04 紅之蘭 著 魅了『ハンニバル戦争・スキピオ』
【あらすじ】
紀元前二一九年の第二次ポエニ戦争で、カルタゴのハンニバルはアルプス越えをしてローマの庭先に侵入した。南進して南イタリアでカンナエの戦いを行い、迎撃に出たローマ軍を壊滅させた。続いてローマを包囲したのだが、豪胆な元老院議員ファビウスの籠城策に根負けして撤退。そしてついにスキピオが表舞台に立つ。
挿図:奄美剣星
「まあ酒を一杯飲んで行かれよ」
「かたじけない。ありがたく――」
カルタゴのハンニバルの次弟ハシュドバニパルがよこした角杯を、浅黒い肌をした、まだ少年のようなあどけなさが残る、異国の青年が干した。青年はヌミディア王国の王族マシニッサだ。子供のときに、両親を失くし、イベリアにいた伯父を頼ってやってきた。
「伯父の恩情に報いたい」青年は守役の騎士に口癖のように言っていた。
北アフリカ・アルジェリアの、地中海に面したあたりに、ヌミディアという騎馬民族国家があった。住民は肌の色が浅黒かったそうだが、黒人系であったかどうかは不明だ。当時の北アフリカは穀倉地帯で都市まであった。アトラス山脈から南はサハラ砂漠になるのだが、現在ほどは乾燥していなかったのだろう。牧畜も盛んだったと思われる。
同国は、長らくカルタゴのバルカ家と誼があって、ハンニバルの姉二人は、そこの有力貴族に嫁していた。ヌミディア騎兵はハンニバルの精鋭部隊として、主力たる中央軍の側面を守護し、攻勢となるや、逆に相手の側面を衝いて瓦解させること幾たびもあった。
カルタゴに金で雇われたヌミディア王国は、王族マシニッサと麾下の騎兵をイベリアに送り込んでいた。青年は、ハンニバルの次弟である、ハシュドバニパルの与力として、一翼を担い、ローマの大スキピオの父親コーネリアスと叔父グネウスを敗死させるという武勲も立てこともあった。
紀元前二〇八年の春、すでにイベリア首都カルタヘナを落としたスキピオは、イベリアに駐留するカルタゴ三個大軍団を、各個撃破するべく策を練った。
カルタゴ領イベリアの守備隊は、二万五千からなる大軍団三つで構成されていた。ローマのスキピオによって、イベリアの首都カルタヘナな攻略がなされたとき、すぐさま、奪回作戦に移らなかったのは、ローマと違って、敗ければ死刑と決まっていたからだった。
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スキピオが落としたばかりの港湾都市カタルヘナだ。
「敵の一個大軍団二万五千は、われらが遠征軍全軍と同数だ。有利といかぬまでも、互角にする必要がありますね、レリウス殿……」
口調は、目上の人に言うもので、丁寧だ。
名目的な総大将は兄アシアティクスであるが、実質的な兵権はスキピオにあった。ローマ元老院によって監察官としてつけられたレリウスは、スキピオの副将になっている。
「スキピオ殿、問題は、カタルヘナの守備兵と、マゴーネを牽制する艦隊に詰める部隊をどう振り分けるかだ」
カルタゴ側が躊躇している間に、スキピオは、副将レリウスにこう切り出した。
「カタルヘナには自治権を返してやりましょう。そして貴男が率いてきた艦隊の漕ぎ手を若干のローマ人にして、不足をイベリア人にするのです」
「戦闘要員は?」
「なしです」
スキピオの言うことは、用兵家として、道理を得ない話だった。しかし、副将レリウスは、スキピオの策や良しと思えた。ただちにカタルヘナの港を出た、レリウス艦隊は、戦闘員抜きの艦隊を、ハンニバルの次弟ハシュトバニパルが拠るベクラの町を通り越して、後背にいる末弟の陣の沖合に投錨して、動きを封じてしまった。
スキピオは、寝返るかもしれないカルタヘナを無防備にしたまま、地中海沿岸を西進し、ベクラの町に迫った。
この町の南には、クアダルキビル川が流れており、ハシュドバニパルは川岸にある小高い丘に、台形になった防御陣を敷いた。他方、スキピオは川向うにある、北に開析した谷となったところに布陣。全軍を渡河させた。
ハシュドバニパルは戦象を持っていた。しかしスキピオの動きが早すぎて、出すタイミングが遅すぎた。野戦において戦象は、破壊力があるが、タイミングを逃すと逆に、パニックを起こされ、味方が大損害を被る。象の急所は耳の裏だ。ここに針が取り付けられていて、象使いは、戦象がパニックを起こす前にハンマーで打ち付け始末するのだ。
ハシュドバニパルはヌミディア騎兵を出して逆襲に出た。
しかし、スキピオ麾下に馳せ参じたイベリア騎兵達の数がハシュドバニパルの騎兵を勝った。数で力押して圧壊させると、そのまま、歩兵防御陣両側面に食らいつく。ハシュドバニパル麾下の主力重装歩兵はパニックを起こし、前方と左右両側面の三面が包囲されてしまった。
「これは、兄上ハンニバルの戦法ではないか! いかん、このままでは、背後を塞がれ、包囲殲滅陣形をつくられてしまう。その前に後方から脱出するのだ」
ハシュドバニパルは後方へ敗走した。その際、ベクラの町に逃げ込まなかったのは英断だった。敗れこそすれ、ハシュドバニパルも非凡な将である。大胆にも、敗軍を引き連れて、兄であるスキピオが開いた、アルプス越えの道を征かんことを策したのだった。
このスキピオ軍のただ中に、取り残されたヌミディア王族マシニッサがいた。カルタゴ人達はローマに送って奴隷とされたのだが、それ以外は許され解放された。スキピオはマシニッサに引見すると、この人を許し、武器と馬を与え、途中まで護衛をつけて送らせた。
「この恩は死ぬまで忘れません」
やがてヌミディアの王となる青年は、スキピオがハンニバルと雌雄を決する会戦となるとき馳せ参じ、麾下の騎兵をもって痛恨の一撃を敵に与えることになることを、このとき、誰も予想だにしていなかった。
(魅了、了)
【登場人物】
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《カルタゴ》
ハンニバル……名門バルカ家当主。新カルタゴ総督。若き天才将軍。
イミリケ……ハンニバルの妻。スペイン諸部族の一つから王女として嫁いできた。
ハシュルドゥルパル……ハンニバルの次弟。イベリア半島での戦線で活躍。
マゴーネ……ハンニバルの末弟。将領の一人となる。
シレヌス……ギリシャ人副官。軍師。ハンニバルの元家庭教師。
ハンノ……一騎当千の猛将。ハンノ・ボミルカル。ハンニバルの親族。カルタゴには同名の人物が二人いる。第一次ポエニ戦争でカルタゴの足を引っ張った人物と、第二次ポエニ戦争で足を引っ張った大ハンノがいる。いずれもバルカ家の政敵。紛らわしいので特に記しておく。
ハスドルバル……ハンノと双璧をなすハンニバルの猛将。
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《ローマ》
コルネリウス(父スキピオ)……プブリウス・コルネリウス・スキピオ。ローマの名将。大スキピオの父。
スキピオ(大スキピオ)……プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・マイヨル。大スキピオと呼ばれ、ハンニバルの宿敵に成長する。
グネウス……グネウス・コルネリウス・スキピオ。コルネリウスの弟で大スキピオの叔父にあたる将軍。
アシアティクス(兄スキピオ)……スキピオ・アシアティクス。スキピオの兄。
ロングス(ティベリウス・センプロニウス・ロングス)……戦争初期、シチリアへ派遣された執政官。
ワロ(ウァロ)……執政官の一人。カンナエの戦いでの総指揮官。
ヴァロス……執政官の一人。スキピオの舅。小スキピオの実の祖父。
アエミリア・ヴァロス(パウッラ)……ヴァロス執政官の娘。スキピオの妻。
ファビウス……慎重な執政官。
グラックス……前執政官。解放奴隷による軍団編成を行った。
クラウディス……〝ローマの剣〟と称賛される執政官。マルクス・クラウディウス・マルケッルス。
レヴィヌス……ブリンティシ執政官。寡兵でマケドニア王国に睨みを利かす知将。
ネロ前執政官……スキピオの前任の執政官。
レリウス……元老院が若いスキピオ将軍の未熟な采配を案じてつけた目付け役・監察官。
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《マケドニア王国》
フィリッポス二世……アンティゴノス朝の国王。カルタゴと同盟する。
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《シラクサ王国》
アルキメデス……ギリシャ系植民都市シラクサの王族。軍師。




