第二十九走 ガバ勢と無垢なる不正走者
店の外は人で溢れていた。
午前の中頃、街が眠気を完全に振り払い、本格的に動き出す時間帯。走者に混じり、一般人たちも道を忙しなく行き来している。
「逃がした。どこだ!?」
「あっち……いえ、こっちが怪しいですわ!」
とにかく駆けだそうとした二人を、背後からの声が諫める。
「お二人とも落ち着いて……。聞き込みをしましょう。急いで追うよりも、そちらの方が着実に犯人に近づけます……」
黒髪の日陰メイド少女ユメミクサの忠告により、ルーキたちは行動を一本化できた。
RTA心得一つ。急ガバ回れ。ガバを取り戻そうと、他の部分で急いではいけない。チャートはすでに切り詰められており、補うことなどできない。ロスはロスとして受け止め、体勢を立て直すことに全力を尽くせ。
人の多さも手伝って、目撃者はすぐに見つかった。通りで店を開いていた露天商だ。
彼の話によると、ガバ一門の門をくぐって駆け出てきた人物が、南の方へ向かったという。
まるで何かから逃げるように必死の形相で、通りの端に行き着くまでその足取りが緩むことはなかったらしい。まず間違いなく、店から逃げた走者だろう。
「それだけ慌てていれば、人目にもつきやすいでしょう。手がかりに困ることはなさそうですわ」
「まさか、本当にトールがあの店に紛れ込んでいたなんて……。そんなことがありうるのか?」
〈アリスが作ったブラウニー亭〉には毎日たくさんの走者が訪れる。
しかし、レイ一門全員が同時に顔を合わせるわけではない。レイ親父でさえ全員を把握してはいないだろう。その寄り合い所帯が、悪質な不正走者を紛れ込ませる隙を生んだのか。
その後も目撃情報を頼りに進み、やがてルーキたちは人気のない裏通りにたどり着いた。
エルカは、あたりに滞留する薄暗さと、すえた臭いに気後れしたようだが、下町生まれのルーキからすればまだまだここらの空気は上等と言えた。
ルタの街では犯罪が少ないので、行き場を失った厄介者が集うスラムはもっと奥まったところにあり、ここはせいぜい年寄りと貧乏人が慎ましく暮らす程度の古い路だ。
ルーキが道端のベンチに腰掛けていた老婆に、走ってきた人物についてたずねると、彼女の指先はアパート前の石段に腰掛ける一人の人物を示して止まった。
「……!」
藤色の長い髪をした男が、腕に顔を埋もれさせてうずくまっている。
その髪の色が、店を飛び出ていった際、一瞬目に残った色彩と重なり、ルーキは静かにエルカとユメミクサと目配せした。
代表してエルカが歩み寄り、声をかける。
「もし、そこの方。先ほど、〈アリスが作ったブラウニー亭〉から出ていった人ではありませんか?」
「うわあああああああああああ!!」
エルカが話しかけると、彼は顔を持ち上げて劇的な反応を示した。
「あっ!」
エルカをかばうように咄嗟に前に出たルーキは、見た。
彼の端正な顔は恐怖に歪み、そして両目はどちらも外側を向いた斜視になっていた。
「――FXで有り金溶かした顔!?」
「どうやらあなたが不正走者で間違いないようですわね! これは人生を再走させるしかありませんわあ!」
「違う! 違う! 私は不正なんかしてない! ああああああああああ!」
彼は頭を抱えて階段の上を転げ落ち、汚れた道の上で悶え続けた。
「この過剰な反応……まさか不正薬物の影響ではありませんこと!?」
「じゃあ、本当にこいつがトールってことでいいのか、エルカお嬢さん!?」
ルーキが用意してきた捕縛用のロープに手をかけようとすると、
「お待ちください」
緊迫した空気をすり抜けて、夜風のように静かな声がふっと耳元を流れた。
「ユメミクサ?」
主人から一歩離れた場所にいた彼女は、いつの間にか手に一冊の本を持っていた。
『走者名鑑』と書かれたそれへ、今一度確認するように目を落とした後、ユメミクサはのたうち回る走者を見つめて言った。
「その方はトール・ベルソではありません。れっきとしたレイ一門所属の走者です」
『えっ!?』
ルーキとエルカの声がハモる。
「違うんだあ、私は違うんだあああ……!」
今だに立ち上がれない彼を見やり、エルカはユメミクサに問いかける。
「けれど先ほどからのこの反応は、彼の薬物依存と不正に心当たりがあることを示しているのではなくて?」
「この方は確かに、不正走者として一度法廷で裁かれたことがあるようです。しかしそれは故意によるものではないと判断され、失格の上、スコア取り消しという形ですでに落着しています」
「……一体どんな不正をしたんだ?」
今度はルーキが聞く。
レイ一門の仲間が不正を犯した。故意によるものではないというが、度が過ぎたガバというわけでもないだろう。
レイ一門には共通点がある。
ガバとクズ運ではない。
レイ親父に対するリスペクトだ。
それがあるからこそ、みなあそこに集う。レイ一門の走者が、彼の顔に泥を塗るようなことをするとは思えなかった。彼は一体、何をした?
ユメミクサは再び名鑑に視線を向け、
「彼はレギュレーショナーです」
「レギュレーショナー?」
ルーキは首を傾げた。
「ルーキあなた、走者のくせにレギュレーショナーも知らないんですの? レギュレーショナーは、RTAを行う際、自らに特定の制限を設ける走者のことですわ。鍛錬などの意図を持って一時的な制限を加える方もいれば、思想や主義、宗教などによって、それを一生涯貫く方もいらっしゃいますわね」
「へえ……」
さすがに判事の娘なだけあって淀みなく述べてくる。ユメミクサが主人の言葉を引き継いでこう続けた。
「この方は、レギュレーショナーの中でも〈イノセンス〉と呼ばれる人々ですね。その土地特有の怪現象や怪法則を使うことなく、走者本来の力のみを頼りにRTAを行うことを信条としています」
「怪現象?」
「バグという俗称もあるそうです。虫にページを喰われた物語のように、辻褄の合わない怪奇現象が起こることから。有名なところでは〈悪夢城〉を走る悪夢狩りの一族がこぞってバグを利用し、異常な加速や壁抜けを行うと聞きますね……」
「あれか!」
やはり人間の技ではなかった。
「私の……私のベストスコアがぁ……。返して、返してくれええええ……」
〈イノセンス〉の走者は芋虫のように丸くなり、そればかりを繰り返していた。その様子を見ながら、ユメミクサはさらに言う。
「この方は、ルート2・40・58に挑戦した際に、後半の際どい所で怪現象を引き当ててしまったようですね。それで失格に……」
ルーキはふと疑問に思い、素朴な発言をした。
「でもそれって個人の信条なんだろ? 再走裁判所が口を出すようなことなのか?」
するとエルカは気難しい顔になり、
「ルート2・40・58――通称〈超ヤサイ諸島〉は、禁止薬物の原材料となる植物の大半が自生している伝説の土地として知られていますわ。また、それが原因で様々な怪現象が巻き起こる場所でもありますの。この方は、走者としての禁を犯しただけでなく、同時に自分の〈イノセンス〉としての生き方も傷つけてしまったのですね」
「それで、こんなにボロボロに……」
彼が油断したとは思えない。〈イノセンス〉としての総力を挙げて、その開拓地に挑んだのだろう。
そして敗北した。
ユメミクサは、彼にまつわる以下の悲劇を語った。
それは、同じ走者のルーキをして、心から同情を禁じ得ないものだった。
RTAを終えて街に帰りつくまで、彼は自分が無事に完走できたものと信じて疑わなかったらしい。
しかし、完走した感想の最中に違和感を覚えた同業者がおり、その人物の勧めで薬物検査を受けたところ、ポジティブの反応が出てしまったそうだ。
そのRTAで、彼はベストタイムを叩き出していた。
完走した感想を開いていた時、彼はまるで天国に昇ったようだったと、後に客は語った。
無理もない。〈イノセンス〉としての金字塔を打ち立てたと思っていたのだから。
天国から地獄へ。
不正RTAの誹りこそ免れたものの、彼が負った傷は浅くないものになった。それがトラウマになり、不正走者を声高に叫ぶエルカから耐えきれず、逃げ出したのだろう。
「この人は何も悪くない。俺たちにできることもない。もう行こう……」
ルーキたちは短い謝罪を伝えた後、失意の先輩走者が一日も早く立ち直れるよう祈りつつ、そっとその場を離れた。
※
「せっかくトール・ベルソを見つけたと思いましたのに! なんてまぎらわしい人。手がかりがなくなってしまいましたわ。こんなの再走ですわ再走! ねえルーキ、聞いてますの!?」
「そんなでかい声で叫ばれたら聞こえない方が無理だろ。そもそも、簡単に見つかるなら、RTA警察がとっくに見つけてる。気楽にやろうぜエルカお嬢さん」
「言ってることは納得できますが、あなたの態度が気に入りません。再走! もう一度言い直してくださいまし!」
「がんばるんだぜ~」
「がんばるんだぜ~じゃなくて、あなたも頑張るの!」
どんと叩いた拍子に、さっきテーブルに届けられたばかりのジュースの表面が揺れた。
ここはオープンカフェの一席。
疲れと苛立ちを募らせたエルカがカフェに入りたいと突然言い出したため、ルーキたちは彼女の言葉に従って小休止中だった。
あれからしばらくルタの街を歩いたものの、人々の様子は平素そのもの。住人たちに聞き込みをしても、言葉で騒乱を巻き起こすアジテーターが入り込んで火種を振りまいた痕跡すら見つからない。
ひょっとして、トールはルタには来ていないか、もしくは何らかの理由でとっくに立ち去ったのではないかとすら思えてくる。
しかし、そんな楽観的な可能性は眼中にないのか、エルカはまだまだこの捜索を続行するつもりらしかった。頑固というか、意外に根性があると思わせる反面、彼女が選んだこの店は、上流階級の娘が好きそうな、さっぱりとしてこじゃれた雰囲気の場所だ。
RTA警察は走者たちの横暴に対する取り締まりも行っており、再走裁判所はその親玉だ。街の治安を担っているのは街警察なのだが、走者ばかりが住むルタでは再走裁判所の方が出番が多く、住人からの信頼は厚い。
このカフェでも、リンゴジュースを届ける際にウエイトレスからにっこり笑顔を添えられていた。しかし、肝心のエルカ嬢の不満は変わらぬままだ。
その機嫌もよく冷えたジュースを飲めば多少は改善するだろうと高をくくっていたルーキだが、予想はすぐに崩れ去った。
「うんっ?」
ジュースを一口含んだ途端、エルカの眉間にしわが寄る。
「何ですの、このジュース。いつもと味が違いますわ」
「何だ? まずいのか?」
ルーキも飲んでみるが――ちなみにエルカがおごってくれた――、上品な甘みとさっぱりした酸味が非常に良好。
「うまあじじゃないか」
「まあ。うまあじ派はおばかさんですのね。時代はオーマイコンブみだというのに」
「オーマイコンブみは……な、何だそれ、聞いたこともないぞ……?」
「とにかく、まずいとは言ってませんわ。普段と味が違うと言っているのです。わたくしが飲みたかったのは、いつものリンゴジュースなのです! こんなの再走ですわ。再走! 店員に作り直させないと!」
息巻いて本当に席を立ち上がろうとするエルカに、ルーキはぼんやりと言った。
「なあ、そんなに何でもかんでも再走再走言わなくてよくないか?」
「何ですって?」
エルカがむっとした顔になる。が、すぐに冷静さを取り戻し、言い聞かせる口調で告げた。
「間違ったものの上に正しいものを積み上げようとしても、すべて間違ったものになってしまう。最後に正しい形にしたいと思うのならば、ガバった時点でやり直すべきなのですわ。早い段階なら傷も小さいでしょう。おわかりですか?」
「だけどさ、人は挑戦する時、ガバるもんなんだよ。つまずくたびに一からやり直してたら、何にもできなくなっちまう。ガバって、リカバーして、またガバって、またリカバーして、そうして少しずつでも前に進んで……。大事なのは、たとえ不格好でも、諦めずに最後までやり通すことじゃないか? そうして見えてくるものもあるって、俺は思うぜ」
「……それは……」
エルカが硬直したのを視界の端に置いたまま、ルーキはジュースをのどに流した。
「たまには違う味でもいいじゃないか。明日にはもう味わえないかもしれないんだ。そう考えると、別に再走なんかさせなくてもいいだろ?」
「……ッ! う、うまあじ派はおばかさんのはずなのにっ……」
悔しさなのか何なのかよくわからない言葉を口にして、エルカは両手をテーブルについた。すると、
「あの、何か不手際がありましたでしょうか……?」
トレイで胸を守るようにしながら、ウェイトレスが恐る恐る彼女に声をかけてきた。
「そのジュース、実はマスターでなくて、わたしが作ったもので……。いつも来ていただいているお嬢様に何かお礼がしたくて……。もし気に入らないのであれば、すぐに新しいものをご用意します」
「…………」
エルカは驚いたように目を見開き、それから気まずそうにルーキを見る。
「いいえ。何でもありませんわ。いつもと違う味ですけれど、これはこれで美味しいですわ。いつものと交互にくらいでなら、また作ってくれてよくってよ」
「あっ……。ありがとうございます!」
ウェイトレスは勢いよく頭を下げると、カンガルーが跳ねるようにして店内に戻っていった。
「ルーキ……わかってましたの?」
居心地の悪さを引きずった声で、エルカが椅子に座り直す。
「わかるわけないだろ。こんな店来るの初めてなんだから。でもまあ、ボロクソに言った後でなくてよかったな。さすがに気まずいだろ」
「そうですわね……」
エルカは渋々と言った顔でジュースを一口含んだ。
一番うるさいエルカが静かになり、話の接ぎ穂が見えなくなったことで、しばし弛緩した空気が流れる。
そんな中で、最初から何一つ変わらない一人の少女を、ルーキは見ていた。
「なあ、ユメミクサ」
呼びかける。
「はい? 何でしょうかルーキ様」
空のコップを見つめていたメイド少女が、わずかに上目遣いになりながら反応する。
「様なんかつけなくていいよ。呼び捨てでいい。それより、サクラって名前に聞き覚えないか」
「花のことですか?」
「いや、人の名前。何というか、ユメミクサがサクラに似てるような気がするんだ」
するとエルカが不満げに唇を尖らせ、
「まあルーキ。もしかしてうちの使用人を口説いてますの? 自分が何のためにここにいるのか、まだおわかりでないようですわね」
「そ、そうじゃなくて……」
焦るルーキをよそに、ユメミクサからの返事はあっさりとしていた。
「そういった名前の者は、わたしのまわりにはおりません。親戚や家族の中にも、知る限りではいないと思われます……」
「そ、そっか。ならいいんだ」
「その方と何か?」
「いや別に何もない。ただ今日は朝から出かけてて、見てないなってだけ」
言った後でルーキはすぐに後悔した。
よくよく見れば、ユメミクサとサクラは似ても似つかない。背丈も、体格も、目つきも、言葉遣いも。初めて見た時、どうして似ていると思ってしまったのか、これがわからない。
「これからどうしましょう」
また一つの話題が終わったところで、エルカが口を開いた。もう休憩は十分だという気配は伝わってくるが、指針が見つけられないのはルーキも同じだった。
「せめて、何か怪しいものでも見つかれば……」
「手配書まで作られるヤツが、そうそう人前で尻尾なんか出すかな。まだ様子見でもしてるんじゃないか?」
「それはそうですけれど」
そんなエルカの足元に野良猫が近づいてきた。人懐こいところを見ると、エルカ同様、このカフェの常連かもしれない。
エルカはそれをひと撫でし、
「人前で尻尾を出さないのなら、猫の前では出すかも……」
「エルカお嬢さん、疲れてるならもう一杯ジュース頼め」
ルーキは慎重に助言を与えたつもりだったが、エルカはユメミクサに向き直り、
「あなた確か、猫と会話できるのでしたわよね?」
「はい。できます」
「え!?」
ルーキがぎょっとするのを気にも留めず、ユメミクサはすぐさま身を屈めて猫と顔を突き合わせる。
「ニャッ! ニャッ、にゃっ、にゃっ、にゃっ、にゃっ、みゅん! ふみゅん、みゃあっ、アオオーッ」
「ふむ、ふむ……なるほど」
明らかに猫の発言頻度が変化している。まさか本当に話しているのか?
「な、何て言ってるんだ?」
「翻訳しますと、ヌッ! ウッ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ヌ゛ッ! ハァ、ハァ、ハァー……だそうです」
「野獣語じゃなくて人の言葉にしてくれないかな……」
「失礼しました。この道の先に、異様な目つきをした走者を一人見た、だそうです」
『何ィィィイイ!?』
エルカはジュースの残りを一気にあおると、どん、とコップをテーブルに置き、
「ルーキ、行きますわよ! 今度こそトールですわ!」
「お、おう! わかった!」
エルカを追ってルーキも駆け出す。
今度こそ当たりかもしれない。という気持ちより、何で猫としゃべれるんですかという大きな疑問を抱えて。
RTAだけでも苦行なのに自ら制限をかける変態




