37:薄氷の張る頃
年が明けて暫く経ったある日のこと。海外へ仕入れに出ていた林檎も帰国し、いつも通りの平穏な日々を過ごしていた。
シムヌテイ骨董店では、冬から春の間、店の外に置いてあるテラコッタの器に水を張り、花を浮かべている。花屋で買ってくる物なので多少季節外れな花のこともあるけれど、心なしか暗く感じる冬の日に華やかさを添えられるのならばと、その様にしている。
レジカウンターの内側に入り、鋏と水仙を手に持つ。鋏で丁寧にボウルの中へと水仙の花を切り落としていく。冬に咲く花は沢山有るけれども、花束で手に入る花というのは案外少なく、どうしても水仙に偏りがちになってしまう。
「胡蝶蘭や、デンドロビウムも良いと思うけど、蘭は鉢でしか売ってないからねぇ」
ボウルいっぱいになった水仙を見ながら、ぽつりと真利が呟く。
いつのことだっただろうか、何処かの植物園に出かけた時、水が張られた器の中に、真っ青な翡翠葛の花が浮いているのを見て、ずっと飽きずに見ていた記憶がある。その時真利はまだ子どもで、どんな物も新鮮な物のように感じられていた。あの翡翠葛の花を思い出すと、思わず笑みがこぼれる。水仙の花を全部切り落とし終わった真利は、ボウルを持って外へ出た。身を切るように冷たい空気の中で、一輪ずつ丁寧に、テラコッタの器に張られた水の上に、水仙の花を浮かべていく。
寒々しい風と、冷えた水で手がかじかむ。この作業が終わったら、中で温かいホットワインを飲もう。そんな事を考えていると、足音が聞こえてきた。
「あー、真利さんお久しぶりです」
その声に顔を上げると、すぐそこにダウンコートを着た緑と、スタンドカラーのコートを着た恵が立っていた。
「ああ、緑さんも恵さんもお久しぶりです」
「お久しぶりです。何をなさっているのですか」
不思議そうに真利が持っているボウルと、テラコッタの器を見ている恵に、簡単に説明をする。
「お店の前を華やかにしようと、毎年寒い時期にはこうやって水にお花を浮かべてるんです。
鉢植えを置いたりお花を生けたりしても良いのでしょうけど、手入れが苦手なので、毎年こうしています」
それを聞いて恵は納得した様だ。
「確かに、鉢植えを見た目よく保つのは大変ですし、生けるのもバランスが難しいですよね」
そんな話をして居る間にも水仙の花を浮かべ終える。冷たいボウルを持って、真利が立ち上がる。それから、ふたりに声を掛けた。
「本日は、どちらのお店にご用ですか?」
ここに居ると言うことは、シムヌテイ骨董店かとわ骨董店のどちらかに用事があるのだろう。そう思った真利に、緑が困ったように笑って答える。
「後で林檎さんの所にも行くけど、まずは真利さんの所ですね。
こいつが仕事でかなり疲れてるみたいだから、気分転換にと思って」
「相変わらず、お仕事が大変なのですね。
ここは寒いでしょう、中へどうぞ。ホットワインもご用意しておりますよ」
真利が招くように店の扉を開いてそう言うと、緑が嬉しそうな顔をする。
「やった! 有りがたくいただきます」
「お前のその前向きな姿勢、見習いたい」
些か呆れたように恵はそう言うが、ふたりとも揃って店内へと入っていく。真利も続いて店に入り、扉を閉めた。
早速、水仙の茎を処理しがてらバックヤードからスツールをふたつ出し、緑と恵に掛けて貰う。そうしてから、真利はレジカウンターの裏に置かれた棚からカップをふたつ出す。ワイルドストロベリーの柄の物と、グリフィンが描かれた物だ。
真利はだるまストーブの上に置かれたホットワインを、まずはグリフィンが描かれたカップにおたまで注ぎ、緑に渡す。次にワイルドストロベリーの柄のカップにホットワインを注ぎ、恵に渡す。最後に、自分用のチャイナボーンに注ぎ、椅子に座った。
落ち着いた所で、真利が口を開く。
「所で、恵さんはかなりお忙しいようですけれど、結構勤務時間の長いご職業なのでしょうか。SEとか」
すると恵が、ひとくちホットワインを飲んで答えた。
「いえ、一応研究職です。仕事が忙しいだけで無く、結構嫌がらせの電話が掛かってくるので、その対応も偶にやらされるのでどうしても気疲れしますね」
「ああ、クレーム対応もなさっているのですか。それは大変ですね」
シムヌテイ骨董店にはあまりクレーマーと言った感じの人は来ないし、来たとしてもなるべく早めに追い出すようにしてはいるが、それをやりづらい職場となると、気苦労が絶えないだろうと言う事は想像に難くない。
ふと、緑がにっと笑って恵の頭を撫でる。
「でも、頑張ってんだもんな」
「あ、ああ」
恵が照れたような顔をしているけれども、こうやって気遣ってくれる友人が居ると言うのは、頼もしいことなのだろう。真利も、にこりと笑って恵に言う。
「どんな研究をなさっているのかは存じませんが、どんな物であっても無駄にはならないと思います。
頑張れ。と言うのは簡単ですが、今日は頑張るためにゆっくりひと休みなさって下さいね」
「はい。ありがとうございます」
恵も少し気が緩んだような笑みを浮かべる。今日ここに恵を連れてきた緑も、きっと仕事で大変な事はあるのだろう。勿論、ふたりを迎えている真利にだって、大変な事はある。それでもこういうひとときで、お互い少しずつ癒やされることがあるならばと、温かいワインをそっと口にした。




