16:人形作家
染井吉野が散り、八重桜が咲き始めた頃。この日は快晴で、とても良い気分だった。
暖房を付けなくても暖かい、柔らかな空気に包まれて、真利はついうとうととしていた。
特に夜更かしはしていなかった筈なのだけれど。そう思っても瞼が重い。昨晩は、久しぶりにシムヌテイ骨董店のホームページに手を入れたから、それで疲れてしまっているのかも知れない。眠気に任せて目を閉じると、汽車の窓の外にふわりと光る大きな十字架が見える、そんな光景が浮かんだ。あれはサザンクロス? それとも、ノーザンクロス? どちらだっただろう。
水から上がったような気怠さと幻想的な空想を楽しんでいると、眩しい光を瞼越しに感じた。
「真利さんおひさー!」
「えっ? あ、いらっしゃいませ」
慌てて顔を上げ反射的に挨拶をすると、扉の前には顔なじみの女性客が居た。
「居眠りなんて、相変わらずのんびりしてるね。
まぁ、だからこの店は居心地が良いんだけど」
「お恥ずかしいところをお見せして申し訳ありません。
彼方さんと会うのは久しぶりですね。去年の個展の前に会ったきりでしょう」
「そうねー。去年は結構制作で忙しかったから」
真利と話をしながら、彼方と呼ばれた女性が店内を見て回る。鮮やかな蒼が毛先に行くにつれて桃色になっている髪を、ゆるいヘリンボーンにして背中で揺らしている。背が高い訳では無いけれど、ぴったりとしたカットソーの上から見るだけでも、身体が鍛えられているのがわかる。もっとも、鍛えられている理由が運動などではないと言うことを真利は知っているが。
「去年の個展のフライヤー、うちに良く来てくれるお人形好きの子に渡したら、喜んでいましたよ」
「マジかー。そうなると頑張って新作作らないとって気になるね」
彼方は、人形作家だ。もちろん、人形の制作販売だけで生活が出来ているわけではない。彼女はカメラの専門学校を卒業したとかで、普段はカメラ屋でアルバイトをして居る。最近は、新宿に有るスタジオでカメラマンとしての仕事もしているらしい。
「なんか珍しいカボッション的な物無い?」
ヴィンテージビーズが並んでいる別珍張りのトレイを見ながら、彼方が問いかける。
「カボッションですか。また、お人形の目にするんですか?」
「うん。前回のサフィレットが好評だったから、また良いの有ったらやりたいなって」
「なるほど」
倚子から立ち上がった真利が、彼方の隣に行き、棚の引き出しを開ける。木の引き出しの中には別珍で蔽われた仕切りがあって、その上に埃除けのアクリル板が蓋代わりに置かれている。
アクリル板を外し、仕切りの中に入っている、カラフルな半円形ガラスを幾つかとりだし彼方に見せる。よく見るとそのガラスの中には、ちらちらと光の加減で光る粒子が入っていた。
「こちら、ドラゴンブレスというのですけれど、珍しい物になるかと思います。
現在も製造されている品物ですけれど、きれいですよ」
真利からドラゴンブレスを数個受け取った彼方は、反対側の壁に有る窓に寄って、ひとつずつ光に透かしている。
「おおー、確かに。
これ、サイズって色々有る?」
「サイズですか? そうですね、物に寄りますが、全体で見れば六ミリから二十ミリまで揃えております」
「そっかー」
確か、前に彼方が買っていってお人形の目にしたのは、八ミリのサフィレットだったはず。今度作る人形が極端に小さいか、大きいかでもしない限りは六ミリから十ミリの間で事足りるはず。アクセサリーに加工するお客さんのことはもちろん、彼方のようなケースも考慮に入れて今回は仕入れてきた。
窓辺から戻ってきた彼方が、引き出しの中のドラゴンブレスをまじまじと見る。紅色の物、蜂蜜色の物、緑色の物。どれも角度を変えると、青い粒子が浮かび上がる。
「うーん、眼球にするなら緑が鉄板だけど、黄色も良いな……赤も何か、この世ならざる物って感じがしていいし……」
視線をあちこちに動かし悩んでいる彼方に、真利が意地悪そうに微笑んで言う。
「彼方さん」
「はい?」
「ドラゴンブレスは、サフィレットよりもだいぶお安くなっておりますので」
「いあああああ悪魔の誘惑がー!」
真利の言葉に彼方は頭を抱えているが、自分の経済状況を無視してまで無理をする事はないと言うのが、真利にはわかって居る。だからこそ、こんな意地悪をしてしまうのだ。
しかし、それはそれとして、彼方は若干優柔不断だ。このままドラゴンブレスの前に立たせておいても、どれを買うか以前に買うかどうかも判断できないだろう。真利は一旦彼方から離れ、木の折りたたみ椅子をレジカウンターの前に出して、彼方に声を掛けた。
「取り敢えず、お茶でも如何ですか?
先日、美味しい烏龍茶を買ったんです」
「烏龍茶? どこの?」
「えっと、阿里山ですかね」
「やったぜ、阿里山好きなのだぜ」
「それは良かったです。それでは、準備しますね。こちらにお掛け下さい」
彼方に掛けて貰い、真利はレジカウンターの裏でお茶の準備をする。銀色のジップ付き袋に入ったころころした茶葉を、ティーポットに入れる。それからお湯を注ぎ、一旦バックヤードまで持っていき水道で一煎目を捨てた。店内に戻りもう一度お湯を注ぎ、蒸らしている間にカップの用意をする。真利がいつも使っているチャイナボーンと、パッションフラワーやパンジーが描かれたティーカップのふたつだ。
「なんかさぁ、この、どう考えても喫茶には適してない設備で、わりかし本気でお茶淹れるよね」
「そうですか? 結構適当に淹れてますけど」
雑談をしながら、蒸らしたお茶をカップに注ぐ。爽やかな青い香りがした。
「ゆっくり悩んでいって下さいね。
まぁ、すぐには無くならないと思いますので」
「うん。ゆっくり考える」
彼方が熱いお茶に口を付けて、味と香りを楽しむ。
ふと、真利が思い出した。
聞香杯で香りを聞くのを忘れた……
折角の良質な烏龍茶で香りを聞き忘れたのは惜しいけれども、彼方は満足そうにして居るし、それほど気にしなくても良いかと、真利もお茶に口を付けた。