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皇帝の朝は早い。前日何時に床につこうと、いくら睡眠時間が少なかろうと、早朝午前四時には起床が決まっている。
後宮に住む者は皆、この皇帝の生活に合わせて動く為、皇帝だけが朝早いわけではないことを煌威は知っていたが、やはり皇太子だった頃と比べると朝は早いと感じていた。
皇帝が起床後、最初にすることは何かと言えば沐浴である。初めに髪、身体を洗い清め、一日に臨むわけだ。
通常なら、後宮に務める宦官がその沐浴に付き添うのだが、煌威の場合は紅焔が付き添いを務めることになっていた。
紅焔は武官だ。
しかも、煌威が皇帝となってまず第一にしたことが、紅焔を国軍総大将である大将軍に任命したことである為、帝国で最高位の武官と言える。
紅焔が沐浴の付き添いを務めることに、当初は各方面から少なくない反発にあった。当然と言えば当然だ。最高位の武官に、沐浴の付き添いをさせる皇帝など、帝国の長い歴史の中でも聞いたことがない。そもそも本来なら、後宮に皇帝以外の男は入れない決まりだ。故に、通常は宦官が沐浴に付き添うことになっている。
最初は、武官を護衛として常時待機させる必要があるなら、沐浴中の護衛は賤吏を待機させればいいのではないか、と言われた。
宮女と過ちを犯さない為に、皇帝以外の男は立ち入り禁止の後宮であるのに、それはそれで本末転倒ではないか――。
煌威はそう思ったが、『皇族以外で身分の高い人間を登用して、宮女と子供でも出来たら面倒なことになる』という言い分も確かで、賤吏は使い捨てという貴族の概念で話すなら、もっともな話だとは思った。倫理的にはどうかと思ったが。
次に言及されたときには、将軍職についた紅焔に付き添わせる理由は無い筈だ、とも言われた。
これも、煌威は一応正論だとは思った。
他に、沐浴の付き添いという仕事を宦官から奪うのは如何なものかと、それらしいことも言っていた気がする。
だが、これは単純に己が紅焔を重用すること、そのものが気に食わなかったのだろうと煌威は考えていた。
紅焔は武官である前に皇族であり、煌威の従兄弟だ。元から紅焔のことを悪く言う人間は少ない。少数、媚を売って皇帝に取り入った、等と陰口を叩く輩がいるのも事実だが、その程度である。
煌威が紅焔を登用する度に、宦官の面々がやんわり否定から入る原因は、そう考えれば酷く分かりやすいものだった。
実際のところ、大将軍である紅焔が煌威の沐浴に付き添わなければいけない理由は、大義名分があるわけでもなく個人的なものにあたる。皇帝である煌威の立場からして、正直に言うわけにもいかず、何ともし難い理由が元だ。
その理由に、紅焔自身も一役買っていたというか……言ってしまうと原因なので、煌威も今回は元凶である紅焔に頑張ってもらっただけのことだった。
表向きは清廉潔白といったあの紅焔が、宦官含め反対する臣下一人一人を口八丁手八丁で説得して回ったというのだから笑ってしまう。一体どんな理由と説明で乗り切ったのか。
「……何を笑っているのですか」
思い出し笑いで頬を緩ませる煌威に、沐浴場の出入口付近に立つ紅焔が片眉を上げて渋面を作った。
煌威が何を考えて笑ったか、察しがついたからだろう。
「いや……、お前があんなに必死になる姿はなかなか見れなかったな、と」
「……陛下」
「く……ふふっ」
漏れる笑い声を消す為に、煌威は沐浴用の滝に頭を突っ込んだ。
白糸のような滝から流れる冷たい水が顔や首筋、胸を伝い、下半身に流れることを感じる間もなく、煌威の全身を包むように降り注ぐ。
神聖な河と言われている、姜水から直接引かれて人工的に造られた滝は太陽光を弾いて光り、苔生す岩盤の上から降り注いでいて、緑と光の対比は神々しくなんとも美しい光景だ。庭園だと言われれば、信じてしまいそうな造りである。
しかし足元に一切の土は無く、石板を規則正しく敷き詰め階段を用いて溜池のように造られた、沐浴場は沐浴場だ。
身を清める為とはいえ、朝から水で沐浴すると決めた奴は誰だと、煌威は密かに心中で独りごちる。
季節は夏に差し掛かり、気温が上昇し始めているのもあって割りと寒くはないが、これからの季節を考えると、この仕来りも少しばかり遠慮したいものだと思った。
自分の身体を伝う水が足首あたりで溜まり、排水溝へ向かうのを何となしに煌威が目で追っていると、大きな布を広げてこちらに近づいてくる紅焔の姿を捉えた。
仏頂面で近づく紅焔は、 何かを言いたげだ。
「……なんだ?」
苦笑して問えば、紅焔が苦虫を噛み潰したような顔で言う。
「……あなたが望んだことでしょう」
「うん? ああ……」
――先程の続きか、と笑いながら煌威は段になっている沐浴場から足を上げた。石畳を踏み、粗布を両手に待ち構えている紅焔に近づく。
「ああ、確かにわたしが望んだな」
紅焔が待つ、足裏を拭う為の敷物の前で止まると、紅焔は煌威の濡れた身体を粗布で一度まるごと包んだ。
柔らかく押さえて、水滴を拭ってくる。粗布はきめが粗い布なので、気を使っているのが分かる手つきだ。
「……ふふ。お前にこうして、沐浴の付き添いをして欲しいと頼んだし、反対する臣下達の説得も命じた」
だが、な? と、一度言葉を区切って煌威は紅焔を見上げる。
顔は仏頂面でも、どこまでも優しく触れてくる紅焔に、ちょっとした嗜虐心が芽生えた。
「元はと言えば、お前が悪いんだぞ?」
煌威は紅焔の持つ粗布で身体を拭かれながら、膝で布地を開いて脚を持ち上げる。
「こんな痕をつけて……」
煌威が粗布から突き出した左脚には、脛から爪先にかけて大小様々な紅色が散っていた。点々と広がるそれは、どう見ても鬱血痕だ。
「首筋や胸なら、まだ夜に連れ込んだ宮女に付けられたとでも言い訳できたものを」
「……ご冗談を。自分は臣下です。そのような行為、許されません」
「…………そのような行為、ねえ?」
――皇帝を快楽で夜毎溺れさせて、忠誠の証だと言って、足に鬱血痕を残すことは許される行為なのか。
そんな文句を頭で思い浮かべつつ、実際許している煌威が言うのでは意味がないので口を噤む。
煌威は皇帝だ。宦官が覚えのない痕を煌威の身体に発見しても、『気に入った宮女が居たから手を出した』。そう言えば、大抵はそれで片付く。
だが、場所が場所である為、その言い訳も使えない。誰が好き好んで脚に痕を残すだろうか。
宮女なら尚更有り得ないし、煌威が直接見初めたとなどと言えば言ったで相手の女探しが行われるに違いないと思えば、とても言えたものではなかった。
大きくため息をつけば、紅焔は何を思ったのか煌威の肩にかけた粗布はそのままに、膝を折って跪いてくる。
「……! 紅焔?」
「…………」
問いかけを無視して――。
紅焔は持ち上げた煌威の左足――脹ら脛を掌で支え、自分の懐から取り出した布でゆっくりとその足裏を拭う。
紅焔の行動の意味が分からず、煌威が首を傾げた瞬間だった。
「――ッ!」
ぢり、とした痛みを足の指に感じ、肩が跳ねる。
煌威が慌てて視線を下ろせば、新しい鬱血痕がそこにあった。
「こっ……!」
何を、と声を上げる暇もなく、紅焔は上目遣いに煌威を見つめたまま、今度は足の甲に舌を伸ばしてくる。
「ぅあっ!」
触れたそれはとても熱く、ジワジワと全身に侵食していくようで、煌威は思わず紅焔の肩を掴んだ。
皮肉にも、その掴んだ肩が支えとなって、煌威の震える身体を押し留める。
夜、帳が降りた頃に受ける行為と同じ筈なのに、明るい日の下で受けるこれは、なんとも背徳感に溢れていて劣情を誘った。
閨事ではない。閨事ではない筈なのに、紅焔との繋がりはそれ以上に煌威の欲を煽る。
「……っ、……ぅッん、!」
「…………へい、か」
「……ッ」
問題は、この場ではそれ以上を望めないことだった。
それほど、長い時間ではなかったように思う。
劣情を煽りに煽られ、煌威は気がつけば上がった息を紅焔の肩で整えていた。
燻った熱が下半身で渦巻いている。
ゆるゆると背中を撫でられながら、紅焔の低い声を煌威は耳元で聞く。
「……俺がわざと、こうしているとは思われないので?」
「…………は?」
「有り得ないところに痕をつけていたら、宦官には見せられないですからね?」
「……紅焔、お前……」
沐浴の付き添いをもぎ取る為に、わざと痕をつけたと。
「……そんなに主を独り占めしたいか」
「愚問ですね」
からかい半分で言った言葉に間髪入れず返され、次いで己の下半身に伸ばされる手に、煌威は思わず破顔した。
用語説明
・賤吏…身分の低い役人。




