10:タイプライター
残暑も過ぎ過ごしやすくなってきたある日。その日は快晴で、空に浮かぶ雲がかえって眩しいくらいだった。
眩しい窓の外とは対照的に、暖色照明で照らされているとは言え薄暗いシムヌテイ骨董店の中で、真利は指定席に座ったままうとうととしている。先日、神保町の古書店で買ってきた本を、昨晩遅くまで読み耽ってしまっていたのだ。ひとりの詩人が地獄を旅する叙事詩。六百年ほど昔に書かれたベストセラーだと、学生時代に授業で習った。
上野に、地獄の門があるんだっけ。
重い瞼が降りてくるのにも逆らわず、ぼんやりとそんな事を考える。店内は穏やかで暖かい空気で満たされていた。
意識が吸い込まれるように混濁していく。その時のことだった。隙間から眩しい日光を零しながら、店の扉が開いた。
「あっ、いらっしゃいませ」
慌てて目を開き、入り口の方を向く。入ってきたのは白に近いさらりとした髪を顎のラインで切りそろえている、背の高い男性だった。体つきは、ややしっかりしているだろうか。
彼は物珍しそうにきょろきょろと店内を見回し、入り口の脇に置かれている鉢植えの木を見た。
「へぇ、もしかしてルタかな? 本物は初めて見た」
そう呟くので、真利が声を掛ける。
「そうです。それはルタですよ。
ルタがお好きですか?」
真利の問いかけに、彼は髪の毛を耳に掛け、じっくりとルタの木を見ている。
「好きというか、気にはなっていたんです」
「そうなんですか? 何故でしょう」
「オフィーリアが持っていた花束に、ルタが入っていたなと思って」
オフィーリアが持っていた花束。その言葉を聞いて、真利は更に問いかける。
「演劇がお好きなんですか?」
彼は真利の方を向いて、微笑んで言う。
「はい。昔から演劇が好きで、今は舞台の裏方の仕事をしながら、脚本を書いています」
「脚本ですか。なかなか書くのが難しいと思いますが、素敵なことを為さっているのですね」
「ふふっ、ありがとうございます」
少しだけやりとりをして、男性はまた店内を見回す。ガラスと真鍮で出来たコスチュームジュエリーを見て、棚の上に置かれた木箱に入った博物画を見て、それから、棚の端の方に置かれたタイプライターに目をやった。
彼はタイプライターに近づき、興味深そうに、けれども触れないように慎重に、顔を近づけて、じっくりと見ている。
暫くして、彼が真利の方を向いて訊ねた。
「このタイプライターは、まだ使えますか?」
「そのタイプライターですか?
残念ながら、中の部品が傷んでいるようで、動かないんですよ。
修理をしようにも国内にそう言ったお店が有るとは聞きませんし、難しいかと」
その言葉に、彼は少しだけ残念そうな顔をする。
「使えないんですか、それは残念です。
ああ、でも、このタイプライター欲しいなぁ」
「そうですね。アンティークにはどれにでも言えるのですけれど、殊更にタイプライターには浪漫というか、物語が詰まっているような気がします」
後半はは半ば独り言になっている彼の言葉に真利が返すと、彼はうっとりとした声で訊ね返してきた。
「このタイプライターは、おいくらですか?」
「そちらですか? 動かないのでいくらかお安くはなっていますが……」
真利は倚子から立ち上がり、電卓を打って彼に価格を見せる。すると、彼はそれを見て驚いた顔になった。それもそうだろう、いくらお安くなっているとは言え、決して安価なものでは無い。
「結構、するんですね」
「そうですね。動かないことを考えると、やはり高い買い物かとは思います」
電卓と、タイプライター。ふたつの間で視線を動かし、彼は悩む素振りを見せる。暫く悩み、それでも。と呟いて、彼は意を決したように真利に言う。
「このタイプライターをいただきたいのですが」
「ありがとうございます。
お持ち帰りはどうなさいますか? 住所を控えさせて戴ければ、着払いで宅配も出来ますが」
「えっと、ちょっと持ってみても良いですか?」
「はい、構いませんよ」
購入する意思を見せる彼に、真利は素直にタイプライターに触らせる。重さがわからないと、宅配にするべきか自力で持ち帰るべきか、判断できないだろうと思ったのだ。
少し強張った手つきで、タイプライターを持ち上げる彼。その表情は少し安心した様子だった。
「これくらいなら持って帰れます。
袋を付けて戴けると嬉しいのですが」
「勿論でございます。袋と言いますか、箱に入れて持ち運び用の把手をお付けしますね」
真利はタイプライターをレジカウンターまで運び、カウンターの下に置いてあった段ボールにそっと入れる。隙間には、丸めたクラフト紙を緩衝材として入れた。その箱を紐で括り、プラスチック製の把手を付ける。
「お待たせ致しました」
会計を済ませ、把手を付けたその箱を男性に渡すと、この上なく満足そうな顔をしていた。




