40:春から始まる
桜の花も散り、暖かな陽気が続くようになった頃。その日は薄曇りで、吹く風が少しだけ冷たかった。
シムヌテイ骨董店では、いつも通り真利が赤い倚子に腰掛け、お茶を飲んでいる。今日のお茶は、スミレと苺の香りが芳しい、渋めのお茶。静かな店内で、今日はどんなお客さんが来るかと、ゆったりと待つ。こう言うことは焦っても仕方の無いことなのだ。
カップもティーポットも空になり、一度バックヤードへ行って茶葉を捨てる。それからティーポットを軽く洗ってしっかりと拭き、店内に戻り、また同じお茶を淹れようと茶葉をティーポットに入れた。お湯を注ごうとポットを持ったその時、店の入り口が開いた。
「いらっしゃいませ」
一旦ティーポットの蓋を閉め、挨拶をする。入ってきたのは柔らかい桃色の髪の毛を三つ編みにし、肩から垂らしている女性。柔らかな雰囲気のマキシスカートとレースのロングカーディガンが春らしい。
「お久しぶりです」
彼女がふわりと笑ってそう言うと、真利もにこりと笑って返す。
「お久しぶりです、聖史さん。
最近お仕事が忙しいと思うのですが、折角いらしたのですから、ゆっくりなさってくださいね」
「はい、ありがとうございます」
聖史が品物が置かれた棚を見る。特に見ているのは、木箱の中に立てかけられた博物画だ。様々な植物が描かれたそれはとても緻密で、繊維の一本まで余さず描いているかのようだった。聖史は博物画を二枚ほど取りだし、真利に訊ねる。
「これに合う額縁はありますか?」
「額縁でございますか? 少々お待ちください」
見せられた博物画を見て、真利は倚子から立ち上がり、棚の下に置かれた箱を見る。その中には、大小様々な額縁が入れられていた。丁寧な手つきで、シンプルで縁が細い真鍮の額縁と、少し塗装が剥げている、縁が太めな紺色の額縁を取り出す。
「こちらの額は如何でしょうか。
アネモネの絵にはこちらの真鍮の物が、種の発芽の絵には、こちらの紺色の物がお勧めです」
額縁を受け取った聖史は、絵と額縁を合わせて見て、にこりと笑う。
「そうですね、これが良さそうです。
こちらをいただきますね」
「かしこまりました。ありがとうございます。
それでは、お会計はこちらで」
真利は一旦博物画と額縁を受け取り、聖史をレジへと通す。電卓に合計金額を打ち込んで提示し、支払いの準備をしている間に博物画と額縁を梱包する。博物画は薄い生成りの紙袋に入れ、額縁はクラフト紙の紙袋に入れる。博物画が入った袋も、額縁と同じ袋に入れた。それを赤い紙袋に入れ、入れ口の部分を『C』の文字が入った封蝋風のシールで留める。
会計を済ませ、紙袋を聖史に渡しながら、真利が訊ねる。
「もしお時間があるようでしたら、お茶を一杯如何ですか?
今丁度、淹れようとしていたところなんです」
それに、聖史は答える。
「はい、いただいていきます。ありがとうございます」
真利はにこりと笑って、レジカウンターの裏から折りたたみの木製の倚子を出し、広げる。それを聖史に勧めて、レジカウンターの裏にある棚からカップを取りだした。グリフィンの絵が描かれたカップだ。
カップをふたつ並べ、真利はティーポットにお湯を注ぐ。スミレと苺の香りが立った。
「随分と甘い香りのお茶なんですね。
何のお茶ですか?」
少し驚いた声を出す聖史に、真利が答える。
「スミレと、苺の香りがついた物です。それ以外に、薔薇と葵も入っています」
「少し、緑茶の香りもしますが」
「はい。紅茶と緑茶がブレンドされた物です」
そんなやりとりをして、暫しお茶を蒸らす。しっかりと蒸らしてから、お茶をカップに注いだ。
グリフィンの描かれたカップを聖史に渡し、真利もチャイナボーンを手に持って自分の倚子に座る。熱いお茶に口を付けた。
真利が聖史に言う。
「今のお仕事は、色々と言われることも有るでしょう。お疲れでは無いですか?」
その問いに、聖史は真剣な顔をして答える。
「大変ですが、疲れたどうこう言っていられる物ではありません。
私は、職務を果たさないといけないのです」
強気なことを言っては居るけれども、聖史の顔にはどこか疲れが見えた。
「そうですね、聖史さんの仕事はとても重要な物です。
ですけれど、今ここに居る時間はお仕事では無いのですから、少しでも疲れを取っていってくださいね」
真利がくすりと笑うと、聖史の表情も和らぐ。
「そうですね。新年度が始まって大変ですが、ミスが無いように疲れを取るのも大事です」
ふたりで、静かにお茶を飲む。去年の初めにここに来て以来、聖史には会っていなかったけれども、彼女が今何をして居るのか、真利は知っていた。いや、真利だけで無く、知っている人は沢山居るだろう。聖史が背負う重責を思うと、今ここに居る時だけは、安らいで欲しいと思うのだった。




