4:隣の錬金術師
桜も満開を過ぎ、暖房も点ける必要が無くなった春の日。この日はあいにくのお天気で、外からは水滴が落ちる音が聞こえてきている。
こんな雨の日は、お客さんが来ないことが多い。なので、真利はいつも通りの指定席に座ったまま、紅茶とお茶請けを楽しんでいた。
お茶請けは、銀座で買ってきたパイナップルケーキ。いつのことだったか、常連さんがとても美味しいからとお土産に買ってきてくれて、それ以来自力で時々買いに行くようになった。
「ふふふ、相変わらず美味しいねぇ」
思わず独り言でそう言ってしまうほどに、このパイナップルケーキは美味しかった。聞いた話だと、少し前までは緑豆パイというのが有って、それも大層美味しかったそうなのだが、余りにも作るのに手間が掛かるので、その店の店長が作るのをやめてしまったらしい。
パイナップルケーキを味わいながら、今は無き緑豆パイに思いを馳せる。きっと、今マグカップに入っている、燻製のウバと良く合うのだろう。
雨の日は、お客さんが来ない。しかも、暖かくなってくるとじめっとした湿気が纏わり付くようだ。けれども真利は、雨の日が嫌いなわけでは無かった。雨音を聞きながらアンティークに囲まれているこの時間は、心安らぐ物だった。
一人で雨音を聞きながら、その日の営業は終わるつもりだった。けれども、晴れていれば夕日が空を染めたであろう頃に、扉を開く音が聞こえた。
「いらっしゃいませ」
慌ててパイナップルケーキの外袋をゴミ箱に入れながら挨拶をする。訪れてきたのは背の低い男性と、年齢の割にはきちんとした身なりの華奢な男性。真利は傘立ての場所を二人に教え、そのまま二人の事を観察していた。
背が低い方の男性は随分とにこにこしているけれども、気のせいだろうか、妙に疲れているような感じを受けた。
背の低い男性が、棚の上に置かれた硝子の板を見て言う。
「おや、古いプレパラートだね。
君はよく、こんな物が置いてあるお店を見付けてくるね」
その言葉に、隣に立っている男性が答える。
「ああ、ネットで調べたんだ。
お前が最近大学の方で相当煮詰まってるみたいだったから、何か気分転換になればと思ったんだ」
「そうなのかい? ありがとう。
ここは面白い物が沢山有るね」
そんな話をしながら、二人はゆっくりと店内を見て回っている。
二人の話を聞いている限りでは、どうやら親しい友人同士のようだった。
ふと、背が高い方の男性が呟く。
「ああ、これは天球儀か」
背が低い方の男性も、興味深そうに天球儀を見ている。
「随分と古い型の天球儀だね。
ふふっ、僕の先輩が見たら喜びそうだ」
「そうなのか? 僕の後輩でも、こういうのが好きなやつが居るんだ」
金属の輪が何層にもなった天球儀は、仕入れると比較的早くに買い手が付く人気商品だ。天文趣味以外の人でも、案外魔術に興味があるという人も買っていったりする。二人は天球儀を見ながら、暫く話をして居た。話の中に『アンティキティラ島の機械は、流石に無いか』と言う言葉が出て来たけれども、そんな無理難題を言われても困ってしまう。それを置くのは博物館の仕事だと、真利は内心思う。
ふと、背が低い方の男性が、天球儀の横に立てられた古書を手に取った。その本は革張りで、背表紙には繊細な押し型で模様が入れられている。表紙は天文をモチーフにした図柄が押されている。この本を真利は天文学の本だと思って仕入れてきたので、天球儀の横に置いてあるのだ。
ただ、実際は何の本だかは、わかっていなかった。だから、本を見た小柄な男性が言った言葉に驚
いた。
「おや、錬金術の本じゃ無いか。懐かしいね」
思わず彼の方を向いて訊ねる。
「お客様、その本が読めるのですか?」
真利の言葉に、彼はにこりと笑って答える。
「はい、なんとか読めますよ。
これはラテン語以外にも色々な言語を交ぜて書いてありますからね、読むのは大変ですが」
もしかして彼は語学の研究者なのだろうか。この疑問を話すきっかけにしない手は無いと、真利はまた彼に訊ねる。
「なるほど、そうだったんですね。
随分とお詳しいようですけれど、言語学の研究をなさっているのでしょうか?」
「いえ、そう言うわけでは無いのですけれど、昔、少々錬金術を嗜んでいたので」
本を見ながら答える彼の言葉に、真利はどう返して良いのかわからなかった。錬金術を本当に研究している人が居るというのも驚きだけれども、そもそも錬金術は嗜む物なのかと、そんな疑問が湧いて止まない。彼の隣に立っている男性も、豆鉄砲を喰らったような顔をしている。
「え……? お前、錬金術……? え?」
「そう言えば君には話していなかったね。高校の時に、錬金術の研究をしていたんだよ」
何故彼は錬金術を研究しようと思ったのか、気にはなったけれども、それを訊ねる勇気は、真利には無かった。
革張りの本を持った彼がにっこりと笑って真利に言う。
「これも何かの縁ですから、この本を戴きます。おいくらですか?」
このままこの本を彼に売ってしまって良いのかどうか。それは不安だけれども、これも商売だから仕方が無いと、真利は電卓を出して売値を提示した。
あの本は高額な本だったけれども、袋に包んで渡したその時は、なんとなく彼から透けて見えていた疲れが薄らいだような気がした。だけれども、と呟く。
「錬金術師って、実在するんだ……」
未知の物に触れたという不思議な感覚が、湿気と共に身体に纏わり付いていた。