18.
時間が停滞したのかと思うほど、細部まで詳細にゆっくりと進む光景は、現実とはとても思えず目を見張る。
母である玉環の身体が床に倒れ込むのを、煌威は茫然と見ていた。
「玉環ッ!」
李冰が慌てて玉環に駆け寄る。
玉環が自らの首に突き立てた簪は細く尖ったもので、それは三分の一ほど深く刺さっており、傍から見ても助からないと分かる傷だった。簪を抜けば血が吹き出し、寿命を縮めることが分かっている為どうすることも出来ず、李冰は玉環の身体を抱き上げるのみに留める。
「玉環……、なぜ……どうして……」
自決の際に、なぜ笑ったのかと問いたいのだろう。
愛惜で苦笑したのならまだ分かるが、玉環が幸せそうに笑った真意は、息子である煌威にすら分からなかった。
「玉環……」
「…………」
名前を再度呼んでも答えない玉環に、李冰はぐっと眉根を寄せた。その眼には、透明な薄い膜が張っている。
ほんの少しだけ、困ったような微かな笑みが玉環の唇を彩った。美しく、綺麗な笑顔だ。
「っ……玉環、玉環すまない……」
「……、………」
か細い呼吸を繰り返す度に唇から溢れる血が顎を伝い、それに比例して青くなっていく玉環の頬を撫でる李冰は、今にも泣き出しそうに震えていた。額と額をつけ、囁くように何か会話をしている玉環と李冰の姿に、誰もがきつく目を閉じる。
李冰と玉環の最後の逢瀬は、彼女の冷たくなる身体を抱きしめることで終わった。
それは、長く戦を繰り返していた帝国と北戎の関係が、 決定的な断絶で終わったと思った瞬間だった。
しかし、一ヶ月後――。
予想外にも煌威は帝国の首都、朝暘で開かれた即位式で、李冰の顔を壇上から眺めていた。城陽での条約会談は、友好条約締結によって終息したからだ。
信じられないことに、李冰は条約を承諾した。しかも、本来結ぶ筈だった不可侵条約ではなく、友好条約を李冰自ら推奨してきて、である。
――煌威は、複雑な感情に支配されていた。
不可侵条約は、どういった場合においても互いの国を侵さず侵されず、といった条約で、友好条約は武力不行使については不可侵条約と変わらないが、経済・文化の交流などを行うことを前提とした条約だ。
確かに、玉環が生きていれば、皇帝が辺境の地に生涯幽閉といった処罰を受けた今、友好条約を結んでいてもおかしくはなかった。
だが、李冰は帝国のせいで玉環と、実子でなかったとは言え娘を失ったも同然だ。それが、帝国との交流を選ぶことの歪さは、不信を煽るに十分だった筈である。
妻と娘を殺されたその李冰が、帝国と北戎の不可侵条約を友好条約にすることを推奨してきて、怪訝に思わない筈がない。
しかし、今も壇上から見える臣下達の顔には、なんの憂いも、不信もないことから煌威は危機感を覚える。
――なぜ、誰もおかしいと思わないのか。
友好条約を結ぶ際に条件として提示してきた、皇帝を辺境の地に生涯幽閉という刑罰もそうだ。おかしい、と思うのが普通だ。
――なのになぜ、誰も違和感を抱かないのか。
普通は、極刑を望むものだ。殺してやりたいと思う人間を幽閉で済ますのは、何か企みがあるに違いないと、なぜ誰も考えないのか。
その上、さらにもう一つ。煌威にとっては、今の状況以上に承諾したくない問題が、――いや、承諾したくなかった問題があった。
李冰は、友好条約を結ぶ際の条件に、皇帝の幽閉ともう一つ。煌威を、この煌龍帝国第二十八代皇帝とすることを望んだのだ。
帝国は世襲制であったし、皇后の実子である煌威を次代の皇帝に、というのは確かに帝国側にとってみれば願ってもないことだった。平和友好条約を結ぶ代わりに、皇帝の血を引くものは皆殺し、を望まれるよりは、数倍……いや数千倍有り得ないほど好待遇だ。
だからこそ、有り得ないと煌威は思う。本来であれば北戎側が有利に事を進め、好待遇になるよう条約を結ばせるのが定石だ。
しかし、
――わたしは、知っている。
龍の彫刻で彩られた皇帝の玉座を、煌威はひっそりと指先で撫でる。
皇帝の威厳を誇示するのに役立つ禁城の中心に据え付けられた玉座の間は、十段にも及ぶ壇上で臣下とは隔てられ、金と朱塗りの壁に囲まれて別世界のようだ。
重たく感じる、皇帝の豪奢な衣装に身を包まれながら煌威が思うのは、他の道は無かったのか、という詮無いことであり、捨て切れない僅かな希望だった。
痛ましい光景を思い出す。今でも目を閉じれば鮮明に浮かぶのは、母である玉環の最後だ。
しかし、煌威の脳裏に残っているのはその姿ではなく、李冰と囁き合うように交わされていた会話だった。
『……玉環、玉環愛している。わたしを、置いていくな』
『――……ごめん、なさい。……でも、まだ煌威がいる……こう、いは……煌威は……李冰殿の子です』
『……!』
囁くように会話していた二人の、玉環の最後の言葉が甦る。
――玉環と李冰は、わたしには聞こえていないと思ったのだろうか。
自分が皇帝の血を引いていなかった事実は、酷く煌威を冷静にさせた。
――李冰が新皇帝にわたしを推した理由は分かる。
初代皇帝焔帝の血を引いていない煌威が、煌龍帝国皇帝になることは、玉環と李冰にとって、これ以上ない復讐になるだろう。
煌威も李冰のその気持ちは分かる。母である玉環に同情もする。
だが、煌威にも望みがあったのだ。
「おめでとうございます、陛下」
壇上の下から、紅焔が叩頭する。
煌威は、玉座から何とも言えない感情でそれを見ていた。
――わたしが見たかった景色は、これじゃない。自分が見たかったのは、頭を垂れる紅焔の姿ではない。冠を戴く紅焔の姿を、わたしが見上げたかったのに……ッ。と、煌威の心は叫んでいた。
密かに唇を噛む。
それを、紅焔がどんな顔をして見ていたか気づきもせずに。
新皇帝即位の宴は、三日三晩続いた。




