65:五月の雨
新緑も鮮やかになってきて爽やかなこの頃。この日はあいにくの雨で、空を分厚い雲が覆い、地面には水溜まりが出来ていた。
シムヌテイ骨董店の中では、今日も店主の真利が、赤い別珍張りの倚子に腰掛けてお茶を飲んでいた。
温かいけれども湿気をたっぷりと含んだ空気が、気怠い。けれどもその気怠さが、何故だか心地よかった。この感覚は、本に夢中になり、没頭した後に感じる物に似ている気がした。
そう言えば、昨夜も本を読んでいて、夢中になったなと、お茶を飲みながら思い返す。読んでいたのは、紀元前の大陸で活躍した思想家の本だ。物語というわけでは無いけれども、当時は先進的と言われた政治論や経済論をまとめたその本は、十分に興味を引く物だった。
そう言えば。と、真利は思い出す物が有った。今現在この国、大日本帝國を率いている女性総理大臣は、随分とあの思想家と近い事を言っているような気がする。もしかしたら何らかの影響は受けているのかも知れないなと、ぼんやりと思った。
少しぼんやりとしていると、店の扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
そう声を掛けると、入ってきたのは緑を基調とした風景画の描かれた折りたたみ傘を畳んでいる女性。柔らかい桃色の髪を三つ編みにして、肩から垂らしている。
「お久しぶりです、真利さん」
そう言って、折りたたみ傘を袋に入れ、鞄の中にしまう彼女。真利も挨拶を返す。
「聖史さんもお久しぶりです。丁度、あなたのことを考えていた所なんですよ」
「そうなのですか?」
不思議そうな顔をする聖史だけれども、彼女はすぐに店の棚を見始める。箱の中に入った博物画と、その横に置かれた茶ずんだプレパラート。星座早見盤も見て、反対側の棚に視線を移す。今度見ているのは、コスチュームジュエリーだ。ふと、真利に訊ねる。
「指輪は、ここに出ているだけですか?」
「指輪でございますか? 奥にもまだありますが、お出ししましょうか」
「はい、お願いします」
「かしこまりました。少々お待ちください」
真利は倚子から立ち上がり、バックヤードへと入る。コンテナの中から焼いて模様の入れられた木箱を出し、それを店内へと持っていく。聖史が立っている棚の側へ行き、木箱を開けてひとつずつ中身を出していく。それはビニール袋で丁寧に包まれた、色とりどりの指輪だった。
「どの様な物をお探しでしょうか」
真利がそう訊ねると、聖史は溜息をついて言う。
「実は、魔除けが欲しくて来たんです」
「ああ、なるほど……」
確かに、今の聖史の職場は男社会だ。色々と面倒なこともあるのだろう。そう思いながら棚に置かれた聖史の左手を見ると、既にシンプルな銀色の指輪が薬指に填まっていた。
「聖史さん、既に指輪はお持ちのようですが」
真利が不思議そうにそう言うと、聖史が暗い顔をする。
「これは自分で買ったんですけれど、これだと、そんな安物の指輪しか買えないようなやつが相手なのかとかしつこく言われて、面倒なんですよね……」
「あの、お疲れ様です」
こう言った事情なら、多少派手なくらいが良いだろう。真利はそう思い、ビニール袋で包まれた指輪を見て行く。裏側に切れ目の入ったフリーサイズの物が多いけれども、そう言った物は避ける。そして見つけ出したのは、多角形の小さな山形にカットされたラインストーンが中央に据えられ、その回りを小さなラインストーンが囲っている、シルバーの指輪だ。
「こちらの指輪は如何でしょうか。
フェイス面に施されたラインストーンはアントワープ・ローズカットというカット面の少ないカットではありますが、メインのストーンと回りに配された小さなストーンの裏にフィオルが施されていますので、光が当たると良く光ります。
一見豪華な物にも見えますが、もし高価すぎると言及された場合には、比較的安価なコスチュームジュエリーだとも言える品でございます」
真利の説明を聞いて、聖史はぢっと指輪を見る。
「試着させていただいて、良いですか?」
「勿論ですとも。どうぞ」
指輪を受け取り、聖史が左手の薬指にそれを填める。少し緩いけれども、落ちてしまうほどでは無かった。指輪が填まっている手を見る聖史は、なにやらぼんやりとしている。きっと、今までにあった色々なことを思い出しているのだろう。それから、顔を上げてうつろな目で真利に言った。
「こちらをいただきます」
「かしこまりました。指輪の箱はお付けしますか?」
「念のために箱もお願いします」
「はい。では、ご用意いたします」
一体今まで聖史はどんなことを言われてきたのだろう。気になったけれども、それを訊ねるときっとまた聖史のことを疵付けてしまいかねないので、疑問をぐっと飲み込む。
会計を済ませ、レジカウンターの引き出しを開けて中から小さな黒い箱を取り出す。蓋を開けると、中には布が張られた切り込み入りのクッションが詰められていて、その切り込みに指輪を填める。その黒い箱は表面がベルベット調に加工されているので、こう言った華やかな指輪を入れると、如何にも高価な物のように見えた。それをクラフト紙で出来た紙袋に入れ、『C』の文字が入った封蝋風のシールで封をする。
「お待たせいたしました。こちらがお品物です」
「はい、ありがとうございます」
少し疲れた様子の聖史に、真利が問いかける。
「ところで、この後お時間があるようでしたら、お茶でも一杯如何ですか?」
その言葉に、聖史はぽつりと返す。
「お言葉に甘えて、一杯いただきます」
「かしこまりました。では、こちらにお掛けになってお待ちください」
レジカウンターの裏から木製の折りたたみ椅子を取りだし、広げる。聖史がそれに腰掛けると、真利はティーポットをバックヤードへと持っていき、給湯施設で出がらしの茶葉を捨てる。空になったティーポットを軽く洗い、表面を拭いて店内へと戻る。
今度は、どのお茶を淹れようか。そう棚の前で視線を迷わせ、キャラメルティーを淹れようと、茶葉を取り出す。ポットに茶葉を詰めお湯を注ぐと、甘い香りが立った。お茶を蒸らしている間に、棚の中からグリフィンが描かれたカップを取りだし、聖史に訊ねる。
「今日はキャラメルティーですが、甘くしますか? 甘い物を摂ると、少しリラックスできますよ」
それを聞いて、聖史は答える。
「そうですね、偶には甘い物も良いかもしれません」
余程普段節制しているのだろう。そう思いながら、真利はバックヤードにある冷蔵庫の冷凍室から、小さなココットを取り出す。その中には、凍らせたホイップクリームが入っていた。小さなトングも取りだし店内に戻り、蒸らした紅茶をカップに注ぐ。それを、聖史に渡して言った。
「お待たせいたしました。こちらが本日のお茶でございます。こちらのココットに入っているのはホイップクリームですが、おいくつご入り用ですか?」
「えっと、じゃあ、四つお願いします」
「かしこまりました」
真利が小さなトングでホイップクリームを、聖史が持っているカップに入れていくと、中でクリームがくるくると踊った。甘い甘いキャラメルと、クリームの香り。それのおかげか、聖史はやっと笑顔になった。




