01 奄美剣星 著 猫『猫』
県境には木こりの集落がある。駅から集落までは十五キロ。夏の一か月だけバスが三往復している。終点になったバス停からキャンプ場までは二キロ。管理人小屋で登山手続きをして、頂上を目指す。頂上には神社本殿があって、そこへ至る登山路の要所要所に山小屋がある。スケジュールは三泊二日。本日はキャンプ場から五キロ先にある、第一の山小屋に泊まる予定だ。
登山道はもともと参道だったところだ。土地の少年は十五歳になると、標高二千メートルの山頂にある神社を詣で、大人として認められる。入口には、登山者の無事を祈って、夫婦を象った道祖神があり、俺達を守護しているようだ。
参道とはいっても、石畳とか階段とかはない。雨季の大雨のせいだろう、道は、至る所で抉れて、そのたびに、法面すれすれを歩く羽目になる。ステップ状になった木の根の上を歩いて尾根に上がると、今度はがけ崩れしたばかりの場所に出くわし、下を見ると谷底は数百メートルくらいあるように思えた。
登山者が小休止するために、ベンチを置いた広場が一キロ間隔で設けられている。そこで、俺と彼女は食事をとった。熊よけの鈴を一つリュックにつけた彼女。ベンチの横には、「熊出没注意」の黄色い看板がある。まったく、女というのは、無謀なものだ。
昨今は、あれやこれや、ハンターに規制をかけたもので、熊が異常に増えた。ハンターが少なくなると、熊は人を恐れなくなる。そして、少数ないしは単独で登ってくる登山者を、忍び足で近づき、襲い掛かるのだ。
——おい、ハニー、リュックの自家製パンがいい香りを出している。熊が嗅ぎつけたようだぞ。
登山口と山小屋との中間地点が、ブナ林に覆われた尾根になっている。
熊は彼女の後ろに、のっそり、と現れた。
彼女は気づいていない。
熊は片手をリュックに引っ掛けようとする。
しかし、そうはいかない。俺は、松の幹を三角飛びして、奴の腕に飛び乗った。
一瞬、目が合う。
熊は、もう片手で俺を払いのけようとする。その一撃はスイカ一つを粉々にしてしまう破壊力を秘めている。
俺は跳躍した。奴の手が空を切る。——チャンス——俺は、自重に任せて落ちてゆきつつ、カッター・ナイフのようによく研いだ爪で、奴の鼻先に一発食らわす。噛みつこうったって無駄だ。奴の目が白くなったり黒くなったり、あたふたと動いた。
俺は着地した。
奴が鼻を押さえ、悲鳴を上げ、急斜面から谷底へと駆け下りていった。そのときになって、ようやく、彼女は何が起きたか理解したようで、ヘタヘタと地面にしゃがみ込んだ。
ところで、おまえは何者だって?
——俺かい? 猫だよ。
ノート20171209
写真/Ⓒ奄美剣星




