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第一章 混迷

 良和は光石学園高等部に入学した。光石学園は中高一貫校であり、高等部生は附属の中等部からそのまま上がってくる内部生がほとんどで、外部の中学校から入学する生徒は一クラス分しか募集しない。良和はその一クラスに入ることとなった。彼は市立蛍成中学校の出身である。この春に光石学園に蛍成中学から進学したのは良和一人である。

中学校の教師たちの歓喜の声と、同級生たちの羨望の眼差しを、常に背後にあるものとみなしつつ、良和は光石学園の構内を歩いた。ほとんど選民の気分だった。学校の設備を、一々中学校より格段に洗練されたものだと評するのに忙しかった。一方で、同じ入学生たちが、大した驚きも見せず、のんきに談笑しているのが信じがたかった。違和感を覚えつつ眺めていると、正体のわからない不安が良和の呼吸を浅くした。入学式では、一番入試の成績が良かったらしく、良和が高校入学組の宣誓文を読まされた。こうして良和の高校生活が始まったのである。

 入学式の終わった晩に、徳田から良和に某メッセージアプリで連絡があった。徳田宗彦は良和の小学校の同級生で、光石学園中等部に進学し、高等部では1年4組に進級したのである。彼からのメッセージは「谷川ちゃん!高校でもよろしくな!小学校同じだった奴が高校から入ってくるとかマジ変な感じ。学校の紹介は俺にまかせろ」とあり、返事を返す前にもう一つメッセージが届き、「学校の紹介するから明日から俺らと一緒に昼飯食おうぜ!」と書いてあった。良和はこのやたら騒がしくテンションの高い男に久しぶりに辟易しつつ、「ありがとう。わかった」と返したのである。

 次の日学校では午前中は高校の内部生と外部性の顔見合わせの会と体育祭のチーム分けが体育館で行われ、午後は学級委員や委員会、係決めのためのロングホームルームがあった。この学校は授業が月・火・木曜日は7時限分あり、水・金が6時限分という時間割なのである。この日は水曜日であった。授業時間は問題なく過ぎた。良和は何の因果か保健委員になったのであるが。問題は昼休みだ。高校入学組の1年5組では、初めての昼休みということで、なんとなくグループのでき方と動向を皆が探りつつ話を始めていたのであり、良和は前の席の曾木という男子となんとなく話し始めていたのだが、その時突然教室の前の扉から

「谷川ちゃん!谷川ちゃん!」

という声が響いたのである。教室は一瞬静まり返った。声の聞こえた方を見てみると、教室の前の扉に徳田が立っていて良和の方を見て嬉しそうに手を振っていた。良和は、とりあえず曾木に

「じゃあ・・・俺行くわ」

と震える声で言い、皆の視線を集めながら教室を出ていく羽目になったのである。

 徳田は

「谷川ちゃん久しぶり!昼飯は4組で食べるんだぜ!俺の友達紹介するぜ」

と言った。SNSなどでは連絡を取り合っていたが、久しぶりに近くで見ると、当たり前のことだが、徳田は小学校の頃より背が高くなり、体格は立派になり、顔にはニキビが目立つようになっていた。声も聞き覚えのない低音だった。良和は苦笑いしながら

「久しぶりだな。相変わらず元気そうでよかった」

と挨拶した。ちらりと確認すると、教室は元のざわめきを取り戻していた。良和はその瞬間、このまま徳田についていって教室を離れたら、皆はそれなりに打ち解け合うなかで自分だけ新しいクラスから取り残されてしまうのではないかと不安になった。だが、徳田は

「弁当持ってきたか?食堂もあるけど俺ら皆弁当派だから・・・」

などと話しつつ4組の方へ歩き出してしまい、良和は困惑のなかでついていくしかなかった。

 4組の教室へ入ると、まず部屋の奥に向かい合わされたいくつかの机と、こちらを見ている3人の男子生徒が目に入った。そのほかには、離れたところで女子が何人か椅子に座って話していたくらいで、ほとんど人がいなかった。

 良和は戸惑いがちに教室をぼんやりと眺めていたが、徳田はいつの間にか部屋の奥の机のところに行って、

「こっちこっち」

と良和を招いた。近づいてみると、机は後ろの席を2組左右に向かい合わせ、その前の一つを後ろ向きにして組み合わされていた。良和はその後ろ向きにされた机を当てがわれた。

侵入者の気分だった。席に座ると、自分を見つめている3人の視線がもろ自分の顔面にぶつかるのを感じ、居心地の悪さを感じた。

「これが谷川ちゃん。チョー頭いいの。マジウケルよ」

薄笑いとともに紹介された良和は、

「蛍成中学からきた、谷川良和です。皆よろしく…」

となるべく愛想よく言った。左奥にいた男子が、古参者らしい余裕を漂わせつつ

「俺らも自己紹介する?」

と言った。

「じゃあお前からしろよ」

「いいぜ。皆もしろよ? 俺、田口健介。バレー部ね。オタクだけど引かないでね、谷川君」

「いや引くと思うよ」

右奥の男が笑った。「次は?」

「次は豊島」

徳田はどこへ行っても相変わらず皆のリーダー格なのだと良和は察した。右手前にいた、豊島と呼ばれた男子が

「俺は4組の豊島淳一。水泳部員だけど、それよりネット好きで有名かな。ぶっちゃけツイ廃。フォロワーは自慢じゃないけど2000人越え。谷川君も相互フォローよろしく」と言った。そして、良和が某SNSサイトに登録しているか尋ねてきた。良和は

「フォロワーすくないけど一応・・・」

と答えた。するとすかさず豊島は、徳田に良和のアカウントをフォローしているか尋ね、その場でスマートフォンを取り出し、徳田のフォロワー一覧から良和のアカウントをフォローした。良和もフォローバックした。正直2000人には驚いた。どうすればそんなにフォローされるのか見当もつかなかった。そんな良和をよそに、自己紹介は続いた。徳田が、「俺のことは知ってるだろうから、最後は細野に締めてもらいましょう」

と言った。すると、左奥にいた男子が

「俺は細野敏夫。サッカー部でスタメンやってんの。5月の試合見に来いよ。で、3組だぜ」

と言った。徳田が

「こいつめっちゃ走るの速いんだぜ。バカだけど」

と笑いながら補足した。細野は

「俺ぶっちゃけ頭悪いけどサッカーで勝負してるから。とにかく試合見に来いよ、谷川君」と言った。田口と豊島も少し笑った。良和は反応に困った。仕方なく

「了解」

と苦笑いしながら言った。

 言い終わってから、良和はとりあえずこの徳田以外の3人は最優先で顔と名前を一致させなければならないと自分に命じた。自己紹介をした順に、こっそりと風貌を観察した。初めに自己紹介をしたあの左奥の男は田口というらしい。顔はこの中では良い方で、善良そうだ。右手前は豊島とか言ったかな。顔はほっそりしている。・・・その他の特徴はなんだろう。左奥の細野とかいうのはサッカー部員か。かなり短髪で・・・日焼けしているな。特徴は・・・。

 良和が考えている間も他の者の会話は進んだ。田口が

「なあ、谷口君のこと苗字に君付で呼ぶの嫌なんだけど。よそよそしくて」

と言った。豊島が

「じゃあなんかニックネームつける?」

と返した。細野が

「良和だから、よっちゃん?」

と問いかけると、徳田が

「よっちゃんじゃいけねえよ。ありきたりすぎて」

と一蹴した。すると田口が

「黒縁眼鏡かけてるし、〝ローレンス〟でどう?」

と言った。すかさず細野が

「いいよ『パド』の話は」

と嫌そうに言った。良和はなぜ黒縁眼鏡だと〝ローレンス〟なのかわからなかった。確かに自分は黒縁眼鏡をかけているが・・・。そんな良和をよそに、田口は

「でも〝ローレンス〟ってかっこよくない?もう俺この黒縁眼鏡を見た瞬間から〝ローレンス〟にしか見えないよ」

と言った。徳田が

「じゃあ〝ローレンス〟で決定ね。谷川ちゃん、〝ローレンス〟でいい?」

と聞いてきた。良和はやっと自分がしゃべれる、と安堵して質問した。

「なんで黒縁眼鏡だと〝ローレンス〟なの?」

すると田口が意外そうな顔をした。

「〝ローレンス〟知らない?『パッションドロップ』の」

「ああ、『パッションドロップ』、漫画の・・・」

確かそんな漫画のことを妹や中学校の同級生が話していた。しかし、良和が知っているのは題名くらいであった。田口が更に尋ねてきた。

「読んだことある?」

「いや読んだことはないんだ。聞いたことがあるだけ」

「その『パッションドロップ』に、ローレンスって奴が出てくるんだけど、そいつが黒縁眼鏡をかけてて、有名なんだ。谷川・・・いや、もうローレンスと呼ぼう。ローレンスも『パッションドロップ』読みなよ。貸してあげるよ。俺は主人公の幸代が好きなんだけど」

と目を輝かせて続けようとするのを、細野が

「ケンちゃん幸代トーク自重!」

と遮った。一瞬間があって、良和は2つ目の質問として

「皆は、ニックネームで呼び合っているの?」

と聞いてみた。すると、4人は目を見合わせて、きまり悪そうに笑いはじめた。徳田が

「いやあ、俺ら意外と苗字だよな。田口はたまに『ケンちゃん』だけど」

と笑いながら言った。良和は窮したが、つられて少し笑った。昼休みはそれで終わった。

 それぞれ部活があるために、徳田のグループは、放課後は集まらないらしかった。5組では皆それぞれ一緒に帰る相手を探したり、雑談したりしていた。女子は特に大人数で輪をつくり、グループの形成状況を探っているようであった。良和がそのような光景を眺めていると、前の席に座っていた曾木が、

「お前、このクラスのグルチャに入った方がいいぜ。昼休み学級委員が作って皆入ってたぜ」

と教えてくれた。

「ああ、わかった・・・お前、歩きで帰る?」

一緒に帰る者ができたら良いと思った。

「俺は電車で帰るんだ。草後に住んでる」

良和は落胆した。良和の住むアパートは駅とは反対方向なのだ。良和は誰か他にいないかと周りを見渡してみたが、誰も良和に気づく者はなかった。良和は一瞬悲しく目を閉じて、一人で帰路についた。

 帰ってから、ベッドに横になって、疲れとやりきれなさを覚えたが、良和にはやるべきことがある。去年の9月の文化祭で見た、「春の歌」の作者の中山静という子のことを徳田に聞いてみることである。初対面の、しかも複数いる同性の前で女の子について尋ねられるほど良和は大胆ではなかった。徳田とは結局二人きりになる機会を得られなかったので、記録が残るのも恥ずかしいが、某メッセージアプリで聞くことを決めた。そのアプリを開いてから、今日新しいクラスのグループチャットに入りそびれたことを思い出した。良和は、またしても新しいクラスの仲間入りに出遅れたと悔しく思った。しかし、それより中山静という女の子について聞くことが重要であった。グルチャには明日入れてもらおう。良和は意を決して徳田にメッセージを送った。「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」と。すぐに返信が来て、「その前に俺らのグルチャ入んなよ」と書いてあった。そして招待され、良和は参加した。グループ名は「昼飯」であった。そして、徳田からグループチャットではなく個人チャットで改めて「何を聞きたいんだ?」とメッセージが入った。良和は「中山静ってどんな子?何組か知ってるか?」と尋ねた。徳田からは「なんであんな奴の名前知ってんの?」と返ってきた。そしてすぐに「高等部にあがってクラス替えがあったばっかだから、何組か知らんけど、あんな奴と関わらない方がいいよ。ぶっちゃけ不良だぜ。ちょっとばかり絵がうまいからって調子に乗りやがって。昔は女子にモテてたみたいだけど、あんな奴今はもう誰も相手にしねーよ。ローも近づかない方がいいぜ」と返ってきた。良和は混乱した。すぐに、「女子にモテてたって、中山静って男なのか?」と送った。すると、「男だよ。素行の最悪なバカ。なんであんなのがうちの学校にいるんだろ」と返ってきた。

 良和はぐたりと倒れた。あの学校に入ることに決めたのは、半分以上あの絵を描いた素敵な女の子と仲良くするためだったのに。不良でしかも男だなんて最悪だ。と落ち込み、俺の人生の希望の一つが潰されたとすら考えた。部屋は静まり返り、時計の秒針の回る音だけ響いていた。何も起きないいつもの空間には良和の失望が波紋となって広がっていくかに見えた。そんな波紋の中心でしばらく天井を見上げていて、ふと先ほどの徳田からのメッセージを見て、無意識のうちに覚えた違和感が頭に浮かんだ。もう一度見てみると、「ローも近づかない方がいいぜ」と確かに書いてある。ああそうだ。俺はローレンスとかいうあだ名をつけられたんだっけ。皆は苗字で呼び合っているのに、なんで俺にだけあだ名をつけるんだよ。まあいいけど。でもいきなり略すか?普通。良和は当惑と照れくささを覚えた。少し笑っていると、台所から「ご飯だよー」という母の声が聞こえた。

 翌日ようやく良和は自分のクラスの某メッセージアプリのグループチャットに参加した。良和以外は全員前日にグループチャットに加わっており、良和は明らかにクラスの輪に入るのに出遅れていた。良和はいささか疎外感すら覚えた。しかし、他のクラスメイトは良和を他の者よりおろそかに扱っていることに気づいていないのである。更に言えば、半ば良和の存在に気づいていないのである。中学時代の良和は生徒間の世界では、権力こそは手にしていない大人しい存在であったが、その成績の良さにより、一目置かれた存在ではあった。試験の度に賛辞の言葉をかけられた。それは少々一部の生徒に妬まれる原因ともなったのであるが、とにかく良和は名の知れた優等生として通っていたのである。その知名度が、高校入学とともに消え去り、良和はもはやその他大勢の中の一人にしかすぎなかった。これは良和もある程度は予想していたことであったが、実際に味わってみると、考えていたよりもずっと明白で厳しい現実であった。誰にも知られていなければ、存在しない位も同然だと恐怖した。しかし、知名度という点のみにおいては、その現実は数日後に一変することになるのだが。

 原因は中学の頃と同様、試験であった。良和が一足遅れてグループチャットに参加した日のさらに次の日は、高校入学直後のテストであったのだ。真面目な良和は、春休みの間も毎日勉強していた。厳密にいえば、良和を机に向かわせた一番直接な原因は、この高校入学直後のテストで悪い点を取ってバカにされるのが嫌だという、名誉欲であったから、無欲に努力したというわけではないのであるが、その程度の利己的な欲求を全くもたない者がどれくらいあるだろうか。動機はともかく、入試から解放されても怠けることもなく勉強を続けたことは、少なくとも他者から見れば十分に「真面目」な態度なのであった。

 そうしてテストの日を迎えた良和であった。本格的な定期試験と異なり、一日で終わるものだ。良和は緊張して、頭の中がかき混ぜられるようなあの感覚を、入試の時と同様に覚えた。個々の雑念はそれぞれが叫び声をあげ、感情は脳内をめちゃくちゃに走り回っていた。今回のテストはどれくらいのことが問われるのか全く予測できなかった。しかしながら、このテストの出来具合はそのままこのクラス、この学年での自分の位置を表すのであろう。そして教師達の自分への評価も少なからず決定づけるのだ。と良和はプレッシャーを自分に与えた。良和にとって、勉強面での自分の評価は何よりも重要なものであった。切迫した状態であったが、いざテストを受けてみると、入試より簡単だと良和は感じた。窒息しながらひとつひとつ目を通した問題も、良和を絶望させることは一切なかった。テストが終わると良和は朝の緊張も忘れ、現金にものんきな気持ちになったのである。帰りのホームルームで、来週の月曜日にはテストの結果が発表になるだろうと担任が言っていた。

 休日はどっと疲れを感じた良和であった。慣れない環境で3日間過ごし、心身ともにストレスが溜まっているようであった。しかし、そのような中でも新しいクラスのグループチャットでは見えない大勢の相手とのそれぞれの探り合いが続いていた。良和は、ごくわずかに、無難なところで無難に発言できただけであった。この時点では良和は相変わらず地味で目立たない存在であった。

 月曜日になって、休日に疲れとストレスを解消しきれなかったことを感じながら、良和は、またあの気分の落ち着かない教室に入った。ところが、朝のホームルームで良和の状況は一変した。担任が、

「先週のテストで、とても良い成績を収めた生徒がいました。このクラスの谷川良和君です。谷川君はこのクラスでトップの成績でした。数学と英語を別とした内部生と共通の科目では学年トップです。学年の先生方もこのような優れた成績をとる生徒がいたことに驚いたくらいでした。皆さんも谷川君を見習って勉強しましょう」

と言ったのである。数秒かけて、クラスのほぼ全員が良和の方を盗み見た。そして少し囁き合う声が聞こえた。良和自身は、あのテストそんなにできていたんだ・・・。と少し驚き、恥ずかしさと照れの混じった当惑を覚えた。そして、クラスの全員の視線を感じながら、あの贅沢な「困惑」を感じた。中学時代の試験後と同じ、目立ちたくなくても目立ってしまうあの「困惑」は久しぶりに感じられたものであった―その本当のありがたみが分かるのは、何年先になるのだろうか―。

授業前に、曾木は前の席から後ろを向いて、

「お前すげーな。一気に有名になるぜ」

と予言するように言った。そしてその予言は的中するのである。休み時間にはクラスのあちこちから

「あれがクラストップの・・・」

とか

「出来る奴っているんだな・・・」

とか、良和の方を見ながら囁くのが聞こえた。良和は悪くない気分であったが、どんな仕草をすれば良いのかわからなかった。とりあえず、気づかないふりをして新品の教科書を読むふりをしていた。

 昼休みに4組の教室に入り、徳田たちのところへ行くと、徳田も、田口も、豊島も、細野も、皆口々に

「ローちゃんすげーな、成績良かったんだって?」

「マジすげー!」

「秀才だな」

「やっぱローちゃん只者じゃなかった」

などと褒めた。あまりにみんなではやし立てるので、誰がどのセリフをいったのか良和は判別しきれなかった。どう返答をしたら良いか困ったが、苦笑いをして

「どうもありがとう・・・」

と何回か答えておいた。

ひと段落して、徳田が

「まあ俺らも頑張っぺよ」

と言ったのは良和にも確認できた。すると、細野が

「俺は光石入ってから成績のことで褒められたことないからマジでうらやましいよ。俺なんてホントもう・・・」

と言って笑った。徳田が話を振った。

「おい細野、いつも話すあれローに教えてやれよ。あの理科の悲劇」

「ローちゃん俺の悲劇聞きてえか?」

「どんな悲劇?」

良和が尋ねると、細野はおかしくてたまらない様子で語りだした。

「中二の時よお、後期の期末試験があったんだけど、理科の試験の時間、俺問題用紙見たんだけど、一個もわかんねえの。ホント、一個もだぜ。でもよお、最後一番後ろの奴が答案集めんだろ?そんとき答案真っ白だったら恥ずかしいじゃん?あんまりみっともないから、答えの欄を「縦」とか「横」とか「高さ」とかよお、小学校の算数のテストに出てくるような単語を書いて一応全部埋めたんだよ。それで答案真っ白で集める奴によっぽどのバカだと思われんのは避けられたと思って、とりあえずホッとしたんだけど、先生を怒らせちまったみてえで、返却されたら、答案の一番下に「不勉強!」って殴り書きされてたんだよ。マジ悲劇だろ?」

細野が話している間、他の3人はクスクス笑っていた。良和は、

「それは気まずいな」

と苦笑いして返したが、正直この細野という男子に軽蔑の念を抱いた。どれだけ準備を怠ったら、試験問題が一つも解けないなんてことになるのだろうか。授業は聞いていなかったのか?ノートとかとらないのか?良和は、そんな無駄な見栄を張る細野も、その話を笑って聞く他のメンバーも、彼の価値観とは接触しない、遠くの方に各々の認識を持っているのだと感じた。しかし、この者たちの前ではそんな違和感を表に表すわけにはいかないのであった。良和は本音と建前に著しい差を生じさせながら、これから先この学校で生活しなければならないことを予感し、密かに不愉快と恐怖を覚えたのであった。

 その予感は良和の想定以上に的中した。自分のクラスでは、昼食時には不在であり、某SNSサイトのグループチャットでも気の利いたことを言えないばかりか、あまり発言すらできない良和は、接し方のわからない存在であると認識されていたし、なまじクラストップの成績など取ってしまったために、更に理解をする気になれない、妬ましくすらあるものとされてしまったのである。良和の知らないところ―例えば良和の行ったことのない学校食堂など―で1年5組の生徒の会話で良和のことは時折話題に上り、

「成績良くてもあんな不愛想じゃ・・・」

「内部生の連中としか仲良くしないしな・・・」

などと陰口を叩かれることもあったのである。彼らの評価は、良和の中学校の同級生よりもはるかに冷淡だった。

 グループ「昼飯」では、中学時代をともに過ごした仲良しのメンバーと、ほとんど初対面だった良和が同じだけ親しく分かり合えるわけもなく、良和は毎日ほとんど一人で弁当の中身を黙々と口に運んでいた。弁当を食べ終えると、良和はいよいよ手持無沙汰となり、雑談を続けるメンバーの中では適当な表情の浮かべ方すらわからなかった。ある日を境に、良和は昼食を終えるとそうっとメンバーから遠ざかって、こっそり4組を脱出し、残りの時間を自習室で勉強して過ごすようになった。良和はいなくなったことに気づかれていないと信じていて、その工夫を「消える技術」と自分の中で名付けていたほどであった。しかしもちろんグループのメンバー達には気づかれていた。自分たちの話しているうちに、段々後ずさりする良和を最初は不思議に思っていたが、それが毎日続くと、何となく察するようになった。一緒にいたくない者を無理に引き留めるわけにはいかず、かといってそのことを本人に問いただすのも気まずいので、良和がいなくなると、

「また行ったな」

「まあ仕方ない」などと困った顔で話し合っていたのであった。そのような無礼な良和を責めたりしないのは、このグループの良心なのではあったが・・・。

 良和はこのように孤独な日々を過ごしていたわけであるが、彼の思考は決して友人関係を思い悩むだけに使われていたのではない。彼の頭の中にあった一番の関心事は勉学であった。ごく幼いころから勉学こそが彼の人生の中心であったといっても過言ではない。彼は他の者と違って、不思議と勉強を苦痛なくいくらでも続けることができた。時には快楽ですらあった。特に理系科目が得意で、化学が一番好きであった。中学生のころに理科で元素の周期表と化学式を習った時には、彼は感じたことのない胸のときめきを覚えたものである。あの完成され、静かに均衡のとれた記号の式に、良和は無限のロマンを感じるのだ。彼の将来の夢は化学者になることである。あの化学記号と式を一生追及して生きていけたら! 良和はその志を心の中心に常置させ、花に水をやるように夢を毎日育てていたのである。

 学校での居心地は確実に悪くなっていきながらも、表面上は目立った動きもなく2週間ほどが過ぎた。その日も良和は昼食を終え、「消える技術」を使って自習室までやってきて、勉強を始めようとした。化学の自習用ノートを開いてみて、良和は昨日の晩の勉強中、わからない部分を見出したのを思い出した。もう一度考えてみたが、それでもわからなかった。これは先生に聞きに行こうと決心した。化学の教師は理科塔という、実験室や理系教科の器具が置いてある建物にいるはずであった。今いる校舎からはロビー(と呼ばれる中庭)を通っていけばいいのだと、良和は頭の中で地図を思い浮かべた。そして3階の自習室を出て、階段を下り、ピロティ―まで出た。昼休みに校舎から出るのは初めてであった。

 ピロティ―を出て、低い階段を上がると、見たこともない、昼過ぎの高く日の差す明るいロビーが目に入った。ロビーは赤褐色のレンガが敷かれていて、端には生垣の葉が照らされて光っていた。晩春の空は青く澄んでいて、まばらに雲が流れていた。手前には大きな木が植えられていて、自らの大きな影をレンガの地面に落としていた。良和は詩的な性格ではないが、この風景は中々上品だと思った。ああ俺は、本当に光石に入ったのだ。こんなモダンな敷地を自分のものとしてこれから生活していけるのだ。という晴れ晴れした気持ちになった。そんな嬉しさを感じながら、生徒は意外といないんだなと周りを見回しつつ中央の木の近くへ行くと、良和の思考は急に停止した。木の影の下に、一人の謎の人物が椅子に座って何か手を動かしていたのだ。よく見ると、絵を描いていた。謎である理由は、彼の髪の毛は明るい金髪であったからだ。それにも関わらず、光石学園高等部の制服を着ていた。この学校では染髪は禁止で、金髪はもちろん茶髪の生徒すら見たことがなかった。教師に見つかれば、即座に注意されるはずである。良和は後ろから、金髪と、着ている制服という明らかに矛盾している両者を交互に見つめて、その組み合わせの謎を解こうとしたが、どう考えてもおかしいという結論しか得られなかった。少しの間固まっていた良和であったが、謎の金髪が気づいて後ろを振り向きかけたので、一気にダッシュしてその場から離れた。走りながら、頭の中で恐ろしい方程式が浮かびあがるのを認識した。金髪=不良、不良は恐らくこの学校に一人。つまり、あの金髪=中山静=例の絵を描いた人物。高校に入学して2度目の大ショックが待っているのかと思うと、冷や汗が出て、胃のあたりが重くなった。結局化学の質問に行く気になれず、そのまま校舎に戻り、1年5組の教室で呆然として昼休みは終わった。

 放課後家に帰って、夕食を食べ終えると、良和は自分の部屋で覚悟を決め、徳田に、「昼休みにロビーの木の辺りで絵を描いている奴がいたんだけど、もしかしてあれは中山静かなあ」と某メッセージアプリで聞いてみた。徳田からは「たぶんそうだ」と返ってきた。「どれくらいの確率で?」と食い下がると、「十中八九中山だよ。昼休みに木の絵なんか描いているバカはほぼあれ一人だ」と返ってきた。良和はみぞおちにストレートパンチが命中するのを感じた。ベッドに倒れこんで、深いため息をつき、スマートフォンを持った手首を回して表裏を眺めてみた。そしてまたしても深く息を吸い、今度は短く吐いた。全く面白くない。あの美しい絵を描いたのは、あの不審な不良で、俺の期待した清楚な女の子とは一ミリも一致しない。そのように嘆いてみると、どんどん今の生活への不満が浮かんできた。昼休みはグループ「昼飯」の談話を黙って観察することしかできない。そのせいでクラスの連中とは仲良くなれない。グルチャでもうまく発言できない。どうして俺はあんな高校に入ったんだろうか。いつまでこんな孤独が続くのだろう。気分が悪いので、この日良和はいつもの勉強もせずに入浴して眠ってしまった。

 次の日、いつものように午前中の授業を終えて、4組へ行くと、皆いつになく良和を見つめて黙っていた。席に着くと、田口が

「ローちゃん、今日は実は謝りたいことがあるんだ」

と真面目な顔で言った。普段「消える技術」を使っている良和はギクリとしたが、平静を装って

「何のこと?」

となるべく軽く聞いた。田口は、

「実はさ、俺ずっとローちゃんに申し訳ないと思っていたんだ。昼休みは俺らばっかりしゃべっててさ、ローちゃんにあんまり話振れなかったよね。置いてきぼりにしちゃってたかなと思うよ。何せ初対面だからローちゃんがどんな趣味をもっているのかとか、何に興味があるのかとか全然わかんなくてさ、何を聞いたらいいかわからなくて・・・。いや、こんなこと言ったら言い訳になるね。これからはちゃんとローちゃんが付いてこられるような話をするよ。本当に、ごめん」

と言った。良和はこの謝罪の言葉を聞いて、まず田口の気遣いとやさしさに胸を打たれた。続いて、会話に積極的に参加しなかったのは半分以上自分が悪いのに、と罪悪感を覚えた。そして、自分はこの4人に対して、目立つのは困るが放っておかれるのも嫌だ等とわがままな期待をしていたことに気づき、自分が恥ずかしくなった。正確な順序で良心の呵責を感じたのである。そして

「いや、俺があんまり社交的でないばっかりに、あんまり会話に入れなかったけど、気にしていないよ。フツウに俺が悪かったよ」

と、両手で制止のポーズをとりながら言った。そして一気に回路がつながって、

「昼飯が終わったら教室を出ていたのは、ちょっとこの学校の授業が初めてでわからないところがあったからで、それは昨日解決したから、今日からは昼休みはずっと皆といるよ」と早口で大嘘だが釈明した。誰の顔もピントを合わせて見られず、適当に目の焦点をぼやかしながらであった。呼吸をうまくできなかった。すると徳田が

「それで昨日ロビーにいたのか」

と気づいたように言ったので、良和は思わぬフォローを大変有難がりながら、

「うん。そう」

とうなずいた。そこでようやく4人の顔を見られるようになった。喉の下で心臓が跳ねた。豊島が

「ロビー?」

と不思議そうに尋ねると、すかさず徳田が

「こいつ昨日ロビーで中山に会っちまったんだとよ」

と笑いだしながら答えた。すると、4人の間に大笑いが起こった。

「中山、あの中山に!?」

「そらビビるわー!」

と豊島と田口が笑いながら言った。良和もつられて笑いだした。細野がわざと真面目な顔をして

「俺はあいつよりは成績いいぜ?」

と芝居がかった声を出し、徳田に

「中山と比べてどうすんだよ」

と突っ込まれていた。良和は無理に笑うのを継続させながら、中山静の嫌われ具合を察した。一方で、自分が予想以上に大切にされていたのを幸福に感じた。

 家に帰ってから、良和は中山静について考えた。あの嫌われようは一体どこからくるのだろうか。余程素行が悪いのだろう。そんな奴が美術部員で、あんなにきれいな絵を描いたのか・・・。不良が絵なんて描く気になるのか?良和は「不良の美術部員」をイメージしようとしたが、不可能であった。そしてその姿を考えるうちに、胸の内で好奇心が沸々と湧き上がるのを感じた。この好奇心というものは良和のなかで良くも悪くも統制のとれない暴れ馬であり、満たされるまで駆けまわるのをやめない厄介な存在であった。この暴れ馬のおかげで学問は結構順調に進むが、一方で途方もない失敗を良和の生活にもたらしたことも数回あった。しかしどちらにせよ、15年生きてきて、この好奇心を鎮めることのできないのを良和は痛感していた。俺は放課後美術室へ行ってあの金髪に文化祭の時に見た絵について聞いてみることになるのだろう。今日は金曜日だが、来週からは0時限授業というのが始まるから、その後に行くことになるだろう。あとは決心だけである。俺は男だ。たった一人の不良なんかにビビるものか。いくら不良だって初対面の者にいきなり殴りつけたりしないだろう。もし殴られそうになったら避ければいい。こうして良和は大胆にも中山静と会うことにしたのである。

週が明け、月曜日となった。この日から、0時限授業が始まったのである。0時限授業とは学年主任の教諭が主催する、帰宅部生を対象とした、朝授業が始まる前と放課後の時間を利用した勉強会のことである。曜日ごとに教科が決まっており、たいてい授業の復習のプリントが配られ、集まった生徒がそれを解くということが行われる。部活動が行われる時間よりは短い時間で行われるが、原則遅刻も早退も禁止という方針である。月曜日は英語であった。放課後のその時間、良和はプリントを解きながら、美術室へ行ってみることを考えたがる心を何とか統制して、単語練習に集中しようとした。しかし、やはりいつも勉強するときのようには集中できなかった。

 0時限授業を終えて、良和は記憶を頼りに美術室へむかった。美術室は連絡塔の地下一階の一番奥の暗い廊下の先にあった。ドアが開いていたので、良和はそうっと覗いてみた。インクとニスと古い木材のにおいがした。部屋の中にはあの見覚えのある金髪の男子生徒が一人でいるのが見えた。他には誰もいなかった。金髪は立って教室の後ろのほうで腕を組んで絵を眺めているようであった。すらりと背が高く、痩せていた。良和が開いているドアの中央へ足を踏み出すと、金髪はさっと後ろを振り向いた。そして良和を睨みつけた。

「何だ君、なんの用だ」

「いやあ、用というか・・・」

「美術部員でもないのに放課後美術室の周りなんかうろつくんじゃない。君のような奴とは一緒にいたくないものだな。不愉快だ」

「お前が中山静か? 」

「何で僕の名前を知っているんだ。君は見ない顔だが外部生か?僕は外部生なんかに用はない」

一瞬沈黙があった。良和は胃の苦しさを覚えた。静は良和の顔をじっと見て、こういった。

「ああ、君確か〝「た」なんとか〟とか言ったねえ」

「谷川だよ。覚えるならせめて「たに」くらいまで覚えておけよ」

「君ら雑魚どもの名前なんか一々記憶しているもんか」

「俺ら〝雑魚ども〟なの!? 」

「ああそうさ。君らなんか、学校の試験のお勉強しかできない無個性で不愉快な雑魚どもだ。不愉快な奴の条件を知っているか?不愉快な奴というのは、愚かであるか卑劣であるか、愚かな上に卑劣であるかのどれかだ。君は卑劣そうじゃないから愚かなんだろう」

 勉強の厳しさを少しは知っている良和は、自分が賢いなんて思ったことはないが、こんな頭の悪そうな、しかも初対面の不良なんかに愚かだとまくし立てられるのは腹立たしかった。しかし喧嘩をするのも嫌なので、とりあえず話を続けようとした。

「お前一人称「僕」なの? 」

「そうだけど何か文句あるか? 」

「文句はないけど・・・お前一人称俺の妹と一緒だよ」

「そうかい。結構な妹さんをお持ちなもので。それはともかく、僕は君なんかと話す暇はないし話す気もない。さっさと帰れ」

静は廊下へ出てきて、長い腕で良和の来た廊下の方をピンとさした。さすがの良和も愛想がつきた。こんな奴ともう話したりしない。良和は顔をそむけて帰っていった。

ちなみにローレンスの名前はアントニー・バークリー『試行錯誤』の主人公ローレンス・トッドハンターを参考にしました。

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