビルの鉈のようなハイキックが叩き込まれる。
肉と骨が同時に砕ける音が聞こえ、ダブル・ソウダは蹴りだされたボールのように地面を転がって、ゴミの山に吸い込まれていった。
彼が立ち上がってくることはもうなかった。
バーニングファイトを完走するやつはみんなおかしい




