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彼岸の傾城傾国  作者: 高嗣水清太
第1章 偽りの皇帝
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05.

「失礼します皇女殿下」


 扉の向こうから届いた声に、煌威(こうい)の身体が跳ねる。

 自分を呼ぶ名詞ではないことに落胆しつつ、しかし良く通る声だと場違いにも感嘆した。


 良く通る、甘い低音だ。

 ――昔の、鈴が鳴るような可愛らしい声が懐かしい。今や人を惑わす低音だ。

 煌威はなんとも、微妙な気分になる。


 軽く軋む音を立てて豪奢な扉から現れた紅焔(こうえん)は、腰まで伸びた深紅の髪を無造作に後ろで束ね、臙脂色(えんじいろ)の官服を着ていた。胸章は武官を表す四本足の獣である虎だ。

 眦のつり上がった黄金の双眸(そうぼう)はまさしく絵画で見る焔帝(えんてい)に生き写しで、雄々しく精悍(せいかん)な紅焔の姿に煌威は改めて思う。

 その胸章を、皇帝を表す龍にしてやりたい、と。



「殿下」


 煌威の姿を目に止めて、紅焔はすぐさま(ひざまず)いた。

 その様を苦く見る煌威の心情など知る由もない紅焔は、床に額をつける勢いで頭を下げる。

 それは、既に皇帝に対する礼だ。


「……やめてくれ、紅焔」


 自分が君主にと望んでいる紅焔自身に、己が皇帝となることを望まれている現実は、酷く煌威の胸を灼いた。

 ――どうしても、声が震える。


「……兄上?」

「殿下?」


 煌凛(こうりん)と紅焔の視線が、煌威に突き刺さった。不審ではないが、疑問の色を瞳に乗せてこちらを見ている。

 煌威の異変に疑問しか抱かないというのがまた、次期皇帝は貴方しかいない、と口よりも雄弁に二人が言っているようなもので胸が痛んだ。


「……っいや、すまない独り言だ。……行こうか」


 煌凛の視線だけならまだしも、紅焔からの次期皇帝に対する絶対の信頼というものを感じる視線はだいぶ堪えて、煌威は早々に(きびす)を返す。

 妹である煌凛に慰安、もしくは叱咤激励するつもりだった心中すら、紅焔の存在で消え失せていた。

 まあ、煌凛のあの心配無用という様子からして、叱咤も激励も慰安すら無用だったと実感したこともある。



「今度会うときは北戎(ほくじゅ)の皇后になっていることを約束します、兄上」


 部屋を出る寸前、はっきりと告げられた煌凛の言葉に、煌威はさらに強く確信した。

 煌凛なら、この先何があっても大丈夫だろうと。それだけ、強い女だ。

 しかし、それに対して自分も皇帝になる、とはどうしても返せず、煌威は鈍く微笑み返すだけで精一杯だった。



 紅焔を伴い、煌威は無言で来た道を戻る為に回廊を歩く。

 中庭の色彩豊かな美しく整えられた景観と大きく曲がりくねった長い回廊は、城郭都市の中枢にありがちな建築だ。わざと敵の侵入を防ぐ為に作られ、視界を惑わす造りをしている。延々と続く、終着点のない道を歩いているような心地だった。

 しかし、一歩控えて着いてきていた紅焔の喉が背後でヒクリと震えたのと同時に、煌威は厄介事の気配を感じとる。


「煌威殿」


 柔らかく、しかし有無を言わせない印象を与える声が空気を揺らした。

 声のする方向へ身体を向ければ、回廊に囲まれる形の中庭へ降りる階段の向こうに人影を見つけた。日差しのせいで木々の影に守られ、その輪郭しか辿れない人物に煌威は目を細める。

 仕方なしに階段から中庭に降り立った。


 すっきりとした煌威の視界に入ったのは、紅焔と同じ臙脂色の官服で、密かにため息をつく。

 紅焔と同じ官服を着ることができる身分で、煌威を名前で呼ぶ人間は限られていた。


曉炎(ぎょうえん)殿」


 紅焔の兄で、煌威とは同年の従兄弟だ。


「此度は条約締結の進行役に選ばれたそうで……」


 曉炎は目の前でその膝を折り、丁重に頭を下げた。

 煌威より上背の紅焔よりもだいぶ身長が高い曉炎は、見上げなければその顔を確認できないほど体格の良い男で、煌威にとって正直その対応は助かる。


「北戎との条約がまとまれば帝国も安泰。煌威殿ならば、つつがなく締結に向けて進行できることでしょう。同席できること、誇りに思います」

「帝国と北戎、どちらにも心を尽くすつもりだが、もし悪手があったら(いさ)めてくれ。曉炎殿」

「とんでもない。次期皇帝と誰もが認める煌威殿にそのような……」


 悪漢(あっかん)のような厳つい顔をして、深々と礼儀正しく会話を進める曉炎に煌威は苦笑した。 曉炎が容貌通りの悪漢だと知っていたからだ。

 この従兄弟は、己の弟である紅焔を何度暗殺しようとしたことがあったか知れない。


 紅焔の類まれな容姿と才能が、そうさせたのだということは煌威にも理解できる。兄としては恐怖だろう。帝国の名の一文字すら貰えなかった兄としては。

 

 気持ちはわかる。

 だが、煌威もいい加減、続く意味の無い会話に辟易していたときだ。


 頭上から、突然甲高い悲鳴が上がった。


「――ッ!?」

「殿下っ」


 煌威は頭上を確かめる暇もなく、背後から伸びてきた右腕に左肩を掴まれ、抱き込む形で強引に引き寄せられる。

 背中に厚い胸板の感触を感じたのと同時に、煌威の鼻先を掠めて空から降ってきたのは若い女だった。


 それは、一瞬の出来事で。


 ぐしゃり、と。

 大量の血を撒き散らして女は潰れた。


 さっきまでの、自分の立ち位置に落ちてきたのだと、紅焔の腕に守られたのだと煌威が気づいたのはすぐ後で。

 落ちてきた女の手脚は、地面に強く叩きつけられたせいであらぬ方向に曲がっていた。

 よくよく見れば、血で滲んではいるが女が着ているその衣装は北方の民族衣装で、落ちてきた女は北戎の娘だということに気がつく。


 紅焔の腕に身体を抱き込まれながら、煌威は呆然とした。


 状況を見るに、条約締結に不可欠だった北戎の娘が身を投げたに違いない。

 他殺という可能性がないわけではないが、それはそれで問題だ。北戎の娘が真実、どういう理由にせよ身を投げていた場合、これは北戎側の責任問題だが、しかしもし他殺だった場合は、どちら(・・・)が殺害したのかでまた状況が変わる。

 北戎側だった場合、単純に帝国側に罪をきせ宣戦布告されたという形で戦に持っていく腹積もりなのだろう。

 帝国側だった場合、これが一番厄介だ。煌威は何も聞いていない。

 今回の条約が北戎を一網打尽にする為の罠として提案されていたのを、煌威には故意に隠していた場合はまだいい。

 だが、もしそんな計画は無かったのだとすれば、皇帝に仇なす裏切り者が内部にいることになる。

 真実がどちらにせよ北戎の娘の死因がはっきり分からなければ、これをきっかけにお互い疑心暗鬼になるのは目に見えていた。

 戦争だ。間違いなく、食料問題で発展した戦争とは違う、今までの比ではない規模の怨恨から始まる戦になる。

 だというのに。


「……ッ」


 その状況で、袖口で口元を隠して笑う暁炎の姿を見つけてしまった衝撃と、今も己の肩を抱く紅焔の腕に自分の心臓が強く反応した事実が。

 ――煌威を、打ちのめしていた。




用語説明


臙脂色(えんじいろ)…黒みをおびた深く艶やかな紅色のこと。

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