6:雨粒と蝙蝠傘
その雨の日、シムヌテイ骨董店は賑やかだった。
「いあああああああああ林檎さん、林檎さん助けて下さい!」
「喚くんじゃ無いの! ほら、スティックシュガー寄越して!」
「ひぎいいいいい届かないですうううううう!」
「届かないなら投げて寄越すの!」
いつもの倚子の上で膝を抱えている真利と手を伸ばしている林檎の間には、一匹のナメクジがぬめりとした跡を残しながら這っていた。
この時期になるとどこでも見掛ける生き物だが、真利はどうしてもこのぐにゃりと柔らかく、気味の悪いこれが苦手だった。シムヌテイ骨董店と同時にとわ骨董店を開いた林檎はその事をもう十分すぎるほどにわかって居たし、年に数回店に入り込むナメクジを駆除するのにも慣れた。
真利が暴投して床に転がったスティックシュガーを拾い、袋を開ける。そしてそのまま中身をナメクジの上に振りかけた。
砂糖を被ったナメクジは動きを止め、見る間に縮こまる。砂糖を溶かしながらナメクジの周りに粘液が広がった。完全に動きを止めたのを確認した林檎は、懐からポケットディッシュを取りだし、ナメクジをティッシュでくるむ。それから、レジカウンターまで行きレジ袋を一枚拝借して件のティッシュを放り込み、口をしっかりと縛る。そしてその袋をゴミ箱に捨てた。
レジカウンターの裏に回ったついでに、壁に立てかけてある床用ワイパーを手に取りセットして、ナメクジが這った跡を跡形も無く拭き取る。その後、拭き取ったシートもゴミ箱に入れるまでがナメクジ退治の一部始終だ。
「これでもう大丈夫ね? 私も店番に戻るよ」
「はい、ありがとうございました。
毎度毎度お見苦しいところをお見せして申し訳ないです」
「まぁ、流石にもう慣れたけどね」
軽く挨拶して林檎が入り口のドアを開けると、そこには蝙蝠傘を差した男性が立っていた。
「あの、もう入っても大丈夫ですか?」
髪の毛をきれいに編んで結い上げているその男性が申し訳なさそうに訊ねるので、林檎は苦笑いをするしか無い。
「はい、もう大丈夫ですよ。ご心配おかけして申し訳ありません」
林檎は一旦店の中に身を引き、客とおぼしき男性を店の中に入れる。彼が傘立てに傘を立てたのを確認してから、自分の店へと戻っていった。
彼はきっと、真利が騒いでいるのをドアの外で聞いていたのだろう。そう思うとどうにも恥ずかしく、真利の顔が見る見るうちに赤くなる。
「あの、お待たせして申し訳ありません。
所で、以前こちらにいらっしゃったことがありますか?」
真利はなんとか話を逸らそうと、男性の結い上げた白銀色の髪を見て訊ねる。彼はにこりと笑って答えた。
「はい。以前この辺りで道に迷った時に立ち寄らせて戴きました。
もう一度伺いたいと思って、ネットで調べたんですよ。
骨董店が一軒家に二つ入ってるお店は珍しいから、すぐに見つかりましたけど」
「そうですか、またお目にかかれて嬉しいです」
シムヌテイ骨董店ととわ骨董店は、双子の骨董店として売り出している。店主が双子というわけでは無いけれども、同じ日に、同じ一軒家で店を開いた二つの店。歴史を持つアンティークを扱う店のストーリーとして、こう言ったロマンティックな物はなかなか良いだろうと、真利と林檎の二人で話して決めたのだ。
雨音が響く中、言葉が途切れる。黙って棚の上に乗ったトレイの中や古書を見ている彼を、真利はいつも通り椅子に座ったまま見ている。
長い指でベルベットの表紙の本を捲る彼。深い紫色のベルベットには、銀色の箔で横棒が二本と斜めの棒が一本入ったクロスが押されている。あの本は、何の本だったっけ。真利がそう思うと、察したかのように彼が呟いた。
「正教会の、祈祷書ですね」
「祈祷書なんですか。聖書のようなものだと聞いて、仕入れたのですが」
雨粒が落ちる音と、ページを捲る音。彼は以前来たときに、昔使っていたものと同じ型のロザリオが有ると言っていた。もしかして、今読んでいる祈祷書も、彼とは違う教派の物なのだろうか。
彼はぱたんと本を閉じて、元有った場所に戻す。きちんと元通りになったのを確認して、本の手前に置かれた錫のトレイに目をやった。あの中には、古いメダイが幾つか入っていたはずだ。それを彼は熱心に見ている。時折手に取って、裏を確認している彼。幾つか確認した後に、アルミの上に空色のエネメルを焼き付けたメダイをレジカウンターに持って来た。
「これをお願いします」
「はい。ご自宅用ですか?」
「えっ……と、プレゼント用ですけど、ラッピングはいいです。堅苦しくしたくないので」
「かしこまりました」
真利はメダイから値札を外し、クラフト紙の小さな袋に入れ、『C』の文字が入った封蝋風のシールで留める。
彼は誰にこのメダイを渡すのだろう。真利はそれが気になったが、余り詮索するのもよくないだろうと、訊ねない。その代わり、彼にこう言った。
「もしお時間があるようでしたら、お茶を一杯如何ですか?
倚子もご用意できますよ」
すると彼は照れたように笑ってこう返した。
「それじゃあ、戴いても良いですか?」
「もちろんです。どうぞ、ごゆっくり」
木製の折りたたみ椅子を一脚広げ、レジカウンターの裏にある電気ポットから、茶葉を入れたティーポットにお湯を注ぐ。
今日のお茶は三種類のベリーが入ったフレーバーティーだ。三分間じっくりと蒸らして居る間に用意した勿忘草柄のティーカップにお茶を注ぐと、甘酸っぱい香りが広がった。