17:墨を擦る
ゴールデンウィークも過ぎた頃、その日は曇りで、少し蒸していた。
「はぁ……少し暑いな。でも、冷房を入れるほどかと言うと……」
背中がじっとりとするのを感じながら、真利が呟く。真利は寒がりな方なので、自分が暑いと感じるのであれば大体の人は暑いのだろうと思うけれども、迂闊に冷房を入れると冷えすぎてしまう気がするのだ。
冷房を入れるか入れないか、暫く考えた末に、気が進まないと言った顔で赤い別珍の張られた倚子から立ち上がる。
「久しぶりに、サーキュレーターを出しますか」
バックヤードから取り出したのは、ワイヤーで脚とカバーが作られている、小型のサーキュレーター。空調の効率を上げようと購入した物なのだが、店内で余り風を起こすといろいろな物が飛んだり動いたりしてしまうので、滅多に使わなくなってしまった。
足下に置いて、入り口の方を向けていればそんなに影響は無いだろう。そう考えながら、サーキュレーターのプラグをコンセントに差し、後ろに付いているスイッチを入れる。羽根が回り、一直線に流れる風が店内の空気を撹拌した。
余り涼しくはなっていないが、無いよりはましだ。手の甲を頬に当てて温度を見る。特に顔が火照っていると言う事はなさそうだった。
レジカウンターに置かれた、氷を詰めた金属の器、その中には真っ赤なお茶が入ったカネット瓶が二本差してある。
中身が少ない方のカネット瓶を取りだし、棚から出したクリスタルガラスのタンブラーに中身を注ぐ。カネット瓶を元に戻した後、タンブラーを持って真利は指定席に座った。
赤いお茶は酸っぱいけれども爽やかだった。寒い時期にはホットで蜂蜜をたっぷり入れて飲むのだけれど、暑くなり始めるこの時期には、この方が良い気がした。
サーキュレーターが回る音を聞きながらお茶を飲んでいると、入り口が開いた。
「いらっしゃいませ」
タンブラーをレジカウンターに置いて、挨拶をする。入ってきたのは二人の男性。片方はかっちりとした身なりで華奢な体格。もう片方は、若干背が低くラフな格好をして居る。オペラの髪にカラフルなヘアピンを付けているのが印象的だ。
「えー、骨董店なんて初めて来た。
お前も良くこんな店探してくるよな」
「前に同居人をここに連れてきたことがあってな。お前も好きそうだと思って」
その会話を聞いて、真利は思い出す。華奢な男性の方は、以前ハルをここに連れてきた人物だ。
また訪れてくれたというのは嬉しいし、また別の友人を連れてきてくれたのも嬉しい。真利は微かに微笑んで、ふたりが店内を見るのを眺めていた。
「おー、すごい。これめっちゃ古いプレパラートじゃん?」
「そうだな。どうやらそれも、ちゃんと顕微鏡で見られるらしいぞ」
「マジでかすげぇな。
こっちの星座早見盤もおしゃれだな。でも何語かわからん」
「まぁ、少なくともエスペラントでは無いからな。これは……ラテン語に近いが」
どうやら星座早見盤に書かれている言語が気になっているようなので、真利がそっと声を掛ける。
「そちらはイタリア語の物になります」
すると、華奢な男性が納得した様に言う。
「なるほど、道理で。
イタリア語とラテン語はルーツが同じですしね」
「そうですね。少しややこしいですが、わかると面白い物です。
また何か気になる物がございましたら、お気軽にお訊ね下さい」
また暫く様子を見ていようと真利がそう言うと、背が低い方の男性がこう訊ねてきた。
「それじゃあ伺いたいんですけど、書道に関する物って有ります?」
書道。まさかいきなりそんな事を聞かれるとは思っていなかったので、真利は驚いた。
「お前は何を言ってるんだ。ここはどう見ても西洋骨董店だろう」
「え~。でも、無いとは言えないじゃん?」
そのやりとりに、思わずくすりとする。
「書道に関する物でしたら、隣のとわ骨董店に有るかも知れませんね。
そちらは、東洋骨董店なので」
真利が案内すると、ふたりは隣に行くか? いや、もう少し見る。と、言葉を交わしている。折角もう少し見ていくのならと、真利は声を掛ける。
「よろしければ、お茶を一杯如何ですか?
今日は少し暑いので、喉が渇いているでしょう」
「良いんですか? それじゃあ一杯いただきます」
「ありがとうございます。お言葉に甘えて」
返事を聞いてから、真利は白いグラスを二つ取り出して、カネット瓶に入っている赤いお茶を注ぐ。それを、店内を見ているふたりに渡した。
「なんかお世話になっちゃってすいません。
初めて来るのに」
「いえ、大丈夫ですよ。ゆっくりなさってください」
背の低い方の男性が、グラスに口を付けながら真利に訊ねた。
「良かったら、お名前を聞かせてくれますか?」
お客さんの方から名前を訊かれることも少なくは無いので、真利は戸惑い無く答える。
「僕ですか? 真利と申します。以後お見知りおきを。
よろしければ、あなたのお名前もお聞かせ願えると嬉しいです」
真利が名乗ると、背の低い方の男性が笑って返す。
「俺は緑って言います。
なんか真利さんって初めて会った気がしなくて、ここに居着いちゃいそう」
「ふふっ、時間があるのでしたら、どうぞ。
でも、隣のとわ骨董店もうちと同じ営業時間ですので、もし行くのでしたら気をつけて下さいね」
緑と真利で少しやりとりをして居ると、緑がちらりと、連れの男性を見た。彼も、軽く頭を下げて名乗る。
「僕は恵と言います。
あの、早速こいつが馴れ馴れしくしてしまって申し訳ないです」
「いえ、お構いなく。
僕もお客さんとお話が出来るのは、楽しいですから」
お茶を飲みながら三人で話して、その中で、緑が書道を嗜んでいると言う事を聞いた。そう言えば、と、思い出した真利が、とわ骨董店にアンティークの硯が入ったと言う事をふたりに伝えると、緑は興味を持ったようで、早々にグラスを上げて恵を急かす。少し困ったように笑う恵と、期待に溢れた緑。両方から空のグラスを受け取り、真利はふたりを見送った。