49:薔薇が薫る
年が明けて暫く経ち、街も落ち着いてきた頃。シムヌテイ骨董店の店先には、テラコッタの器の中に張られた水に、水仙の花が浮いていた。店内では、先程まで水仙の花を浮かべる作業をしていた真利が、だるまストーブの前でホットワインを飲んで温まっていた。刺激的なシナモン、温かなジンジャー、甘いオレンジの混じったワインが、じんわりと体に染み渡る。
「ふぅ、なにかおつまみが欲しいですねぇ」
カップから口を離し、そう呟く。このホットワインに合うのは何だろう。苦いチョコレートか、軽やかなクッキーか、しっとりとしたマドレーヌか。どれも今は置いていないけれども、そう言う事を考えるのは楽しかった。
ぼんやりと想像に思いを巡らせていたら、店の入り口が開いた。
「いらっしゃいませ」
入り口から入ってきたのは、ダッフルコートを着込んで、首に緑と紺のチェック柄のマフラーを巻いた、背の低い男性。
「お久しぶりです真利さん。お元気でしたか?」
「ハルさんもお久しぶりです。おかげさまで風邪一つひいていませんよ」
真利の返事にハルはにこりと笑って、店内を見始める。以前来た時のように茶ずんだプレパラートを見て、博物画を見て。星座早見盤を見た後、古書の前に置かれた錫のトレイの中を見ている。そのトレイの中には古いメダイが幾つか入っていて、ハルはそれを手に取ってまじまじと見ている。聖母の彫られたメダイを見る目は少し寂しそうで、溜息をついて元の場所に戻す。その表情からは、何故か自嘲が感じられた。
「そう言えば、お土産を持って来たんです」
ハルが真利の方を向いて言う。持っている鞄の中から出したのは、小さな遮光瓶だ。
「よろしければ、これをどうぞ」
差し出された遮光瓶を、真利は両手で受け取る。見てみると、中には液体が入っているようだ。
「これは、なんでしょう? なんとなく良い香りがしますけれど」
真利の問いに、ハルはくすりと笑って答える。
「薔薇の香油です。花屋さんで薔薇の蕾を沢山買って、蒸溜したんですよ」
「えっ? 薔薇の香油って、とても採るのが大変だと聞いているのですが、ご自力で蒸溜を?」
「はい、そうです」
何故そんな事をしようと思ったのだろうか。自力で蒸溜が出来るというのも驚きだけれども、まさかこの店に持ってくるためだけに、そんな労力を掛けたとは思えなかった。
真利が驚いた顔をしていると、察したのか、ハルが事情を話し始めた。
「この香油を作るのには、きっかけがあったんです」
「きっかけですか? 誰かからのご依頼……とか?」
そう言えば、ハルは昔錬金術を嗜んでいたと聞いたことが有る。その技術を持ってすれば香油の蒸留は出来るだろうし、それを知る人から依頼を受けてもおかしくは無い。そう思っていたら、ハルが言うにはこういうことだった。
「去年のクリスマスのことなのですけれど、その日、恵が職場で相次ぐクレーム対応をしたらしくて」
「はい」
「それが余りにも酷い内容だったらしく、腹いせに職場からうちまでの間にある花屋全部で薔薇を買い占めてきたんですよ。
それで、生けておく場所は当然無いし、丁度僕も夜勤明けでカリカリして居たので、全部蒸留器に押し込んだんですよね」
「お疲れ様です」
相変わらずストレスの解消法が生産的だなと思いながら、小瓶を鼻に近づける。確かに、甘い薔薇の香りがした。
その様子を見て、ハルが言う。
「その精油はアブソリュートでは無くオットーですから、飲み物とかに淹れても大丈夫ですよ」
「ああ、蒸留器と仰っていましたものね」
「ホットワインに入れてみますか?」
「ホットワインにですか? ……ふむ」
ストーブの上に置いた鍋の中で温まっているワインに、この芳しい滴を入れたらどうなるのか、興味が湧いた。真利は悪戯っぽく笑って、瓶の蓋を開ける。
「では、ありがたく使わせていただきますね」
手で瓶を握り、鍋の上で傾ける。ぽとりと一滴滴ると、華やかな香りが広がった。ぶどうと、シナモンと、ジンジャーと、オレンジ。それらの香りと混じり合って、薔薇の香りは変容した。
「ふふっ、良い香りですね。ハルさんも一杯如何ですか?」
小瓶の蓋を閉めハルに返そうとすると、ハルはそれを手で遮って答える。
「あ、この香油は差し上げます。
でも、ホットワインは一杯いただきたいですね」
「はい、かしこまりました」
真利は倚子から立ち上がり、小瓶をレジカウンターに置く。そのまま、木製の折りたたみ椅子を出して広げ、裏にある棚からカップを一つ取りだした。パッションフルーツの柄のカップにおたまでホットワインを注いでハルに言う。
「どうぞ、お掛けください。ホットワインはこちらです」
「はい、ありがとうございます」
ハルが倚子に腰掛けてカップを受け取った後、真利も自分のカップにホットワインを注ぐ。ハルがカップを差し出して笑う。
「それでは、乾杯を」
真利もにこりと笑って、カップの縁を軽く合わせる。
「乾杯。今年も、善く過ごせますよう」
そう言って口にするホットワインは、余りにも甘美で目がくらみそうだった。




