第四十走 ガバ勢と“クサリ”
「ク、クサリだと!? マジなのか委員長!」
「冗談でその名前は出せませんよルーキ君……」
いつもは清涼なリズの声が、どんよりと濁っていた。
クサリ。
それは走者にとって特別忌避すべき存在だった。RTA警察が発行する敵性生物ガイドでは「絶対絶滅推奨種」というとんでもないカテゴリーに属し、その名前を口にすることさえはばかられる真性の害悪。
走者が嫌いなものランキングの二位は犬だが、一位は常に空位という異常事態になっている。誰も何も書かない。開催者も記さない。なぜならそこには、クサリが存在しているからだ。
クサリは全にしてゼロ。その存在は空気のように走者の世界に蔓延し、ありとあらゆる場所で快走を阻む好事の魔としての概念にまで昇華された。
ベストタイム更新ペースで進んでいた走者が、ワンミスからタイム、果ては命まで落とすことになった時、慣習的に「クサリにやられた」と言うことが、その浸透ぶりを物語っている。
それほどの嫌悪、そして恐怖。
そんな天敵がいる街。そんな天敵を生んだ街。
ルーキは半固形化した唾液をなんとか飲み下した。万が一クサリに遭遇したら、新人走者二人――しかも一人は負傷者――ではひとたまりもない。どうする。どう動けばいい。
突然、建物の陰から轟音が響いた。
さっきの金髪大男が走り去った先だ。
「い、委員長……」
「行って、みましょう……」
判断を委ねる視線を投げたルーキに、委員長の緊張した声が返ってくる。
自分の腕にくっきりと浮き上がった鳥肌が執拗な警告を発していたが、それを乗り越えていかなければ生き残れない理由も頭では理解できていた。
いくらここが危険な開拓地とはいえ、今はまだ襲撃を受けていないはずだ。だったら普通に開拓民がいるはずで、彼らを探してルタまでの帰り道を教わらなければならない。
そのためにも、この街で起きたことはしっかり見ておく必要がある。
窮地を生き延びられるのは、危険に対して無防備な背中を晒したまま逃げる者ではない。危険の正体を見定めて、冷静に逃げ道を探した者だ。
現場にたどり着く。
「これは……」
ルーキとリズは揃って立ちすくんだ。
そこはゴミ捨て場のようだった。
つるりとした半透明の袋の山に埋もれるようにして、一人の男が倒れていた。
さっきの大男だ。
オイルを塗ったようにテカる全身は、集団リンチでも受けたかのように青あざだらけで、特に頭部、顔面に対する執拗な攻撃の形跡が見られた。
しかし大勢がここにいたような気配はない。
やったのは恐らく一人。
これほど屈強な体を持つ男を、この短時間で、一方的に叩き潰すほどの相手。
まさか、クサリか。
男の生死は不明。ルーキが恐る恐る調べようとしたが、リズがそれを止めた。
「この人物は、先ほどわたしたちに攻撃の意志を見せていました。かなり危険な敵の気配がします。これ以上近づくのは危険です。もう離れましょう……」
「ああ、わかった」
ルーキはリズに従ってその場を離れた。
少なくともあの巨漢を瞬殺するほどの手練れがいることを心に刻み、周囲に警戒の視線を飛ばしながら、街の奥へと進んでいく。
唐突に置かれたドラム缶の脇をすり抜け、白地に赤い水玉模様の服を着せられたカラクリ人形が、腹の下に提げたドラムをひたすら叩く前を無言で横切る。
不気味だ。一体何のつもりで置かれたものなのか。
さらに、道端に何の脈絡もなく、棒やナイフが転がっていた。
これに比べたら、ルタの街のスラムは王宮の廊下並みの治安の良さだろう。
開拓民の姿もなければまずさっきの金髪マッチョ以外生き物を見ない道をさらに進むと、十字路の左手方向にアーケードが伸びていた。
立て看板や提灯がずらりと並び、どうやら飲食店を中心とした繁華街であるらしい。
しかし、やはり無人――。
不意に、カコン、と金属が鳴った。
「……!?」
ルーキとリズは即座に身構えた。
音は近くから聞こえた。が、通りはものがごちゃごちゃと置かれており、即座に出所を見つけることは困難。
二人が必死に周囲を見回す中、すぐ近くにあるマンホールの蓋が震えだした。
ルーキたちが唖然として注視する中、一人の男が蓋を押しのけて地上へと上がってくる。
目にバイザーをつけた、大柄の男だった。
見た限りでは人間のようだ。バイザーのせいで眼の動きはわからないが、身構えるルーキたちを見ても表情をほぼ変えなかった点だけははっきりしている。
下水の清掃をしていた作業員……のようには見えない。
白いランニングにデニム地のズボンは共に薄汚れていたが、それは仕事の際についた働き者の油染みではなく、荒んだ生活の中でこびりついた黒ずみのようだった。
右手には大きな瓶。まるで人を殴りつけるためのように、逆さに握られている。
男の唇の端が歪んだ。
やけに白い歯に、尖ったものが見えた。
「ルーキ君、こいつは人間ではありません!“妖魔”です――」
叫んだ直後、リズが真横に吹っ飛んだ。
振り返ったルーキが見たのは、すぐ近くにあった店の窓が開き、そこから拳が突き出ている様子だった。
店内の何者かによって委員長は殴り飛ばされたのだ。
ルーキが慌てて彼女に目をやる。ぎりぎりのところでガードできていたのか、吹っ飛ばされた先でうまく受け身を取り、防御したらしき腕をさすっていた。
「へへ……よく防いだな」
「何だ何だ、ニンゲンが来たのか? 暇つぶしくらいにはなりそうか?」
「オレも仲間に入れてくれよー」
あちこちから湧き上がった声に、ルーキは身を硬くした。
さっきまで人っ子一人いなかった通りに、複数の男たちが姿を現していた。
いずれも大柄で筋肉質。外見と行動様式は人間によく似ているが、生物としての作りははるかに戦闘的で凶暴。それが、リズがさっき言った“妖魔”というモンスター。
「ヒャハーッ! どこ見てんだよ!」
「ぐあっ!?」
背中に重い衝撃を受けて、ルーキは前方に突き飛ばされた。
よろけながらも何とか踏ん張り、振り返ってみると妖魔の一匹がこちらを蹴り出した姿のまま立っていた。
いつの間にか背後を取られていた。
油断したか? ルーキは意識も含めて身構え直す。
いかに妖魔とはいえ、ここにいる連中は見た目からしても明らかに雑魚だ。委員長と二人でなら、切り抜けられないはずが――。
「今度はこっちだぜ!」
逆方向からの衝撃に押し出され、ルーキは元の位置に戻された。
愕然として視線を半周させれば、さっきまではまだ距離があったはずの妖魔の一匹が、やはりこちらの背後を取っていた。
「こ、こいつら……!?」
今度は油断じゃない。
周囲の気配を神経全開で探っていた。なのに、いともたやすくそれをすり抜けてきた。
モヒカン、雑な服装にサングラス。名前もせいぜいヤスとかヨシオ程度であろう一般チンピラのはずなのに、空気を揺らさずスッと距離を詰めてくる動きは達人のそれに匹敵する。
「ルーキ君!」
「おおっと! 行かせねえよ!」
救援に向かおうとしたリズの前を、獰猛なうなりを上げる二輪の機械が横切った。
「不運と踊れー!」
妖魔の乗り物だった。二台の機械があざ笑うようにリズの周囲を回りだし、動きを牽制する。
リズは大鎌を一閃させるが、妖魔たちは鈍重なシルエットの機械を巧みに操り、常に間合いの外をキープし続ける。
二人は完全に切り離されていた。
「く……!」
それでもルーキは果敢に踏み込んだ。多勢に無勢。こういう時、守りに入っては押し潰されるだけだ。
油断しきったように直立の相手に、渾身の踏み込み。ショートソードを閃かせる。
しかし、呆気ない一歩の後退で妖魔はそれを難なくかわしてみせた。
「な……!?」
慌てて追いかけ斬撃を繰り出すが、あろうことか、妖魔はその一撃の隙間を掻い潜って殴りつけてきた。
「ぐあっ!」
攻撃を途切れさせたつもりはなかった。こちらが扱うショートソードは短く軽量なため、隙のない攻撃ができる。それなのに割り込まれた。
直後、また背後からの痛打。
正面に見据えた一体だけでも厄介なのに、仲間からの攻撃が死角から平気で飛んでくる。
「こ、こいつら……!?」
ルーキの頭は激しい焦燥感に焼かれた。
一人一人の動きが恐ろしく洗練され、手馴れている。
見た目は本当に、どうしようもなく雑魚だというのに、なぜこんなに強いのか。
「うわっ!」
再び前後からのコンビネーションを受けて、ルーキは地面にひっくり返った。
慌てて起き上がるも、殺到した妖魔たちからすぐさまボコボコにされる。
「ホラホラホラホラ!」
「どうしたニンゲン! ぼーっとしてると天国行きだぜ!?」
「ウゥワァ!」
ルーキは悲鳴を上げてまた地面に倒れ込んだ。
恐るべき猛攻だった。敵を逃がさないすべを知っている。このままではなぶり殺しだ。
ルーキは倒れたままグラップルクローを近くの街灯へと噛みつかせ、その場から緊急退避した。
「おほっ、こざかしい真似するじゃねえか!」
「ヒヒヒッ。いいぞ、もっとオレらを楽しませろ!」
妖魔たちの蛮声を聞きながらルーキはどうにか立ち上がり、乱雑に鼻血を拭った。
頭がくらくらしている。体中が痛い。
まずい。まずい、まずい、想像以上にまずい。
こいつらはクサリでも何でもない。ただの妖魔だ。それなのにこれほどの強さ。一人や二人倒せたところで意味がないのは、あちこちの建物から、にやにやしながら高みの見物を決め込んでいる妖魔が多数いることからも歴然としている。
開拓民は果たしてこんなところに住めるのだろうか? 住めるわけがない。
確信する。
ここはとっくに襲撃されていたのだ。だが、周知されていなかった。場所も。状況も。
なぜ?
危険すぎるからだ。
一人前の走者……いや、レイ親父のような凄腕でもないと、ここに挑むことはできない。未熟者が挑んでも命を落とすだけだから秘密にされていた。
だからこそ、彼がここの地図を持っていたのか。いや、そんなことを今考えても遅い。
この窮地を脱する方法、生き延びる方法を、探さなければならなかった。
何かが横からルーキにぶつかってきた。
また死角からの攻撃かと、青い顔を向けてみれば、それは白装束を薄汚れさせたリズだった。吹っ飛ばされてきたらしい。
「い、委員長……だ、大丈夫か!?」
「ええ……今のところは……」
リズが妖魔をにらみつける。
あの二輪のバケモノマシンは、一台が煙りを噴いて建物にめり込んでいた。リズが倒したものらしい。しかし、その総数は四台に増えている。いつの間にか援軍が加わっていた。
「ぐっ……ごほっ、ごほっ」
リズが乾いたせきをした。
ルーキはぎょっとした。リズがおさえるわき腹から、血がにじんでいる。
「どうやら……本当にいいのをもらっていたようです……。うまく意識を集中できなくて、魔法も使えそうにありません。このままでは二人とも危険です。――そこで、です」
冷静かつ冷徹に窮地を告げられルーキはたじろいだが、リズの目はまだ死んでいない。何か策がある。彼女となら、この危機を突破できる。そう期待したルーキは、続く彼女の台詞で冷水を浴びせられることになる。
「二手に分かれます。わたしは街の奥へ。ルーキ君は出口へ逃げてください」
一瞬、何を言われているかわからなかった。
理解はすぐに来た。
「……それって、委員長が囮になるってことか!?」
「シッ、声が大きいです。このままじゃ二人とも死にます。それよりは、一人が生き残る方が断然いい」
死ぬ。二人とも。
隠さず伝えられた分析の重苦しさにルーキは口をぱくぱくさせ、言葉の意味を半分も認識できないまま反論を口にしていた。
「だ、だったら俺が囮になる。グラップルクローがあるんだ。相当引っ掻き回せるはずだ。その隙に委員長が逃げろ」
彼女は首を横に振った。
「残念ですが、今のわたしではあの二輪の機械から逃げられません。もし逃げ切れるとしたら、それはグラップルクローを持っているあなたの方。この予想は間違っていない」
「だ、だけど……」
否定する言葉がのどに絡まる。
じわじわと頭の中を支配してくる認識。
――だけど、それは委員長が死ぬってことだろ?
囮役は助からない。ここは敵の腹の中。逃げるルーキだって助かる見込みは少ないのだから、彼女が助かる道理はない。その事実が、体を芯から凍らせていく。
消える。目の前の小柄な少女が、自分の人生から完全に消えうせる。
こんなところで。こんなあっけなく。こんな唐突に。
「大丈夫。こんな見た目ですけど、わたしも一応、女ですからね。少なくとも変態くらいなら引っかけられるでしょう」
リズは自嘲気味に、寂しそうに笑った。
そして彼女は、絶句するルーキの言葉を待つことなく、
「あなたは生きてください」
ルーキの腕を掴み上げると、グラップルクローの射出ボタンを押した。
再開直後にシリアスをぶっこむことをお許しください!
何も知らない人間がBFをやるとこうなる。




