第四十一走 ガバ勢と祈りなき戦い
「委員長――」
ルーキの声はグラップルクローに引っ張られる風の中に掻き消えた。
猛烈な速度で遠ざかっていく風景の中で、委員長はすでに街の中央へと駆けだしていた。
わき腹を抑える腕が見える。
走りにいつもの鋭さはない。満身創痍。
瞬間的に妖魔たちの動きが鈍る。どちらを追うかの逡巡。しかしヤツらはすぐに答えを出すだろう。弱っている方。簡単に捕まえられそうな方。
委員長は死ぬまで抵抗するつもりだ。
しかし今の体力では、それさえ満足にできるかどうかわからない。
ヤツらに捕まった委員長がどんな目に遭うか、想像したくもなかった。
さっきの戦いで、妖魔たちの残忍さは身に染みている。
自分は、
彼女がなぶり殺されるまでの時間を使って、逃げようとしている。
二人とも死ぬより、一人生き残る方がいい。
単純な計算だ。ガチ勢なら、より躊躇なくそれを選び取るだろう。たとえ自分が犠牲になる側だとしても。
自分は生き延びる。委員長は死ぬ。
わずかな生の可能性を与えられたルーキはふと、この先の人生を考えた。
生き延びて、どうにか街へ帰って、救援を要請する。
しかし間に合うことはないだろう。委員長の無残な死体が、後日、街に届くというだけのことだ。
それから、また自分はRTAをするだろう。
レイ一門と、サクラと。
食事をするだろう。
ロコや、友人たちと。
眠るだろう。
ベッドで安らかに。
きっと、周囲の人は慰めてくれる。許してくれる。
彼女の分も生きるべきだ。そう言って。
自分も、自分にそう言い聞かせるだろう。それしかできないだろう。
仕方なかった、と、言うだろう。
きっとみんなそういう経験をへて成長してきた。レイ親父も、サグルマ兄貴も。
そうやっていつか自分を許し、また笑えるようになるのか。
あの時。あの時間。彼女は、想像を絶する苦痛の中で、死んでいったのに。きっと最後まで、自分を助けるために、何もかもをじっとこらえて、死んでいったのに。
「できると思うか……?」
鈍い声で左腕にたずねる。
「そんなふうに、生きられると思うか?」
猛スピードでモーターを回転させ、ルーキを屋根へと引き上げているグラップルクローに。RTAの相棒に。一度も自分を裏切ったことのない戦友に。
「おまえもそう思うだろ?」
返事などあるはずもない。
しかし、グラップルクローの先端――愛嬌のある怪獣に少し似た咬合部は、まるで一つの意志を示すように。
噛みついていた建物の一部を食いちぎった。
「“できるわけねえ”って!!」
支点を失ったことで、ルーキの体が自由になる。
すぐさま空中で身を反転させ、逆方向へとワイヤーを飛ばした。
さっきよりも数段速く、迷いのない先端が下方の建物の屋根へと食いつき、ルーキを地上へ引きずり込む。
視界が赤く明滅する。回しすぎた頭が、あらゆる優先順位を押しやって、一人の少女の命を求めていた。
「うおおおおおお!!」
グラップルワイヤーの射出と解除を滅茶苦茶に繰り返し、体をあちこちにぶつけながら、街の中心へとぶっ飛んでいく。
「見つけた!」
委員長がいた。
まだ無事だ。妖魔に追いつかれてもいない。
ワイヤーを限界まで伸ばして、彼女を地上から、かっさらった。
リズは腕の中で激しく暴れたが、すぐに相手がルーキだと気づき、
「な……!? ルーキ君!? あ、あなたが釣られてどうするんですか、この変態!」
怒鳴りつけてくる。
ルーキも無我夢中で叫び返した。
「うるせえええっっ! 委員長がいない世界で、俺が生きていけるわけないだろがあああああ!!」
「…………ッッ!」
考えなどない。ただ脳神経よりもはるかに強固に手足を突き動かす深奥からの言葉を吐き散らかす。
「俺はガバ勢だから! 難しいことはわかんねえ! 二人で生き残るか! 二人で死ぬまで生きるか! 今はそれくらいしか選べないんだよッ!」
「…………。まっ……たくッ……あなたという人はっ……」
顔を歪めたリズは、しかし声も表情も、どこか笑っているように思えた。
怒鳴り散らしたことで、心を覆っていた靄が晴れる。
これは間違った選択だ。おまけにマヌケな選択だ。助かれたかもしれない細い糸を引き千切り、泥沼に頭を突き込んだ。しかしこれでいい。ここで委員長を犠牲にして生き延びたところで、抜け殻みたいな人間が一つ生まれるだけだ。
これまでたくさん失ってきたから、もう何も失わない。人も、自分も。
「逃げられると思うな、ニンゲン」
その満ち足りた気持ちに、暗闇が追いついてきた。
グラップルクローの高速移動に、妖魔の一匹が割り込む。
とてつもないスピード。人間を超越している。蹴り飛ばされ、ルーキはリズもろとも地面へと叩き落された。
街の中心部に近づいたせいだろう。妖魔があちこちの建物から路上に飛び出してきていた。
ルーキは傷ついたリズを抱きかかえ、低空をグラップルクローで逃げる。
方向さえ定かではない。目の前の敵から逃げるだけのただの悪あがき。
二人での逃避行は、わずかの間だった。
ルーキたちは完全に追い詰められた。
袋小路。土地勘のないことに加え、ここまで誘導されたことは明らかだった。
周りを取り囲む塀や建物の上には、妖魔たちがずらりと並んでいる。
「ぜえ、ぜえ……。鬼ごっこは、終わりみたいだな」
ルーキが虚勢を張ってつぶやくと、リズも大鎌を一振りして構え、
「ええ、ここからが本番です。二人揃って死に絶えるまで……存分に暴れましょう」
彼女のさっぱりとした一瞥に、笑みで答える。
思ったよりも絶望していない自分に、ルーキは救われたような気持ちになった。
少なくとも、さっき一人で逃げようとした時よりはずっと爽快だ。
レイ親父に黒鞘を返せないことだけは少し申し訳ないが。
妖魔たちが、この一刻を楽しむように、じわりと前に出た。
ルーキたちは二人並んで身構える。
激突まで、あと、呼吸一つ。
そのタイミングで、場違いな声が広がった。
「うふふふふふ……。そこまででいいでしょう、みなさん」
穏やかな男の声だった。
ルーキたちの脱出路を塞ぐ妖魔たちが、一斉に左右に割れる。
作られた道を渡ってきたのは、赤いシャツに白いズボンをはいた、これといって目立つところのないモブ風の男だった。
髪は後ろになでつけ、目にはサングラス。蛇のように腕に巻きついた鎖だけが、乏しい個性をどうにか底上げしている。
特段、まわりの妖魔たちと変わるところはないように思えるが、いつの間にか、彼らの粗野な目にはこの男に対する一種の敬意や憧憬が浮いていた。
男は、ルーキたちのすぐ目の前までやって来た。こちらは臨戦態勢だというのに、男の態度は自然体そのもの。腕の鎖は武器なのだろうが、構える気配さえない。
「そんなに怖がらなくともいいのですよ。あなたたちの命を取ろうなどと、少しも考えていないのですから」
「……なんだと?」
まったく信じる気にならず、しかし推察すらできない相手の思考に気圧されるのを感じながら、ルーキはサングラスの黒い光をにらみつけた。
「わたしはクサリ」
『……!!!!』
ルーキもリズも揃って身じろぎした。
これが、クサリ。
その驚愕はすぐに別の心情へと移る。
――こんなヤツが?
当惑した目を、リズと向け合う。
初めて相対するクサリという怪物は、拍子抜けするほど普通だった。
周囲の妖魔たちの中に紛れ込めば、本当に鎖のあるなし以外の見分け方が存在しないほど、まったくオーラがない。
ルーキとリズは再び目配せする。
ひとまず話を聞こう、などという悠長な確認ではない。
――こいつだけは、狩る。
たとえここで命が尽きようと、走者の天敵クサリを仕留められれば、この世界のすべての走者にとって糧となる。それは、悪い結末ではない。
「おっと、その眼はいけませんね。もう争いはやめようと言うのに、和平の使者を攻撃するようなことがあってはいけません。そうですね……では、そんなことをしても無駄だと、見せつけておきましょうか」
クサリが言った、直後だった。
彼が内側から、弾けた。
そう見えたのは恐らく、ルーキの目の錯覚。
正しくは、クサリから噴き出した紫紺の瘴気が、彼の体を完全に包み込んだのだ。
その瘴気には形があった。前脚が、後ろ足があった。頭部があり、目があり、牙が生えていた。
膨れ上がった図体に押し出された妖魔たちが、塀を乗り越えて外へとこぼれていく。
道を一つ完全に塞ぐほどの巨体。虎とも狼ともつかない獰猛な魔獣がそこにいた。
獣を形作る瘴気は炎のように激しく吹き荒れながら、時折、絶叫する人の顔をいくつも作り出しては崩していった。その奥に、先ほどと変わらず自然体で佇むクサリの姿が、途切れ途切れに目視できる。
「ふふ……。これがわたしの本来の力ですよ。どうですか。まだ挑む気になりますか?」
ただ巨大な怪物であったのなら、ルーキも戦意が萎えたりはしなかった。
最後の瞬間まで、戦う勇気と、考える頭を持ち続けられたはずだった。
しかしこいつは、違う。
この紫紺の瘴気の正体は、悪意だった。
こいつが放つ悪意ではない。
こいつに向けられた人々の悪意だ。
クサリは、自分に向けられた無尽蔵の悪意や憎悪を食って肥え太ったのだ。近くに立っているだけで火であぶられたように肌が痛む中、ルーキはそれを瞬時に悟った。
これまでも、そして今この瞬間でさえ、こいつは強くなり続けている。
こいつが走者の――ひいては人類の敵である限り、膨張し続けるのだ。
こんな相手を倒せるわけがない。否、そもそも戦えるわけがない。
ルーキは知らずよろめき、後ずさった。
背後にいた誰かとぶつかる。
違う。支えられた。委員長が後ろから、ルーキのシャツを握りしめていた。
指先が、今にも滑り落ちそうだったショートソードの柄を掴み直す。
「ようやくお話ができそうですね」
そのクサリの言葉に合わせて、魔獣の形を成した瘴気が、すべて彼の体内に戻っていった。
隙を見せたわけではない。この特徴のないクサリの体内で、紫紺に燃える巨大な瞳が、いつでもこちらを見ていることがはっきりとわかる。
「あなた方は走者ですよね」
まるで村人Aから発されたようなクサリの素朴な問いかけに、ルーキは渋々うなずいた。
「よかった! そうじゃなかったらどうしようかと思いました。わたし、こう見えて平和主義者なんです。いつも走者の方と敵対することに心を痛めていたんですよ。わかってもらえますか?」
「わかるわけないでしょう……」
答えたのはリズだった。余裕を一切失った、追い詰められた声だったが、ルーキが震え声で返すよりは百倍マシだっただろう。
「それは残念」と、クサリはさして気にしていない様子で微笑んだ。
「ですがね……痛いのは本当なんですよ。さっきの悪意を見たでしょう? もうお腹いっぱいで。もちろん、内側から破裂して死にそうだなんてマヌケなことはないですけれど、ちょっとだけ、外に出したいな……と思ったりもするんです」
「なら、さっさとさっきの姿に戻ったらどうですか。こちらはいつでもいいんですよ」
強がりだと見破られてしまう声音でも、リズは挑むように言った。クサリは心外そうに両手をぱっと広げ、
「おっと、ごめんなさい。また誤解させてしまいましたね。最初から言っているでしょう。あなたたちの命を取るつもりはないと。もちろん、これ以上の暴力も振るいませんよ。約束します」
「一体、何を企んでいるんですか」
無意味なやりとりに焦れたようにリズが聞く。
クサリはにっこりと――口の端が耳に到達するくらいににっこりと、笑って、それを、告げた。
「あなたたちに、クサリになってもらいます」
「え……?」
彼女の声が、初めて恐怖にかすれた。
「この溢れ出る力の一部を注ぎ込んで、わたしの仲間になってもらうんです。いいでしょう? もうこの街の誰もあなたたちに危害も加えないし、命も取らない。それどころか、与えてあげるんです。かつてない命も、力も。これ以上にハッピーなこと、ありますか?」
ルーキは言葉を失った。
クサリになる。
そのおぞましい理屈や方法については何も見えなかったが、一つだけわかる。
それは、全走者の敵になるということだ。
これまで共に走った仲間を、これから出会うはずの仲間を、ありとあらゆるRTAにおいて、裏切るということだ。
全人類の天敵。『絶対絶滅推奨種』になる。
レイ親父や、サクラたちの敵になる。
そんなことが……。
「い、いや……」
震える息遣いがルーキの耳に触れた。
初めて聞くようなリズの怯えた声が、ルーキの背中にじわりと染み込む。
彼女は勇者の家系だ。それが害悪の精髄に成り果てるというのだから、恐怖と嫌悪の度合いは凡人には計り知れない。
「怖がることはないのです。すぐに気持ちよくなりますよ。お友達はいますか? 恩師は? 後輩は? 是非、彼らを狙ってください。殺してください。一番官能的ですよ。彼らの怒りが、恐怖が、無念が、そして憎しみが体に染み込んでくるのは……うふふふふ……あははははははッ!」
クサリがゆっくりと歩み寄ってくる。
「いや……助けて……。ルーキ君……神様……」
震えるリズが必死に背中にしがみついてくる。
今にも消え入りそうな彼女の体温が、停止寸前のルーキの思考を鈍く回していた。
もはや、戦うすべはない。
手足は強張って動かない。
リズを抱えて逃げる力もない。
相手は圧倒的。
後は、もう、本当に神様に祈るくらいしかない。
だが。
本当にそうか?
本当にどんな手段も残されていないか?
何か一つでもあるのなら、今こそそれを実行しなければならない。
他でもない、自分自身の手で。
なぜなら、ガバ勢に祈る神などいない。
ガバ勢に、身を委ねるべき幸運など、あの門をくぐった瞬間から存在しない。
ガバ勢は、すべてを、自らの手で勝ち取らなければならない!
突然鮮明になった記憶が逆回転を始める。
この街に来た時に最初に起こったこと。
超スピードで走ってくる金髪の大男。きっとあれも妖魔だった。
すれ違った後で見つかった彼はどうなっていたか。
やられていた。
それはつまり、彼と敵対し、制圧できる何者かが、この街に潜んでいるということ。
その何者かに助けを求められれば、生き残れるかもしれない。
しかしどうすれば、今の窮状を伝えられる。
これだけの大騒ぎがあっても気づかないのなら、助けてと叫んで来てくれる相手でないのは自明の理。
そもそも、その何者かは、どうやってあの大男に迫った。
広い街だ。どうやって見つけられた。
最初から追っていたから?
ならば手詰まり。
しかし、そうでなければ?
居場所を知るような、何かがあったとしたら?
何か、なかったか。
あの巨漢が現れる直前。
何か――。
あっただろ……!
瞬間、ルーキは全身を震わせて叫んでいた。
「イッチバーン!!!」
みなさま、シリアスシーンおつかれさまでした。ここからはいつものになります。
シリアスさん「えっ」




