62:悩めよ乙女
春の兆しは見えてきたけれども、吹く風はまだ身を裂くように冷たい頃。この日はあいにくの曇天で、街並みは寒々しかった。
シムヌテイ骨董店では、いつものようにだるまストーブを焚き、その上に鍋を乗せて飲み物を温めている。今日暖めているのは、少ない水で煮だした紅茶に、たっぷりの牛乳と生クリームを加えたミルクティーだ。
熱いミルクティーを、チャイナボーンのカップに注ぎ、そっと口を付ける。どうしても冷えがちになる真利の体も、温まるようだった。
「今日は、あまりお客様がいらっしゃいませんねぇ……」
少し寂しそうにそう呟き、店内を見渡す。ふと、ヴィンテージビーズを並べたトレイが目に付いた。先日、サフィレットガラスを幾つか入荷したので、それを彼方にメールで伝えてはあるけれども、彼女はいつこの店に来るのだろう。人形の制作だけで無くカメラの仕事も忙しいようで、いつこの店を訪れるのか、真利には予測が出来なかった。
ミルクティーをひとくち飲み、溜息をつく。すると、店の扉が開いた。真利はカップをレジカウンターの上に置き、声を掛ける。
「いらっしゃいませ」
入り口に立っているのは、青からピンクのグラデーションになっている髪を編み込んで結い上げ、臙脂のダッフルコートを着込み、生成りのスヌードを首に巻いている女性だった。
「真利さん久しぶり~。サフィレット入ったって聞いたから来たんだけど」
「お久しぶりです彼方さん。サフィレットでしたら、今お出しします」
軽く手を振っている彼方に返事を返し、真利はヴィンテージビーズが置かれている棚へと向かう。彼方を棚の近くに招き寄せ、引き出しを空ける。引き出しの中には布で蔽われたケースが入っていて、そのケースは細かく仕切られている。中には様々な半円形の硝子が入っていて、埃除けのアクリル板が上に乗せられている。真利はアクリル板を外し、彼方に声を掛けた。
「こちらに、先日入荷したサフィレットがございます」
「サイズは?」
「そうですね、今回は八ミリから十四ミリとバリエーションが少ないのですが、彼方さんがお使いになるには十分なサイズかと思います」
真利の説明に、彼方はそっと、半円形の青いガラスを手に取る。青の中にモーヴが浮かぶ、幻想的なガラスだ。ひとつずつじっくりと見て、彼方は真利に言う。
「八ミリと十ミリのサフィレット、有るだけ貰って良い?」
「八ミリは五個、十ミリは七個と奇数ですが、全てお買い上げになりますか?」
「うん。取っておけばまたそのうち追加で買った時に合わせられるでしょ」
随分と思い切った買い方をする物だと思いながらも、以前もこういう風にまとめ買いをしていったことが有るので、特に驚きはない。
「では、お会計を失礼します」
真利は八ミリと十ミリのサフィレットガラスを小さなトレイに取り、彼方をレジカウンターに通す。電卓に合計金額を打ち込んで提示し、彼方が財布を開いている間に梱包をする。茸の柄が刷られたペーパーナプキンに、サフィレットガラスを包んでいく。それぞれが触れ合わないように、丁寧にだ。
梱包と会計を済ませ、彼方にサフィレットガラスの入った袋を渡しながら言う。
「ところで、外は寒かったでしょう。温かいミルクティーでも一杯如何ですか?」
その言葉に、彼方はにっこりと笑って返す。
「今日はミルクティーか、やったぜ。じゃあ一杯いただいていこうかな」
「かしこまりました。ではこちらにお掛けください」
真利はレジカウンターの裏から木製の折りたたみ椅子を取りだし、広げて彼方に進める。彼方が座ると、今度は棚からパッションフラワーの柄のカップを取りだし、それにミルクティーを注ぐ。
「お待たせいたしました。どうぞ」
熱いミルクティーを彼方に渡し、真利もレジカウンターの上に置いてあった自分のカップを手に取り、赤い椅子に座る。彼方がひとくちミルクティーを飲んで、声を上げた。
「あ~、温まるわ~」
「そうですか? 良かったです」
リラックスした様子の彼方を見てくすくす笑う真利。ふと、彼方が真面目な表情をして訊ねた。
「そういえばさ、真利さんってバレンタインにチョコ貰ったりとかしてる?」
「バレンタインチョコレートですか? そうですね、友チョコを幾つかいただいています」
「友チョコかー、そっかー」
「それがどうかしましたか?」
不思議そうな顔で真利が訊ね返すと、彼方は難しい顔をして話し始めた。
「実はさ、結構友チョコとかは私もいろんな人に渡してるの。なんだけどさ」
「もしかして、本命と間違われたり……とかですか?」
真利が心配そうな顔をすると、彼方は頭を左右に振って話を続ける。
「そうじゃ無くて、本命は居ないのかって、いろんな人から聞かれるんだよね。それで困っちゃって」
「なるほど。本命は常に居るとは限りませんしね」
困ったような顔をして、彼方はひとくちミルクティーを飲む。それから、言いづらそうに言った。
「実は、誰かを好きになるとかそう言うのよくわかんなくって、なんで好きな人居ないのって聞かれるとすごく困る」
きっと、この悩みは今までずっと彼方が抱えてきた物なのだろう。そのうち好きな人は出来る物だと、そう簡単に返してしまいがちだが、その言葉は、彼方に掛けてはいけないような気がした。
「……そうですね。一般的には、恋愛に興味のある人が多いでしょう。
ですが、恋愛をしない人というのも確かに存在するのです。興味が無いなら興味が無いと、言ってしまって良いと思いますよ」
その言葉に、彼方はきょとんとしてから、恥ずかしそうに笑う。
「そっか、興味ないって言っちゃって良いんだ」
「そうです。もし興味が湧く時が来たら、その時に考えれば良いだけですし」
彼方が、両手でカップを包んで言う。
「なんか、安心した」
「そうですか、良かったです」
随分とスッキリした顔の彼方を見て、真利は微笑む。何に興味があるかなどと言うのは、人それぞれ違うのだから、なるようにしかならないと、そんな話をした。




