第三十八走 ガバ勢と走者であること
キャベッジの村に常備されていた薬により、ルーキは一命をとりとめた。
ルート2・40・58で日常的に禁止物質と接触する可能性がある住人たちからすれば、その副作用を和らげる手段を用意しておくのはごく普通のことだった。新人走者の命の恩人になったという態度すら示さず、彼らは試走中のレイ一門を迎えてくれた。
もっとも、生きているからこそ、数日後に確実にやってくる地獄は覚悟しておかなければいけないということだが。
治療と休養を兼ねて、その日は村に滞在することになった。
その日の晩――。
まだ114514倍の戦闘力のルーキは、肉体自体は健康そのものなので、一人、一門にあてがわれた宿の外で星空を鑑賞していた。
鮮烈に輝く星々の上に、薄緑の靄がかかって見えている。
この土地特有の“グリーンカーテン”と呼ばれる現象で、この村の村長も「綺麗ですよ」と一見を勧めてくれていた。
確かに、幻想的で、空想的で、そして少し不気味だ。
「グリーンカーテンを二秒間隔で三回見つめると顔色が緑になるぞ」
後ろからかけられた声に振り向くと、そこにはフルメルトが立っていた。
彼はルーキの横に並び、同じように星空を見上げる。
「また怪現象ですか? いいんですかフルメルト兄貴。試走に関係なく、〈イノセンス〉はそういうのを禁止してるんでしょう?」
心配してルーキがたずねると、
「問題ない。一回、十六秒以上五分未満のあいだ見つめて目を離せば、さっき言った怪現象の発生を未然に防いでくれる」
静かだがきっぱりとした口調に、ルーキは、おやと思った。
日中のレイ親父の話では、フルメルトは前のRTAの失敗によって怪現象に強い恐れを抱くようになり、満足に動けなくなったとのことだった。
しかし今、彼はその怪現象の際にあえて立ち、平然としている。これはつまり――。
フルメルトが口を開いた。
「なあムッキー」
「……ルーキ、です……」
「昼間、自分の危険を顧みずあの少女を助けたな。こんな聞き方は間が抜けているだろうが、なぜだ?」
ルーキはフルメルトから夜空に視線を戻し、すぐに答えた。
「サクラが大切な仲間だからです。あの時は、それ以外のことを考えられませんでした」
「そうか。……そうだよな」
同意するような、あるいはどこか嬉しそうなフルメルトのつぶやきが、夜風に溶けた。
今度はルーキから言う。
「フルメルト兄貴は、どうして〈イノセンス〉に?」
問いかけに、フルメルトの周囲で空気が揺らぐ。それは決して気まずいものではなく、苦笑にも似た微動だった。
「元々は、人間の強さを証明したかった」
彼の声は重苦しさから解放され、軽やかでさえある。
「どんな過酷な土地でも人は生きていける。人間の命にはそんなすごさがある――苦しい生活を続ける開拓民を勇気づけるつもりで、人力のみのRTAをやろうとしたのが始まりだ」
ルーキは意外に思った。
〈イノセンス〉なんて偏屈な生き方、誰かや何かのためというより、〇〇が大嫌いだから、というネガティブな理由だろうと勝手に決めつけていた。
が、それがそう的外れな考えでないことを、続くフルメルトの声が示す。
「だがいつしか、私は単純に怪現象を忌み嫌うようになってしまった。開拓民のためではなく、〈イノセンス〉である自分の立場を守るために、人力に固執するようになってしまったんだ」
星明かりに頼る必要もなく、フルメルトが自嘲の笑みを浮かべているのが伝わった。
「私は〈イノセンス〉である以前に、RTA走者だ。レギュレーションを守れるかどうかより、救いたい誰かを救えたかどうかこそが大切なんだ。今日、君からそれを教わった」
「サクラからもレイ親父たちからもクッソ説教されたんですがそれは……」
フルメルトの笑い声が微風に乗った。
「それは仕方がない。無茶をした君のせいだ。若者には、たとえ他に手段がなかったとしても、怒られなければいけない時がある。そういう時は、後悔はしなくていいから、反省だけすることだ。いや、今回に限って言えば、反省ではなく手加減を覚えることかな」
(手加減って何だぁ……?)
とルーキは思ったが、口にはしないでおいた。
「明日、街に帰ろう。私はもう大丈夫だ。レイ親父にも話しておく。ありがとうルーキ。君のおかげで、初心に立ち戻れた。君のRTAに幸あれ」
そう爽やかに言い置くと、フルメルトは踵を返して宿へと戻った。
一瞬見えた彼の顔は、有り金を溶かした忘我の表情ではなく、真っ直ぐ前を見据える男のそれになっていた。
ルーキは再びグリーンカーテンを見上げる。
空を覆っていた緑の靄はいつの間にか取り払われ、鮮明な輪郭を持った光が、黒い空でまたたいていた。
翌日、ルーキは顔が緑色になったが、一時間で治った。
※
ルーキたちはこれまでの経路をたどって駅に戻り、列車に乗り込んだ。
フルメルトは完全復活。今回の試走の目的は果たされた。
「これからも〈イノセンス〉は続けるよ。ただし、一番大事なことは何かを忘れずに」
彼はルーキにそう話してくれた。
これで、ルート2・40・58試走は無事終了だ。
「……と思っていたのかぁ?」
それは、走者の一人が別の車両から持ってきた新聞の記事。
日付は五日前。ルーキたちがルタの街を出て列車に乗り込んでいた頃だ。
記事にはこうあった。
――ルート2・40・58にてスコア更新!〈イノセンス〉の走者ギガン、ライバルのフルメルトが持つ幻の記録も上回り、二度目の無慈悲達成。フルメルトはダメみたいですね……。
「あっ……」
一門は恐る恐る彼の様子をうかがった。
自分が立ち止まっているうちに、ライバルはさらなる高みへ。どんなに清らかな心を持っていようと、走者である以上、そのスコアを無視することはできない。
そこには、有り金を溶かした顔の走者が、背中を丸めて壁を見つめていた。
「フ、フルメルトォォォォ!」
ちなみに今回は、二十四時間で勝手に復活した。
※
「いてええええええええ!? あががが声出すのもいてええええええええ!?」
ルーキはベッドの上で悶えていた。
パワー114514倍の反動に襲われ、体は元に戻ったものの、全身あますところなく筋肉痛。痛みに悲鳴を上げれば、その微振動によってダメージが加速する無間地獄に陥っていた。
「わかってますから、静かにしてください」
そんなルーキのすぐ横、ベッド脇に細い腰を乗せているのは、メイド服の少女――ユメミクサだ。
彼女は手にした木皿からスプーンでシチューをすくい、ルーキに差し出す。
「はい。あーんしてください」
ルーキはそれをじっと見つめていたが、
「……なあ、看病してくれるのはクッソありがたいんだけど、何でユメミクサなんだ?」
症状が現れたのは今朝。ルーキが声にならない悲鳴を上げて、部屋中を掃除用のコロコロのようにのたうち回っていると、どこからともなく彼女が現れ、看病し始めてくれたのだ。
ユメミクサは顔のパーツのうち、まぶただけをパチパチとしばたたかせ、
「それは、お嬢様と二人でシてほしかったということですか? 細かい症状を知らないお嬢様がここに来たら、ルーキは全身バッキバキにされると思いますが」
「ヒッ……。い、いや、そうじゃなくて、一人ならなおさら変装しなくていいだろ。サクラのままで……」
すると彼女はわずかに視線をそらし、
「ルーキがわたしのように大人しくて従順な者に看病してほしそうだと、風が語りかけてきましたので。……お嫌ですか? もしそうなら帰ります」
「嫌じゃないけどさ。……ひょっとして、照れてるのか?」
「…………」
事務的な無表情に初めて亀裂が走る。白い頬に微妙な紅。
「なぜ……わたしが照れる必要があるのですか」
「いや、ほら。この前俺が助けた時に、礼を言いそびれたからとか、そんなどうでもいい理由で」
「…………」
「気にすることないのに。俺だってサクラによく助けられて――んが!?」
台詞の途中で、ユメミクサが口にスプーンを突っ込んできた。
幸い、ほどよく冷めていたので火傷はしない。ユメミクサが作ってくれたシチューも塩味がきいていて非常にうまあじ。薬草の類でも入っているのか、回復効果が五臓六腑に染み渡る。
しかし、
「ぶわあ!? 咀嚼するだけでもアゴの筋肉がいてえ!? キャ、キャロットがあ! ニンジンがあ! やられちまう!」
「うるさいですね……」
ユメミクサは小さくつぶやくと、ずいと顔を近づけてきた。
「咀嚼もできないようなら、わたしが口移しで食べさせますが。それがお望みですか?」
全体的に薄紅の増した少女の顔色に気づくこともなく、すでに鼻先が触れそうな美しい顔との距離感に気圧され、ルーキは慌てて首を横に振った。
首の筋肉が悲鳴を上げたが、この時ばかりは気にかける余裕もなかった。
「では静かに食べてください。はい、あーん」
何事もなかったかのように体を引き、再びスプーンを差し出してくるユメミクサ。
ルーキは胸が高鳴るたびに痛む心筋に悩まされつつも、何とか二口目を含む。
「うまあじ……」
それを聞いて、彼女は少し微笑んだ。
「時代はうまぶりです」
「ブリはアジ科の魚だな……」
そうしてルーキが完治するまでの二日間。誰一人訪ねてこない寂しい部屋で、ユメミクサはつきっきりで看病してくれたのだった。
ブロリーとFX顔が並んで夜空を見上げている絵面を想像してはいけない(戒め)




