問。以下の恋愛小説を読み、文章内の設問に答えよ。
その日、僕が図書室へ行ったのはちゃんとした理由があった。
毎週水曜日は職員会議の為、全ての部活動が休みになる。いつもの僕なら真っ先に下校して塾の自習室で講義が始まる時間まで勉強をしているだろう。けれど最近はなんだか気乗りしなかった。理由は分かっている。
ようやく中学二年生になって、陸上部の活動もより楽しいと感じていたし、先輩と呼ばれるのも嬉しい。友達ともたくさん遊んでいたいと思っていた。それなのに塾ではもう受験の話ばかりでぴりぴりしている。皆も自分以外は蹴落とすべきライバルだと対抗心を隠さない。
確かに大事な事だと思うし、正しいとも思う。僕だって塾にいる時は皆と同じ顔をしている自覚だってある。でも僕はあんな空気の自習室は嫌だ。あそこでずっと勉強をしていたら、そのうち本当の僕が窒息死するんじゃないかと半ば本気で怖かった。
だからもっと自分らしく勉強できる場所を必要としたのだ。家だと塾に行け、お金も払っているんだぞって言われるし。まったく、自習くらい好きな場所でさせてほしい。塾をサボりたいって言っているんじゃないんだから許されるべきだ。
そんな僕が図書室へ行くのは当然のセツリ? って奴。
図書室へ向かう途中、雨空で薄暗くなった廊下に人影は無い。図書室は二階廊下の奥まったところ。すぐそばに一階の下駄箱へ続く階段が近道としてあるけれど生徒はほとんど使わない。図書室の真下が職員室だからだ。近道しようとして走ったらすぐ怒られるし、会いたくない先生にばったり出会ってしまう。おかげでここの近道を使うのは授業に遅れそうな先生達ばかり。その先生達も今は職員会議ですでに集合している為、僕は誰ともすれ違うことなく図書室へ到着した。
図書室の明かりがついているのを確認する。本の貸し出しくらいなら司書の先生がいなくても図書委員がなんとかしてくれるのだろう。
ドアに手を掛けて深呼吸を一つ。少しだけ緊張しているのが自分で分かる。実は僕、図書室へ来たのはこれが二度目だ。一度目は入学したての頃、校内見学としてクラスメイト全員で入室となった。それから一年と二か月ちょっとが経つ。僕がいかに本を読まないかがよく分かる年月だ。朝の読書タイムは新聞でもいいっていうから本当に必要としてなかった。
まあでも緊張する必要もないかと思いなおす。悪いことをしているわけでもない。具合が悪くなったら保健室へ行くのと同じ。もっと言うなら街中のティッシュ配りと同じで欲しければもらうし要らなければそれまでだ。そこまで考えたらなんだか気が楽になった。
緊張がほぐれた手で静かにドアを開ける。一歩中へ入ろうとした足を思わず引っ込めた。図書室の床は毛足の短いカーペットが敷き詰められていたのだ。上履きを脱いだ方がいいのかな?
ドアから顔を覗かせ部屋の中を確認する。入口から一番近いところにある席に女の子が一人、こちらへ背を向けて座っていた。その子の足元を確認すると、僕と同じ学年カラーである青のラインが入った上履きを履いていた。よし、上履きは履いたままでいよう。
中へ入りそっとドアを閉める。座ったままの彼女は気にした様子もなく読書を続けていた。近づきながら空いている席を探そうとして必要ないとすぐに分かる。三列ある長机の角の席に彼女が座っているだけで他に誰もいない。放課後の図書室は予想より空いている。塾の自習室ならここにある机だけじゃ足りないだろう。人が少ないというだけでこんなに落ち着くとは思わなかった。良い居場所になりそうだ。
通路沿いに進みながらちらりと彼女の方を盗み見る。名前は分からないけど見たことのある顔。隣のクラスの人だった。僕はそれっきり興味を失くしどこの席に座ろうかと思考を切り替え……ようというところで彼女を二度見した。
失礼だろっと脳内の常識ぶった僕が叫んだのですぐに視線を逸らす。幸い、彼女は今も読書に集中している。よかった。
僕は冷静に理屈を並べ、自分を納得させる。図書室は本を読む場所だから彼女は何もおかしくない。おかしくない。
心の中で念じながら彼女から一番遠い席、つまり彼女から対角線上の角席に座る。鞄から筆記用具と問題集を取り出し、もう一度だけ彼女を見る。やはり見間違いではなかった。
彼女は読書をしている。ただ、その両手で開かれている本はなんと絵本だったのだ。
ちょっと、いやけっこうびっくりした。今日は部活もなく早く帰れる日。そんな日にわざわざここで読書をしているのだからよっぽど本が好きなのだろう。僕の中の読書家は教科書に載ってそうな難しい本を早くたくさん読む人ってイメージだったのだ。それなのに読書家であろう彼女は僕のイメージとは真逆。一ページに数行しかない文字を読み、絵を眺め、ゆっくりページをめくる。しかも時々ページを戻っていた。一冊読むのにどれくらいかかるのだろう。
珍しい人だと思った。けれどそれ以上、彼女に対して感想も無く何かしようとも思わなかった。
たしかに驚きはしたけれど静かに読書をしてくれるなら僕の邪魔にならないし、僕は勉強しにきたのだ。そう、ただそれだけ。
五教科総合問題集をパラパラ眺め、何からやろうか考える。
今日はせっかく図書室へ来たし、国語の長文問題でもやってみようかな。あまり得意じゃないからこそやらなくちゃね。
国語のページを開き、シャープペンを手に取る。
えぇっと先に本文じゃなくて問題文を読むようにって塾の先生は言っていたっけ。
…………。
雨の音。シャープペンの音。ページがめくれる音。
静かじゃないけれど、何だかすごく落ち着くし集中できる。苦手な長文だって頭にスッと入ってくるし、どこそこを抜き出せという問題の答えがまるで蛍光ペンで塗られているかのようにパッと見つかった。これも図書室のパワーかもしれない。
本文で人生は一冊の本であるとか言っていて、ちょっと難しい話だけどたとえ話がこの場にぴったりな気がして愉快な気分になってくる。『地球という図書室にはたくさんの本があるけれど同じものはない。さらに厳密にいえば同じページだってないのだ』だってさ。つまり、みんなが同じ時間の中を生きているけれど、そこで同じ生き方をする人はいないってことを文章を書いている人は言いたいようだ。
話が理解できると愉快な気持ちがより一層増してくる。この文章を書いている人と友達になれそうだ。そう思うとこの図書室にある本は全部、読まれるのを、友達になるのをひっそりと待っているんじゃないかという気がしてきた。全部読むのはさすがに無理だけど勉強の合間にちょっとなら、ね。
うん、毎週水曜日はここで勉強しよう。それからちょっとだけ本も読んでみよう。図書室はそういう場所なんだから。
そう決心した矢先だった。
なんだか賑やかで騒がしい声が近づいてくるなぁと思っていたら、乱暴に図書室のドアが開いた。
「ちわーっす!」
「失礼しまーっす!」
「っすー!」
わざとらしい大声を上げながら三人の男子生徒が現れる。顔を見てドキッとした。隣のクラスのバスケ部だ。
声と態度が大きくてふざけてばっかりの問題児。クラスメイトでもない僕が噂で知っているくらいなんだから相当厄介な奴らだろう。
目を付けられたくなくて視線を問題集に落とす。大丈夫、何もしなければ何もされない。僕は他人だから。
三人組はどかどかと図書室へ入ってきた。足音がうるさいばかりかその内の一人はマイバスケットボールをバウンドさせながら歩くので、机が震える。なんて迷惑な奴らだろう。さっき見つけたばかりの問題の答えも見失ってしまった。文句の一つでも言ってやりたいけれど、首が動かない。僕は目を付けられたくないあまり、自分じゃ動けない人形になってしまったのだろうか。
「お、今日も絵本読んでんじゃん」
「ちょっとはひらがな読めるようになりまちたかー?」
「無理だよねー。全然成長してねぇもーん」
三人組は絵本を読んでいる彼女に絡む。口ぶりから察するに今日が初めてじゃないと分かった。
とっさに司書室へ視線を送るが無駄だと気づく。今日は職員会議。司書の先生も例外ではない。きっとあいつらはそれも分かっていてやって来たのだ。
吐き気がするくらい気持ちの悪い笑い声が響き渡る。彼女を取り囲む言葉の嵐はとても残酷で聞いているだけでも辛い。彼女の気持ちを考えただけで泣きそうになった。
「中学生にもなって絵本とかだっせぇ。頭おかしいんじゃねぇの?」
「これカタカナにもルビ振ってあるぜ。こうしないと読めないとかマジウケるんですけど」
「つか何この絵。気持ちわる。現実的にありえねぇし」
彼女は何も答えない。どんな表情をしてるかなんて、顔をあげる勇気すらない僕には想像すらできなかった。
三人組の一人が彼女のすぐそばでボールを床に叩きつけて脅かしている。もしかしたら彼女の持っている本を他の奴が取り上げているかもしれない。どうしよう。苦しくて息ができない。僕はこの場から消えてしまいたかった。
「ここ中学校だよ、ちゅーがっこー! わーかーるー?」
「絵本読むような赤ちゃんは保育園に帰ろーねー」
「お名前言えるかなー?」
わざとらしい声で煽り続けるも彼女の反応は薄い。
そのうちイライラし始めたのか乱暴に机を叩く音がした。思わず僕の肩がびくりと震える。追い打ちをかけるように彼らは怒鳴り散らす。
「無視してんじゃねぇよ!」
「シカトはいじめだと思いまーす」
「お兄さんの言うことが難しくてわかんないでしゅとか言えよ!」
どっちがいじめているんだ。怒りにまかせて吐き出したかった。
けれど僕は何も言えない。シャープペンがなよなよした線で問題集を汚すのを見ているだけだ。
窓の外の雨の音ももう聞こえない。図書室で暴れる嵐がうるさすぎる。
嵐が過ぎるのを家の中で待つ僕は外に咲く花のことなんて考えもしなかった。でも今は違う。一秒でも早くこの嵐がいなくなって欲しいと願い続けた。願うくらいしかできなくて、願ったから何もしなかったわけじゃないと言い訳をしている。
そのうちに僕の耳に嫌な音が聞こえた。
鈍いボールの音。絵本が机に叩きつけられた音。誰かの舌打ち。
「つっまんねぇー」
「ホント、冷めるわ」
「やることやったし帰ろうぜ」
「うぃっす。おつかれ、あとよろしくー」
来た時と同じようにドアが叩きつけられ悲鳴を上げた。途端、僕の動かなかった身体が動き、弾かれるように顔を上げる。
彼女は無言のまま席を立ち、僕に背を向けていた。反動で隙間の開いたドアを丁寧に閉める。
先程と変わらない静けさが帰ってきたのに僕はちっとも落ち着けなかった。心臓の音がうるさいし、頭の中にも心臓が出来たみたいにドクドクしてる。
なんだったのだろう、今のは。あまりにも理不尽だ。彼女は何も悪いことをしてないのにどうしてあんな目に合わなければいけないのだろう。彼女は正しい。あいつらが間違っている。そして何もできなかった僕も間違っているのだ。よそのクラスだし、彼女と接点も何もないけど僕が僕を許さない。この怒りの半分は僕自身への怒りだ。
勉強なんてとてもじゃないが手につかない。そればかりか周りのことすら見えていなかった。なにせ自分の席に戻った彼女が僕を見ていたことも気付かなかったのだから。
「ごめんね」
彼女からの第一声も僕に向けられた言葉だとすぐには分からなかった。
「あ、え……僕?」
すっとんきょうな返事をする僕に彼女はおだやかな笑顔でうなずく。
「騒がしくてごめんね」
改めて謝罪を口にする彼女へ、言葉よりも早く首を振って否定する。
「君のせいじゃないよ! さっきの奴らが全部悪い!」
「でもあの人達が来るのを分かってて私はここにいたから。ごめん」
「どういう、こと?」
疑問を口にしてから後悔した。こんなこと話したいわけないのに質問してどうするんだ。何もできないくせに。
彼女は気にした様子もなく四月の頃ね、と言葉を続ける。どこか他人事めいた昔話のような口調だった。
「委員会決めがあってさ、図書委員の定員が三人だったの。本が好きな私とその友達二人。それと楽そうだからっていう理由であの三人組も希望を出したからジャンケンになったんだ。勝ったのは私と、あの人達の内の二人。ボール持っていた人が負けちゃった人ね。それで、今日は図書委員の当番の日。と言っても当番表に名前書いたら私以外はすぐに帰っちゃうけど」
さっきの三人組が言っていたやることとは当番活動のことだったらしい。あんなののどこが当番活動だ。ふつふつと怒りが込み上げる。
「それならなおのこと、君は悪くない。誰が何を読んでいたっていいじゃないか。バカにされる筋合いなんてないよ」
今更になって言葉がすらすら出てくる自分が嫌になった。彼女に対して強気になっても傷つけるだけだ。本当に情けない。
彼女はのほほんとどこか曖昧に笑った。
「うーん。たしかにそうかもねー。でも私はあの人達がちょっと羨ましく思ってるせいか、強く言えないんだ」
「羨ましい? あれのどこが?」
「絵本を子供っぽいってバカにできるところ? それだけたくさんの絵本を子供の頃から読んでたんじゃないかな。実のところを言うと私は保育園児のときも小学生のときも読書なんてほとんどしてなかったの。外で走り回る方が楽しかったからね。それで今になって夢中で読んでる。変でしょ? 笑っていいよ」
自分で自分を笑う彼女の瞳にはあの三人組に対する怒りも悲しみも見つからない。強がりを言っているわけでもなく、本当の気持ちを話しているのだと分かった。
僕はそれ以上、踏み込むのが怖くなる。かといって勉強を再開するにもなんだか気まずい。彼女は平気なんだろうけどさ。
だから彼女が再び絵本を開くより先に、口が動いた。彼女を傷つけない言葉をとだけ考えて。
「今になって絵本を読み始めたのはなんでなの?」
「そっちは去年の二月……あ、学年が変わったから去年って言ってるけど数カ月前の二月のことね、家庭科の授業の一環で保育園実習があったでしょ。園児とペアを組んで半日過ごすだけの授業。私がペアになった女の子はね、外で遊ぶよりも絵本やおりがみが好きだったの。それで私にこれ読んでって一冊の本を渡してくれた」
彼女は自分が手にしている本をぎゅうっと抱く。絵本から喜びがあふれているみたいだ。キラキラしたカケラが図書室の空気を軽くする。魔法みたいだった。
「そしたらさ、わーって目の前が明るくなったの。記憶の中の宝箱が開いた感じ。その絵本は私が保育園児だった頃、誰かに読んでもらった絵本だったんだ。誰に読んでもらったんだろう。お母さんだったかもしれないし保育園の先生だったかもしれない。もしかしたら私みたいな実習生だったかも。すごく優しい声だったってことしか思い出せない。私はその時、絵本に夢中だったから」
嬉しそうに語る彼女の表情はとても可愛らしい笑顔ですごくきれいだ。少女漫画のヒロインみたいな瞳は僕には見えない素敵な物を映している。間違いなく僕が今まで見た何よりもきれいな瞳だ。その瞳に映る景色を彼女は語り続ける。
「私は外で遊んでばかりだった。自分でもそう思うし、私を知ってる人は皆そう言うと思う。でもね、その絵本だけはずっと好きだったの。今まで忘れていたのが不思議なくらい。大げさなんだろうけど、生き別れた自分自身と再会した気分。本当に奇跡だよ。だから私は今こうして絵本を読んでるの。もしかしたら私の忘れている私に会えるかもしれないし、どの絵本も素敵な世界が詰まっているからね」
心の底から幸せそうに語る彼女を見て、僕の心は洗われていく。
僕と彼女しかいない図書室は広い。その中には言葉にしたら薄っぺらくなってしまう夢とか希望とかが満たされている。僕は胸いっぱいにそれらを吸い込んだ。心が軽くなっていく。久々に息ができたと思った。僕はずっと呼吸がしたかったんだと気づく。
さっきまでのやり場のない怒りは吐き出した息と一緒にどこかへ消えてしまった。
僕は勉強なんて忘れて彼女の語る言葉に耳を傾けていたくなる。けれど彼女はしゃべりすぎたと思ったのかもう一度だけ、邪魔してごめんねと言うと絵本を開く。
名残惜しいとは思った。でも彼女は正しい。僕の本来の目的は勉強だ。僕は消しゴムで問題集に残っていた黒い気持ちを消すと再びシャープペンを握った。
それからは特に何事もなく時間が過ぎ、下校をうながすチャイムが鳴るまで僕は勉強に励んだ。帰り支度をしながら彼女の方を見ると、さっきまで読んでいた絵本を棚に戻しているところだった。図書室にある絵本はそんなに多くはない。おそらくは保育園実習とかで使う用なのだろう。彼女が手入れをしているのか埃っぽさの無い整頓された棚だった。
彼女へ何か一言声をかけて帰りたい。そう思いながらも言葉が見つからなくて、ただ彼女の背を見ているとくるりと彼女が振り向いた。
「よかったらまた来てね。あの人達もいつも来るわけじゃないから」
少しだけ寂しさのある笑顔に僕は小さくうなずき返す。
彼女と一緒に図書委員をやろうと言ってくれた友達はどうしたのだろうと考えると、すぐにあいつらの憎らしい顔が浮かんできた。彼女の友達もまた、あの三人組を恐れて来たくても来れなくなってしまったのだろう。彼女はたった一人でいつ誰かが来てもいいように当番をしているのだ。皆が忘れてしまった絵本と一緒に。
楽しさで膨らんだ風船のような気持ちはぺったんこに潰れてしまった。
風船を割った雨のように細い針は僕の心をチクチクつつく。
――痛い。
◆◆
次の週の水曜日。僕はずーっと悩んで悩んで悩みながらも図書室までやってきた。そっとドアを開けると先週と同じ席に彼女は座っている。僕がドアを閉めると、彼女は振り返ってにこりと笑った。軽く頭を下げると彼女は何も言わずに読書を再開する。無言の間に行われた会話はなごやかで彼女との距離が縮まったと感じた。
その日も図書室は彼女以外、司書の先生すらいない。僕は机を一列挟んだ彼女の正面の席に座る。彼女は先週とは違う絵本を読んでいた。なんだか安心感が満ちてくるのを感じながら勉強の準備をする。今日は塾で出されていた宿題を片付けよう。英作文だ。
今日も同じ雨の音。シャープペンの音。ページをめくる音。そして僕らの小さな息遣い。
この時間がすごく好きだ。会話はなくともそばにいて、同じ時間を過ごせるこの時間が。僕と彼女が同時にページをめくる音がして、なんてことないのに嬉しく思う。
それからしばらくして、視界の端で彼女が動いた。
それまで絵本の両端を持っていた手が上辺に移動して、腕全体で抱え込むように持ったのだ。
不思議に思っているうちに彼女の表情からおだやかさが消えた。少し遅れてようやく僕の耳にもあのやかましい音が聞こえてきた。
僕の来ないでほしいという願いも叶わず、ドアが叩きつけられ悲鳴を上げた。
「ちわーっす!」
「当番遅れましたー」
「さーせん!」
例の三人組。相変わらずバスケットボールで床を叩きながら入ってくる。ボールに罪はないと分かっていても僕はバスケットボールがすっかり嫌いになっていた。
三人組は当然のように彼女を囲み、嫌な言葉を吐き出し始める。
「きょーもえほんでしゅかー?」
バカにした赤ちゃん言葉。そんなもの必要ない。彼女は絵本に対しての気持ちをきちんと言葉にできる人だ。この場の誰よりも言葉とふれあっているのは彼女なのに。
「お兄ちゃんが読んであげましゅよー」
彼女の絵本を掴んでゆする。本の持ち方を変えたのはこの為かと、彼女のささやかな抵抗に悲しくなった。
「えほんの時間はもうおしまーい。今からボール遊びでしゅよー」
バスケットボールが彼女の肩にぶつけられる。投げた奴とは別の奴がキャッチして、今度は彼女の手の甲にぶつけた。絵本が床に落ちた。
瞬間、僕の中で怒りが頂点に達する。
「やめろよ」
僕が立ち上がると、三人はにらむように僕を見た。
「誰?」
「知らねー」
「バカ?」
雑音なんか少しも怖くない。彼女の笑顔がもう見れなくなると考えた方がずっとずっと怖い。
だから僕はにらみ返す。感情に任せてキレたらバカにされるのは分かっている。精一杯声を低くして、相手に怒りを伝えるのだ。
「お前ら少しは大人になれよ。子供じみた真似すんな」
「はあ? 俺ら中学生ですけど?」
「大人とか何年先?」
「頭おかしいんじゃねぇの?」
こっちの怒りを煽るような言葉に抑えている感情が込み上げてきた。こういう時どうすればいいかとか全く分からない。学校で教えてくれたらいいのに。僕は知っている言葉をなんとか意味が通じるように並べて読み上げる。
「頭おかしいのはそっちだろ。ここは図書室だ。ここにある本は誰が読んだっていい。その子がバカにされていい訳ないんだよ」
「だっておかしいじゃん。絵本だぜ?」
「赤ちゃんが読むものだろ? それを中二が読んでるの変ってか気持ち悪いわー」
「俺達の方が大人だから助けてんだよ! 善意だ善意!」
予想もできなかった言い返しに僕は驚いた。
なんだこいつら。同じ人間とは思えない。
本当にこいつらは嵐なんだと思った。彼女のことなんてこれっぽちも分かってない。理解するつもりもないんだ。自分達がやりたいように屁理屈をこねてるだけ。誰かを傷つけている自覚もなく、自分達が楽しいからそうしているだけなんだ。
きっと僕が何を言っても通じないんだと思う。でも、それでも僕は逃げたくなかった。ここで逃げたら彼女に二度と会えなくなる気がしたんだ。
「絵本の何が悪いんだよ! 絵本は全部、大人が子供の為に作った物だ、大人から子供へのメッセージだ。それを受け止めて理解しようとしているのを邪魔するな。正しい大人になる為に絵本を読んでるその子の方がよっぽど大人だ! バカにするな、奪うな、傷つけるな!」
思わず叫ぶ。感情のおさまりがつかなった。三人組はポカンと口を開けていたが、すぐにへらへらと笑いだす。やっぱりこいつらには何も通じないのだ。
恥ずかしさと怒りで顔が熱い。たぶん赤くなっているのも笑われてる。でも負けたくない。目を逸らしたら負ける気がしてまばたきも我慢した。
今更になって恐怖とかがじわじわ込み上げて僕の膝をゆする。
僕は間違ってるとは思ってない。正しいことをする彼女と同じく、僕も正しくありたいんだ。
三人組が僕の元へ歩いてくる。彼女の心配そうな顔に胸が痛んだ。彼女に笑ってほしいのに僕が弱いせいでそんな顔をさせてしまう。
僕へ、正確にいうなら僕らへかけられた一言は刃物みたいにとがっていた。
「図書室では静かに。中学生にもなって注意されなきゃ分からないの?」
「あっ……」
声の主は図書室の入り口で腕を組んで立っている。司書の先生だ。接点が無いとはいえ、さすがに顔くらいは知っていた。
先生は氷のような声で炎のような怒りを言葉にする。
「ここの真下は職員室。今は大事な会議中よ。上で騒いだら邪魔になることくらい分かるでしょう?」
言葉は静かなのに怒りが詰まっているのがよく分かった。三人組なんかより百倍怖い。僕はこういう怒り方をしたかったのだ。なんだ、先生ってちゃんと教えてくれるじゃないか。
「すいませんでしたー」
「けど、俺らは騒いでませーん」
「この人が騒いでたから注意しただけでーす」
三人組は同時に僕を指さす。打ち合わせもなく平然と罪をなすり付けてきた。なんて奴らだろう。でもここで怒鳴ったりしたら三人組の思うつぼなのでぐっと唇を噛んでこらえた。
先生は僕と三人組を交互に見た後、大げさにため息をつく。
「ボールをバウンドさせて遊んでいたのは誰? そのボールは誰の? それから騒いでいるのは今日だけじゃないでしょう。君たちが指をさしている人は図書室の常連さんじゃないわ。見え見えの嘘はやめなさい」
三人共、顔をしかめたまま互いに目配せをする。分が悪いと思ったのだろう。ややあって一人がわざとらしく肩をすくめた。
「帰ろうぜ」
三人組がぞろぞろと図書室を出ていく。僕の視線が届かなくなった先で先生が彼らを呼び止めた。
「待ちなさい。あなた達の内、二人は図書当番でしょ。それにボールの持ち主は残りの君ね? 三人共職員室へ来なさい。今なら全教職員もそろっているし、ゆっくりとお話しをさせてもらうわ」
絶望する三人の顔が思い浮かぶ。直に見なくてよかったかもしれない。あいつら、僕が笑ったと分かったら何をしてくるか分からないし。
先生は一度だけ僕らへ微笑みかけると優しくドアを閉めた。四人分の足音が遠ざかり、やがてすっかり聞こえなくなる。
彼女はようやく床に落ちた絵本を拾い、そっと抱きしめた。それから僕の前へやってくると深々と頭を下げる。
「どうもありがとう。えぇっと、すごく格好よかったです」
「僕は大したことできなかったよ。先生が来なければ今頃どうなっていたか……」
彼女は静かに首を振って否定した。波のように揺れる髪は彼女の瞳と同じ色。動きに合わせてキラキラ輝くのもよく似ている。
つやのある唇から出てくる言葉は僕の心を優しく包む。
「私はあなたに解決してほしいだなんて図々しいこと望んでなかった。ただ、あなたがあの人達に言った言葉が嬉しかったの。ねぇ、あなたって絵本が大好きなんでしょ? あんなに素敵なセリフ、愛がなければ言えっこないもの!」
はしゃぐ彼女と反対に僕は静かな喜びに満ちていた。難しい問題の答えがたった一言で解決できたのと同じ。愛という一言が僕の胸にストンッと納まった。
僕は絵本に対して愛にあふれているわけじゃない。けれど彼女が好きだというものを一緒に楽しめたらいいと思うし、バカにされようものなら怒りもする。僕の叫んだ言葉だって嘘がない、心の底から言った言葉だ。だから愛がなければ言えないセリフを言えたのは絵本じゃなくて彼女に対して――……。
目の前が明るくなっていく。彼女が忘れていた絵本と再会した時もこんな光を見たのだろうか。あぁそうだ。かけがえのないものはこんなにも輝いている。
「あのさ、本当は僕、絵本のこと詳しくないんだ」
僕は正直に言った。嘘なんてついて後からバレて嫌われたくないから。ありのままの僕を知ってほしいから。
彼女はまばたきをして、僕からの続きを待っていた。ありがとう。ちゃんと言葉にできるから大丈夫だよ。
「でも絵本のこと、すごく興味がある。おススメがあったら教えてほしい。絵本って勉強の合間の息抜きにちょうどよさそうだしさ。お願い」
彼女はにこりと笑ってうなずく。絵本を腕に抱えたまま、そっと手を合わせる。私からもお願いっと僕へ向かって小さく頭を下げた。
「今度はいつ図書室へ来るか教えてほしいの。実はね、あの三人のこともあるしもう来ないのかなって、この一週間ずっとへこんでた。でも今日あなたが来たら、へこんでたのが嘘みたいに嬉しくて幸せになったの。今度からはもっと明るい気持ちであなたを待っていたい」
言われてハッとする。毎週水曜日に来ようとか、僕の勝手な都合だ。彼女に分かるはずもない。悪いことをしたと反省しながらもなんだか嬉しかった。僕を待ってくれたんだ。
考えれば考えるだけ僕らは互いの事を知りたくて知ってほしいと思っている。何から伝えればいいか考えて、それからすぐに答えが見つかった。思わず笑ってしまう。
僕らは何よりも最初に伝えるべきことを伝えていなかった。いまさら面と向かっていうのも恥ずかしいけれど仕方ない。さっき使った勇気はまだ僕の胸の中。最初の一歩を踏み出す分は残っている。
「僕から言うよ」
彼女もすぐにピンと来たようだ。そういえばそうだよねと僕と同じように笑ってから、まっすぐに僕をみつめてその時を待つ。
図書室中の本が僕らのやりとりをそっと見守っている気がした。傍にある僕の問題集にあった言葉がふと頭をよぎる。人生は一冊の本であるって本当にそのとおりだ。
問。
僕と彼女との恋の物語がすでに始まっているとしたら、今ようやく自己紹介をする僕らは何ページ目にいるのだろうか。
END