15:バターと小麦粉と
その日はシムヌテイ骨董店の定休日で、真利は朝からキッチンで作業をして居た。
「うーん、粉を振るうのも大変なんですねぇ」
台の上に乗せたボウルに、小麦粉を降り積もらせる。小麦粉は、真利が右手に持っている把手付きの金属の器から出て来ている。把手に付いたレバーをカシャカシャと握ると、網が張ってある器の底から、サラサラになった小麦粉が落ちてくるのだ。
大変と言いながらも、特に疲れた様子も見せずに真利は粉を振るう。そうしている内に、器の中の小麦粉は空になった。
その小麦粉に、常温にして練ったバターを入れ、卵を入れ、砂糖を入れて良く練り合わせる。初めはぽろぽろして居たけれども、次第に手で練ることが出来るようになった。手に薄手の手袋を着け、生地を纏めるように練る。それから、ぴったりとラップをして、ボウルごと冷蔵庫に入れた。
「さて、何をして待ちましょうかね」
生地を寝かせている間は、特にやる事がない。取り敢えず、もう用が済んだ調理器具を洗っておく事にした。
生地を冷蔵庫で寝かせている数時間の間、真利はゆっくりと本を読んでいた。今読んでいるのは、神保町の古書店で買ってきた学術書だ。日本国の美術と宗教、その関わりを論じた論文で、その切り口は実に多彩だった。
「……こういう本を読むと、学生時代にきちんと日本史をやっておけば良かったと思うねぇ」
壁に掛けた木製の時計に目をやり、しおりを挟んで本を閉じる。生地を寝かせる時間は、もう十分に取った。
ベッドが置かれたワンルームに、折りたたみ式のテーブルを広げ、天板の上に大きなシートを敷き、蔵庫からボウルを取りだしてシートの上に小麦粉をふるう。その上にラップを剥がした生地を乗せ、麺棒で平たく伸ばした。
そして取り出したのは、普段食事の時に使っている鉄製のナイフ。それを使って、生地の四隅を切り、四角く整える。整えた生地を、大体同じ大きさの長方形に切っていった。
「さて、オーブンの予熱は出来ているはずだし」
オーブンの下から取り出したプレートを軽く濡れティッシュで拭き、クッキングシートを敷く。それから、少しずつ間を開けて、長方形の生地を並べていく。
「薄く伸したから、十五分で良いかな?」
熱を持ったオーブンの中に、プレートを入れて、タイマーをセットする。これからまた焼き上がるまで暫く暇だ。オーブンが正常に動いているのを確認した真利は、ベッドに腰掛けて再び本を開いた。
それを繰り返すこと四回。生地の切れ端も含めて、全部焼き上がった。ロットごとに焼き上がりは若干違うけれども、焼けた切れ端を試しに食べると、軽い歯触りで口の中でほろりと崩れた。
「うん、これだけ出来れば上等かな?」
くすりと笑って、真利は冷蔵庫に向かう。中から取りだしたのは、ピンク、水色、白、茶色の、四色のチョコレートペンだ。
四本セットで袋に入ったチョコレートペンの使い方を見ると、温めてから使うようにと書いてある。
「おや、温めないと使えないのか。
まぁ、チョコレートだしそれもそうだね」
納得した様に呟いた後、温め方を確認して、袋を開けた。
それから数日後、シムヌテイ骨董店を開けた真利は、早速隣のとわ骨董店へと入る。
「林檎さん、お邪魔します」
「あらいらっしゃい。
今日はどんな話が有るのかしら」
香炉に火をくべながら林檎が笑う。雲母の板の上で燻る香は、どうやら白檀のようだ。
真利が手に持っていたワックスペーパーの袋を林檎に差し出して言う。
「先日戴いたオランジェットのお礼です。
受け取っていただけますか?」
それを聞いた林檎は、素直にワックスペーパーの袋を受け取る。
「あらありがと。
木更さんと理恵さんの分のお礼はあるの?」
「もちろんです。
別に包んで分けてありますよ」
「そっか。それじゃあ遠慮無くいただいちゃって良いわね。
あ、真利さんも食べていく? 良かったらお茶淹れるけど」
「良いんですか? それじゃあお言葉に甘えて」
林檎がレジカウンターに袋を置き、いつも使っている丸いスツール以外に、裏から折りたたみ式の木の倚子を出す。真利はそれに腰掛けた。それから、林檎はレジカウンターの裏の棚から瀬戸物のカップをふたつ出し、ポットから急須にお湯を注いで、少し蒸らしてカップにお茶を注いだ。
「少し渋めにしたわよ」
「はい、ありがとうございます。
甘いお菓子ですから、渋いお茶が合うと思いますよ」
真利がお茶の入ったカップを受け取った後、林檎がワックスペーパーの袋を開ける。中に入っているのは、カラフルなチョコレートで模様が描かれたクッキーだった。
林檎が一枚取りだし、真利も一枚取り出す。さくっとした音を立てて囓ると、焼きたてとはまた違う味がした。
「随分とたっぷりバターが入ってるのね」
「そうですね。バターは少し多めの方が、口当たりが良いですから」
バターと小麦粉と、チョコレート。それを味わいながら、今日は理恵と木更のふたりは来るのかなどと言う話を、真利と林檎のふたりでしたのだった。