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彼岸の傾城傾国  作者: 高嗣水清太
第二章 悪意を呑んだ天命
29/31

29.

「陛下、そろそろ……」


 背後に控えていた紅焔(こうえん)から、耳元で(ささや)かれる。

 煌威(こうい)が視線だけを紅焔に向けると、常と変わらない強い眼光で返された。

 普段あれほど強烈な気配を発している男が、今までは煌凛(こうりん)との会話を妨げないよう、空気のように(てっ)していたのだと。そのことに、煌威は今更ながら気づく。


 この後の、李冰(りひょう)歓迎の(うたげ)の準備に取り掛かるには刻限だと、紅焔の視線は告げていた。


「ああ、もうそんな時刻か」


 気の置けない兄妹との会話は、時間を忘れさせるもの、とはまた違う状況ではあったが、話の内容は時間を忘れさせるに充分なものだったらしい。


 最近は特に、時間の経過を早く感じるような気がする。気がつけば予定時刻、もしくは予定を過ぎている。そんなことが多々あった。その時々、話のほとんどが不信感を(あお)る気がかかりと言えるものだったせいもあるのだろうが。


「では、そろそろ行くよ。あまり思い詰めないように、な?」


 煌威が(きびす)を返す前に煌凛の肩にやんわりと触れると、幾分か固く若干強ばったものだったが煌凛は笑った。


「……はい」



 酒宴(しゅえん)の時間が近いこともあり、煌凛との話を切り上げ賓客(ひんかく)用の宿泊施設から寝殿に戻ると、狙いすましたかのように宮女が用意したらしい宴の為の袞衣(こんえ)を煌威は寝台の上に発見した。

 袞衣に合わせる冕冠(べんかん)は、寝台横の小卓(しょうたく)(そろ)え置かれている。

 しかし宮女の姿は周囲に見当たらず、つくづく優秀らしい宮女の仕事ぶりに苦笑した。

 皇帝の身の回りの世話は紅焔がするものだと、禁城(きんじょう)で働く人間全てに例外なく広まっている。煌威はそう、実感したからだ。


「陛下」

「わかっている」


 促すように呼ばれ、煌威は革帯(かくたい)を解き、締めていた大帯(だいたい)を外した。続いて蔽膝(へいしつ)を外し、着ていた上衣も脱ぎ落とす。(はかま)の上に付けていた()を取り外し、残った小袖(こそで)と袴も脱ぎ捨て、小褲(しょうこ)だけになった格好で紅焔に背を向けた。

 微かな衣擦れの音と共に、近づいてくる気配を感じる。


「腕を、陛下」


 紅焔に言われた通り煌威が腕を上げると、左腕からそっと袖を通された。


 袞衣は皇帝が用いる礼服というだけあって、その装いは面倒くさい行程が幾重(いくえ)にもなる。

 出来れば避けたい、と煌威も思わなくはない。普段から深衣(しんい)で暮らせたら、どれだけ楽だろうかとも思う。

 しかし、皇帝の威信(いしん)を保つ為に同じ衣裳で参じるのはよろしくない。と、幼少の折から教育されていれば、着替えるのも致し方なしと煌威は感じた。先程まで着ていた衣裳も、昼間の謁見用に用意されていた袞衣だというのに不便なものだ。


 まず最初に袖を通すのは小袖である。襯衣(しんい)を着用しないことには先に進めない。

 小袖は筒袖(つつそで)の、大袖(おおそで)より袖を小さく仕立てたもので、右衽(うじん)方領(ほうりょう)だ。その小袖を着用したら、下に細身の袴を履く。色は小袖と袴、どちらも白と決まっていた。

 袴を履いたら、次はその上に裳を身につける。腰巻きのような、(ひだ)のついた布で、こちらは基本的に鮮やかな(あか)一色だ。これから羽織る大袖とは対比が目立つ色彩をしていた。

 大袖は文字通り、袖が大きく丈が短い上衣である。色は黒一色で出来ているが、(なめ)らかな生地で出来たそれは、黒一色とはいえよく見れば同色の糸で龍が刺繍(ししゅう)された(きら)びやかな物だった。

 元より袞衣とは、首を曲げた龍が刺繍された衣のことを指すので、袞衣とはこの大袖を指すことのほうが多い。


 皇帝の正式な格好ということで用意された袞衣と冕冠だが、宴は何も形式ばったものではない。特に歓迎の、ともなれば無礼講(ぶれいこう)なものになることさえ珍しいことではないが、如何(いかん)せん皇帝に求められるのは何時(いつ)いかなるときも、その形式だった。




「…………紅焔?」


 ――ふと。こちらの、袞衣の(えり)を整えながら、物憂げな表情を浮かべる紅焔に気づき煌威は首を傾げる。

 しかし紅焔は無言で、細い平紐で袞衣の腰を(くく)った後、寝台の上に置かれていた蔽膝を手に取った。

 前掛けである蔽膝は、袞衣の上から腰位置に付け、背面で紐を結ぶ。

 紅焔が煌威の正面に回ったことで、鼻先が触れるような、そんな距離だからこそ気づいた異変だった。

 こちらを、と言うより、煌威の眼を見ようとしない紅焔の姿は、少し前の己以外の全てに嫉妬していたあの姿と重なる。

 ――ならば、と黙って煌威が続きを促せば、煌威の腰に腕を回す形で蔽膝の紐を結びながら、紅焔は口を開いた。


「……陛下も、跡継ぎを望まれていますよね」

「あ、ぁ? うん?」


 突然振られたのは、脈絡のない話だった。思わず威厳も何もない声が出てしまう。

 いや、煌凛との話を聞いていた故の話題だと考えれば、脈絡がないわけではない。ないわけではなかったが、煌威にはその意図が分からなかった。

 紅焔は話を振ったっきり、黙々と作業を続けるように大帯を締めてくる。

 沈黙が痛いと感じたときだ。


「……っ紅焔?」


 膝を折った紅焔が、勢いよく(ひざまず)いた。

 突然の行動に煌威もつい身構えたが、理由は革帯を付ける為だとすぐに判明して息をつく。


 革帯は牛の革で出来た帯だ。大帯のように締めるものではなく、金具で留めるものである為、跪かなければ付けにくいものだった。

 黒漆(くろうるし)塗りの、金の飾りが並べ連ねられている革帯を腰に留め、その左右に玉佩(ぎょくはい)を下げることで、袞衣という礼服は完成する。

 袞衣が整えば、次は冕冠だ。


「失礼します」


 立ち上がった紅焔が背後に回った。

 いつの間にか用意されていた椅子に座るよう煌威は促され、されるがままに腰を下ろす。

 するり、と。後ろから(たま)飾りの充耳(じゅうじ)を避けてこめかみに触れた指先が、そのまま冕冠を固定していた(かんざし)を抜きとった。

 紅焔の手が被っていた冠をそっと持ち上げた瞬間、解かれた髪が煌威の背中を叩いて落ちる。


 なんとなく、話しかける機会を失って。

 髪に(くし)が入れられたこともあり、髪を()く紅焔の手を心地よく感じ始めていたときだった。


「皇后は、いつ迎えられる予定ですか?」

「……っ!」


 何でもない会話のように、掛けられた言葉。それに、冷水を浴びせられたかのようだった。

 煌威は思わず紅焔を振り返り見る。

 ――お前がそれを訊くのか、と。口に出そうとして、(つぐ)んだ。


 確かに、皇帝がいつまでも独り身でいられるものではない。若い皇帝にまず望まれるのは、国の太平よりも子供だ。帝国を護り、次代へと繋いでいく子供。


 皇帝という地位にあれば、それも義務だと分かっている。

 しかし、よりにもよってそれを当たり前のように紅焔から言われるのは、煌威にはどうにも辛かった。

 紅焔だけには言われたくなかったと、女々しい女のようなことを思う。


「……お前こそ、いつだ? 縁談が来ているだろう?」


 煌威が苦し紛れに質問を質問で返すと、紅焔が苦虫を噛み潰したような顔をした。


 大将軍であり、皇帝である煌威の従兄弟でもある紅焔にも、縁談が途切れることなく来ていることを煌威は知っている。それこそ献上(けんじょう)という名目で、何人かの女が既に()てがわれていることも知っている。……仕方ないことだというのもわかっている。

 皇族というのは、いわば皇帝の予備(スペア)でもある。皇帝に子供が出来ないときや、不慮の事故等で急死したときに、皇族の中から血筋的に一番近い者が次代に選ばれる。


 紅焔を皇帝としたかった。紅焔に仕えたかった煌威が望むのは、一つだけだ。


「わたしは、お前の子供が見たい」

「……っ」


 コクリ、と。紅焔の喉が動くのを見た。

 暗に、自分は皇后を迎える気はない。と言ったことに、その意味に気づいただろうか。


「紅焔、お前の子供が欲しいよ」


 ――できれば、わたしに近い女との間に出来た子供がいい。紅焔の血を引く子供。その子供を、次代の皇帝にしたい。


「……ずいぶんと、酷なことをおっしゃる」


 紅焔が、酷い苦痛を堪えるような顔で言った。握り込んでいる拳が震えている。

 煌威は、お互い様だろうと苦笑した。


「……お前もな」




用語説明


革帯(かくたい)…革ベルト。


大帯(だいたい)…絹で出来た幅広の帯。


()…袴の上に付け蔽膝の下に付ける腰巻式の飾り。プリーツスカートのようなもの。


小褲(しょうこ)…パンツ。下着。


襯衣(しんい)…肌着。


玉佩(ぎょくはい)…五色の玉を貫いた組糸五本を金銅の花形に繋いで、腰から足先に垂らすもの。

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