25.*
煌威が痛みを感じる間もなく、続いたのは音だった。
ダンッ、と。耳に届いたときには、前方を紅焔の身体に、後方を壁にと挟まれていて驚く。
煌威は、書庫に連れ込まれたと、自分の正確な状況を理解するよりも早く、紅焔に腰を手荒く抱き寄せられていた。
「っ……こ、紅焔!」
簡単に乱される衣服を、煌威は何とか押し留めようとするが、紅焔に胸元は大きく開かれ、首筋に顔を埋められて焦る。
吐息が、肌を掠めた。柔らかく、濡れた感触が薄い皮膚を刺激する。
「ぁ……っ」
口をついて出た声は思いのほか艶が乗ったもので、煌威は慌てて手の甲で唇を押さえた。
しかしそれを嘲笑うかのように、紅焔の唇が首筋を下りて鎖骨を噛む。
「んっ、ぐ」
明確な意図を持って触れてくる紅焔に、煌威は言葉にならない拒否を示して頭を振った。
――今が夜なら、拒まなかった。此処が、自分の寝殿だったなら受け入れた。
しかし、今は壁一枚隔てた向こうに、嗣尤と抄昊がいる。
「紅え、やめっ……!」
煌威は紅焔の肩を押し退けてなんとか引き剥がそうとするが、純粋な腕力の差かびくともせず、逆にその微々たる抵抗は紅焔の本能を刺激したようだった。
「ぅあっ」
身体を抱き込むように回された腕で、臀部を掴まれる。
手加減のない力で掴まれた、痛みに仰け反った身体は、煌威の意志に反して紅焔の胸に縋るような姿勢をとっていた。
紅焔は左手で煌威の臀部を掴んだまま、右手では締め殺すかのような勢いで腰を抱いてくる。
「く、ぁっ……んむっぅ!」
煌威が息苦しさから仰け反って喘げば、上から噛みつくように唇を塞がれた。
歯列を割って入ってくる、乱暴な紅焔の舌に身体が震える。
「んっ、ん、ンン……ッ」
皇帝に即位したあの日から、煌威が紅焔と肌を重ねない日はない。
しかし、毎日のように繰り返される儀式のようなそれは、一線を画して行われていた。事実、煌威が本当の意味で紅焔に抱かれたことは、未だただの一度もない。紅焔はただ、煌威に快楽を与えるだけだ。
紅焔の反応から、自身も快楽を感じていないわけではなさそうだったが、それを煌威の身体を使って満たそうとはしなかった。
唇への口づけも同様だ。足や手、身体には頻繁に唇を落とすのに、何故こちらの唇にはしないのだろうと思ったことがある。
それが画していた一線だと煌威が気づいたのは、つい最近だった。
紅焔の中で、煌威の身体を暴くことはもちろんのこと、恐らく唇だけはと決めていた。唇への口づけは、特別なものだ。忠誠や敬愛、憧憬とは違う。
隠していた、一線。その一線に、紅焔は初めて自分から踏み込んだのだ。
ぞわぞわとした何かが、煌威の背筋を這い上がる。
「ん、ん、……っふ、ぁ……あ! ンン……」
「……、ん」
初めての口づけは熱く、脳が溶かされるようだった。甘く痺れる唇と舌は、それだけで前後不覚になるほどの快楽を伝えてくるのに、掴まれているだけだった臀部まで揉みしだかれ、堪らず上げた声を紅焔の口内に食われて飲まれる。
捕食されているようなそれに、煌威は熱くなって震える身体がまるで自分のものではないような感覚に陥った。
ガクガクと膝が笑っているのは、快楽か否か。
腰に回されていた紅焔の手が脚を這う。ゆっくり撫で擦る掌は優しいが、労りよりも色事を感じさせるもので、煌威の頭の中では警鐘が鳴り響いていた。
「……っ、こ……焔ッ」
「……ふ、っ」
少し温度の高い紅焔の舌が、煌威の口内から名残惜しそうに離れる。
乱れた呼吸から上下する胸に、紅焔がぴたりと身を寄せてきた。
逃げられないように、との意図なのだろう。胸と胸が隙間なく合わさる。
どちらのものとも知れない鼓動が、うるさいほど響いていた。
「…………なにを……思い出されて、いたのです」
「……は、ぁ?」
鼻先が触れるほど間近から紅焔が放った言葉は不明瞭で、煌威は訝しげに眉を寄せることしか出来ない。
全く、意味が分からなかった。
「麗氏女王ですか。それとも、可愛らしかった王女ですか」
「なに……? 紅焔、お前なにを言って――っ!」
常にない、剣呑な光を湛えた紅焔の、黄金の瞳に閉口する。
鋭い眼差しは煌威の顔に一心と注がれ、目を逸らすことも許されない。
「……紅焔、……紅焔待ってくれ。ちゃんと、説明してくれ」
言っていることが分からない。何を言いたいのかも分からない。
しかし、お前の言うことを理解したいと思っている。煌威がそう訴えれば、紅焔は顔を歪めた。
ぐ、と紅焔が唇を噛み締める。
一度、きつくその黄金を閉じた後、紅焔は額を煌威の肩に押し付けてきた。
「……お慕いして、おります……陛下っ」
「うん……?」
紅焔の唇から発せられた言葉は、この体勢的には決しておかしくない言葉だ。
だが、それは煌威の問いの答えではない。意味が通じない。
「貴方だけを……、嗣尤殿や抄昊殿よりも、架瑠羅の王女よりも、貴方を……お慕いしております」
「紅焔……」
続く紅焔の言葉は、やはり意味が通じない。
けれど、もしかして……と煌威の頭を掠めるものがあった。
「貴方が、俺の全てだ……!」
「紅焔……っ」
ぎゅう、と身体を抱き締められ、その〝もしかして〟を期待してしまう。
「こう、え……」
「捨てないで、ください」
恐る恐る、といった風情で顔を覗き込まれ、まるで仔犬のような眼でこちらを見る紅焔に、煌威は自分でも頬が紅潮するのが分かった。
「嗣尤殿も抄昊殿も、陛下の弟君で頼りにされる将軍と丞相であって、本当に、それだけであることは分かっています」
切々と語られるそれは、かつて煌威も経験したことがあるものだ。
――自分だけを見て欲しい。自分以外をその眼に入れて欲しくない。そう、わたしも思ったことがある。
「架瑠羅の女王や王女の件に関しても、陛下にその気はないのは分かっています。微笑まれたのも、何か理由がおありなんでしょう」
しかし、と続ける紅焔は煌威の頬を両手で包み固定すると、寸分違わず合わせた視線で苦しげに叫んだ。
「俺だけを見て欲しい……他の人間より、俺を見て欲しいっ。貴方の眼に映るのは、自分だけでありたい……!」
「――ッ!」
それは、嫉妬だ。
「陛下を疑っているわけではありません。ただ、幸せで……幸せ過ぎて、今が信じられなくて……自分が、信じられなくて……」
「……なんだ、お前……わたしを一切見なかったのも……」
「貴方を見たら、抑えられなくなりそうだった……」
「…………は、はは」
思わず、煌威の口から漏れる笑い声。それは、一度意図せず漏れてしまうと止まらないもので。
「はははははっ」
「へ、陛下?」
紅焔が戸惑っているのを知りながら、煌威は唇から零れる声を止めることは出来なかった。
――嬉しかったのだ。
自分だけだと思っていた。何だかんだ言いつつ、紅焔のそれは崇拝が大半で、敬愛にも似たものだと思っていた。
煌威は、自分の片恋のようなものだと思っていたのだ。嫉妬をしてくれるとは、思っていなかった。
「紅焔」
「! はい……」
「愛している」
「はい。は……はっ!?」
ぎょっと目を剥く紅焔に、なんて顔をしているんだと揶揄しながら、煌威はその首に腕を回した。
「あの……陛下……」
「わたしは、お前が望むなら……どんな皇帝にもなろう」
戸惑う紅焔の唇に、そっと口づける。
一瞬、紅焔の身体が硬直したが、それでも少ししてこちらの腰に腕を回してきたのを感じ取り、煌威はさらに口づけを深くした。
・臀部…お尻。




