01 奄美剣星 著 氷 『雫はドキドキしていた』
雫はドキドキしていた。
付き合い始めて日の浅い、恋太郎から、デッサンのモデルになって欲しいと言われたのだ。
喫茶店のテーブル越しに向き合っていることさえドキドキなのに、絵のモデルとなったら、もう、心臓が止まってしまうかもしれないくらいだった。
流し髪で、睫毛の長い恋太郎は、県立高校の三年、雫は二年だ。
アイスコーヒーのグラスに刺したストローに唇を添える。そのとき少年は瞼を閉じたように見える。それから、顔を上げたときに、長い睫毛に覆われた、澄んだ眼差しがこちらに向けられていた。
――ああ、私だけ見ている。
雫は顔が紅潮するのを感じた。
天井を見るとファンが回っていた。
壁には六つほどサーフィンが飾られていた。
展望窓越しに外を眺めると、サーファーが波乗りをしていた。
波に白い泡が立っている。
若いマスターが、「波が割れている。風が強くなったんだ」と言った。
*
雫は、小パニックを起こしたまま家に着いた。
母と夕食をするのも上の空だ。
浴槽の湯に浸かった時、またパニックになった。
あ、絵のモデルって、もしかして、ヌード?
両脚をそろえて座り、片腕で乳房を隠し、もう片腕で後頭部に添える、あの定番ポーズが思い浮かんだ。
けれど、定番ポーズじゃなくて、あんな風だったり、こんな風だったりしたらどうしよう……。
グルグルと、妄想が、メリーゴーランドのように駆け巡る。
ああ、あああ……。駄目だ。やっぱり断らないと。でも、あんなに澄んだ目で見られたら、断り切れないかも……。
*
花火が鳴った。
『潮騒市役所』と書かれた休憩用テントが砂浜に三つ並んだ。
潮騒市にはクールビズ制を採っている。市役所の職員は、夏場になるとスーツを脱いで、男性が青、女性が赤のアロハシャツを着る。その恰好で、市長さん以下職員が、一列に並んでいた。
浜辺に集まった市民たちは、シャツに短パン、あるいは、水着姿で、テントの前に集合した。
近くの公民館を仕切っている、長い黒髪を一房束ねた眼鏡の女性職員・鶴小路ミオさんが、壇上に立った。年齢は不詳。ときどき、恋太郎は鶴小路さんがやっている、市民映画祭用の映画製作に参加していた。――俳優ではなく裏方さんではあるのだが。
先日、雫は、鶴小路さんにハグされている恋太郎を見た。
「ああ、鶴小路さん、お姉さんみたいなものだから……」
恋太郎は、年上女性にモテた。
下校の時、二人で通学路の商店街を歩いていると、パン屋のマダムが、呼び止めて、菓子パンをくれたことがある。似たようなことは、ケーキ屋、和菓子屋、魚屋に文具店まであった。しかし、ハグまでしてくるのは鶴小路さんだけだった。
――私なんか、まだ、やってないのに……。
その鶴小路さんが、メガホンを持って、集まった市民にペコリと頭を下げた。
「本日は、恒例、潮騒町の夏の催し、『浜辺のクールアート展』にお集まり頂いてありがとうございます」
砂浜には、ズラリと、氷像が並べられた。
町のシンボル・潮騒城天守閣、人気マスコット・キャラクター……。全部で三十作品くらい集まっていた。恋太郎の作品は最後から二番目のところにあった。
雫をモデルにした氷の彫刻は、学校の夏服である、ブラウスにスカートといった装いで、椅子に腰かけているだけの、シンプルなものだった。
恋太郎は、氷を彫るのにあたって、雫の前後左右の四面を描いたのだ。
ボブカットの雫が、ちょこんと、座っただけの作品だ。まだ幼さの残る顔、大きな瞳、口の形はアヒル口というよりは、三日月を寝かせたようで、微笑んでいるようにもみえる。ちょっと平な胸、くびれた腰、細い四肢をしている。
透けた向こう側を、子供が駆けてゆくのが見えた。
氷がプリズムになって七色に発色していた。
「なかなかの美少女じゃない」並んで観ていた親友のチエコが言った。チエコというのは本名ではなく渾名だ。学年トップ常連なのでそう呼ばれているのだ。
そこで、急に、後ろから抱きつかれた。
――ダメです、恋太郎さん。こんな、人のいるところで、恥ずかしいです。
しかし、それは、恋人ではなかった。
「恋太郎君の未来の花嫁さん、来てくれてありがとう」
「はい」アロハシャツの恋太郎が、雫の代わりに答えて、顔を赤くしていた。
ハグしていたのは鶴小路さんだった。
恋太郎の親友・愛矢は、商店街が出した出店で、焼きそばを焼くのを手伝っていた。
たくさんの人出だ。
海ではサーファーたちが波乗りをしていた。
カモメが鳴いていた。
たぶん氷像は夕方までに溶けて形が変わってしまうことだろう。
了(ノート20170822)




