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彼岸の傾城傾国  作者: 高嗣水清太
第二章 悪意を呑んだ天命
30/31

30.

 李冰(りひょう)歓迎の宴は、謁見の場と同じ禁城(きんじょう)の正殿で開かれた。

 正殿は謁見や設宴が催される宮殿であり、遠征出征など儀礼にも用いられる宮殿でもある。慣れ親しんだ、とは言えないものの、李冰にとっても初めて足を踏み入れる場所ではないぶん、酒宴にも抵抗は少ないだろうと煌威(こうい)が踏んだ結果だった。


 中央の玉座に煌威は座し、その左後方に大将軍である紅焔(こうえん)が控えて立つ。

 本来であれば、宴では皇帝の側近く控えるのは文官どころか給仕のみと決まっていたが、ここでも紅焔の欲望による約束事は遺憾(いかん)無く発揮された。

 ――煌威の一番近くに。

 それは何時いかなる状況、立場であっても変わらない。

 それでも一応、今回は宴席なのだから、と煌威は紅焔に座卓を進めたが、「属国ではない北戎(ほくじゅ)を迎えての酒宴で何かあってからでは遅い。皇帝の護衛だ」とそれらしいことを言われれば無碍にする訳にもいかず、さすがに煌威も二の句は継げなかった。

 周囲からの意味ありげな視線には、気づかないことにする。


 煌威の玉座前方には、向かって左右に二列の座卓が広がっていた。

 左に嗣尤(しゆう)抄昊(しょうこう)そして帝国縁者、右には李冰と煌凛(こうりん)に北戎の縁者だ。

 北戎が帝国と結んだのは友好条約であり、基本的には帝国の属国ではない為、本来であれば煌威の対極に李冰の座席を設ける筈だったが、本人から遠慮されては致し方なく、右側の座卓を北戎縁者の席とした。

 正殿は広い。端から端まで座卓とすれば、対極線上の煌威と李冰はお互いの顔すらはっきり見えない位置になることから、李冰が対極の座席を辞した理由は、至極簡単なものかもしれなかった。


 しかし宴はそれぞれの心情などお構い無しに、早々と酒の匂いや喧騒で満たされる。

 煌凛から聞いたことを如何にそれとなく聞こうかと、李冰にどう話しかけようかと煌威が逡巡していたときだ。李冰が立ち上がり、玉座に向かって歩を進めるのを見て、煌威は思わず緊張に背筋を正した。

 李冰はその手に小酒杯を持っている。

 手に杯を持ち、こちらに歩いてくる理由など一つしかない。

 帝国には、酒宴にも作法というものが存在する。とある国には無礼講という言葉が存在するそうだが、煌龍帝国(こうりゅうていこく)ではそういった言葉自体が無い。礼儀作法を重んじる国と言えば聞こえはいいが、堅苦しいことこの上なく、煌威からしてみればあらゆる面において形式にばかり囚われている国だという感想しか出てこなかった。

 だから、友好国の作法を勉強して実践してくる李冰の姿勢は煌威にも好ましく映ってはいたのだが、しかしそれ以上に申し訳なさが先立っていた。

「……本当に……変えたい仕来りが多すぎる国だ」

 李冰の姿を目で追いながら、煌威はひっそりと呟いた。


 勿論そんな煌威の複雑な胸の内など露知らず、李冰は玉座一歩手前で一礼する。

 対し、それには煌威は動かず、作法に則り背後に控えていた紅焔が先に動いた。

 紅焔は煌威の座卓に置かれていた銚子(ちょうし)を手に取り、玉座の階段を降りていく。

 李冰の目の前に辿り着いた紅焔は、先の李冰に倣って一礼し、手にしていた銚子を差し出した。それに合わせて李冰が跪き、小酒杯を持つ右手を添えた左手と共に恭しく掲げる。

 並々と注がれた酒は透明で、一目で上物の白酒(パイチュウ)だと分かる代物だ。

 白酒は穀物から造られる蒸留酒で、農耕で栄えた煌龍帝国ならではの酒とも言える。 その芳香は強く、薫り高い。

 白酒は、酒宴の乾杯儀礼に習慣でよく使われる酒だった。


「敬称一杯」

 李冰がそう言って一気に杯を仰ぐ。

 昔から続く、飲み干すことで敬意を表す乾杯の作法だ。

 李冰が杯を逆さにして飲み干したことを示した後、それを確認した紅焔が踵を返して煌威の元へ戻ってくる。

 敬意を表されたのだから、こちらもそれに返すのが礼儀だ。その為の、古くから続く乾杯儀礼である。

 本来はお互い手酌で行うものだが、皇帝という煌威の立場から、手にした小酒杯に紅焔が白酒を注いでいる、正にそのときだった。


「……? 李冰殿?」

 ふと目をやった、紅焔の肩越しに見えた李冰の姿に、煌威は違和感を覚える。

 李冰は杯を逆さにした姿勢のまま、何故か動きを止めていた。微動だにしない。まるで、石のように固まっていた。

 よくよく見てみれば、その顔色は青く変色を始めている。

「――!」

 李冰の身体が、大きく傾いた。


 嫌な記憶を呼び起こす光景だった。

 そう古くもない、かつて目の前で自刃した、母のような――

「李冰殿!?」

 煌凛の悲鳴に近い声が正殿に響き渡った。

「ッ陛下!」

 何かに気づいたらしい紅焔から、手にしていた杯を叩き落とす形で奪われる。

 床に転がった杯の甲高い無機質な音と、倒れ込む李冰の重たい音は同時だった。


 酒による和やかな喧騒は、瞬く間に不穏な空気を孕む喧騒へと変わる。

「李冰殿!? 李冰……ッ!!」

 倒れた李冰に、思わずといった風情で駆け寄った煌凛だが、その苦悶の表情に青紫色の顔と、静止した鼓動に息を呑んだ。

「り、李冰ど、の! り、りひょ……ッ李冰殿ッ!」

 煌凛は混乱のあまり、ただ名前を呼び、その身体に縋ることしか出来ない。

 帝国の女武将として戦場をかけた煌凛の姿はどこにもなかった。

 当然と言っていいものか。李冰からの返事は一向になく、煌凛の悲鳴は更に大きくなる。

「あっ……あぁ……ッ李冰……李冰殿っ!! いや……いや、です……李冰どのっ!!」

「典医を呼べ!!」

 紅焔が顔を(しか)めながら指示を飛ばす。


 煌威は、その様を茫然と見ていた。

 恐怖で思考が停止したわけではない。場の展開についていけないわけでもない。

 煌威は、確信していた。

 典医を呼ぶまでもない。――これは、毒だ。




「青酸中毒です」

 煌威が予想した通り、急遽酒宴を中止して呼び出した典医から告げられたのは、中毒死という結果だった。


 青酸は、腐らせた牛の血を錆びた鉄鍋で灰と一緒に混ぜ、ときおり鍋を叩きながら煮詰めるという方法で作られる毒だ。

 青酸は独特の香りがあり、無味無臭なわけではない。お世辞にも美味いとはいえない風味は、毒と気づく可能性が高いぶん帝国では滅多に使われないものだが、相手が李冰となると話は異なる。白酒は帝国にとって地酒と言ってもいい馴染みのある酒でも、李冰にとっては違うからだ。 北戎の人間である李冰からしてみれば、通常と異なる風味すら気づかず、それが普通だと勘違いする可能性も無きにしも非ず、である。


 銚子と杯が銀製ではなく、陶磁器製だったのがまた不運だった。

 銀製であれば、青酸に反応した器の変化に、見た目から気づいただろうに。


 他殺か、自殺か。自殺は考えにくい立場と状況から、他殺だとして。犯人は、帝国の人間か。帝国と和平を結ぶつもりはない北戎側の誰かか。


 煌威はとっさに口元を片手で覆った。

 酒宴は中止になったとはいえ、此処は正殿で。並み居る己の臣下と、北戎の面々が揃っている。

 見られてはいけない、と。脳が警鐘を発した故の行動だ。

 煌威はつり上がる口角を手で隠して、変わり果てた李冰の遺体を見つめる。


 ――李冰が、死んだ。母である玉環を抜かせば、わたしの秘密を知る唯一の人間が死んだ。 わたしが皇帝でいなければいけない理由の一つが無くなった――。


「……紅焔」

「はい」


 思わず口をついて出た名だった。

 すぐ傍で応えてくれた声に、煌威は込上げるものを感じる。

 身体が、震えた。

 分かっている。こんなことを考えている暇はないことは、煌威にも分かっている。外交問題だ。いや、煌凛のことを思えば、外交問題だけには留まらないし、自国内だけの話でもない。そんな簡単な話ではないことも分かっている。

 だが、いくら否定しようと。いくら最もらしい理由を探して誤魔化そうとしても、煌威の心臓を打つのはどうしようもない歓喜だった。


 紅焔を皇帝とすることが、出来るかもしれない――……




 とうの昔に諦めた筈の願望が、頭を擡げる気配がした。



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